今回は楠本いねを取り上げるぞ。シーボルトの娘で、自分も蘭方医学を勉強して産科医になった女性なのですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新と蘭学者に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、楠本いねについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、楠本いねは長崎の生まれ

image by PIXTA / 44721591

楠本いね(くすもと)は、文政10年(1827年)、長崎出島のオランダ商館に赴任していた父ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、母瀧の長女として祖父佐兵衛の住む長崎銅座町で誕生。

父シーボルトがオランダ人と称していたので、オランダおいねと呼ばれたことも。戸籍ではイ子となっているそうですが、ここではいねで統一。

1-2、イネの父シーボルト

シーボルト 川原慶賀筆.jpg
川原慶賀 - 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツ人ながらオランダ人と偽ってまで日本研究のために来日、鳴滝塾を開いて当時の最新ドイツ医学をなまりのあるオランダ語で門下生に教えたことで有名。シーボルトが開いた鳴滝塾には、高野長英など日本中から50人ほどの蘭学者が集まり、医学、薬学、動植物学、物理学などを学び、日本の蘭学医に多大な影響を与えたということ。

シーボルトは帰国後、持ち帰った資料をまとめて出版したりと、ヨーロッパにおける日本研究の第一人者に。尚、シーボルト事件で国外退去の30年後に再来日。

1-3、いねの母瀧

Kusumoto Otaki (1807-1865), aka Sonogi.jpg
Carl Hubert de Villeneuve (1800-1874) ad nat. del. (drawing after life). F. or T. E?????ber del. (drawing) - book Ph. F. von Siebold: Nippon : Archief voor de beschrijving van Japan en deszelfs toegevoegde en cijnsbare landen etc., Leiden 1832. Geheugen van Nederland, パブリック・ドメイン, リンクによる

いねの母の瀧(お滝)は、商家の娘であったが、実家が没落し、其扇(そのおうぎ、そのぎ)という名の出島のオランダ人向けの遊女となりシーボルトとの間にいねを出産。または、瀧は普通の商家の娘だったが、シーボルトが見初め、遊女でないとオランダ商館へは入れないため遊女の形式をとったうえでシーボルトと暮らすようになり、いねを出産という説も。

シーボルト帰国後は再婚したが、瀧(長崎通詞に代わりに書いてもらった)シーボルトとの手紙のやり取りはあり、ドイツのシーボルト関係の資料に瀧からの手紙が残っているということ。シーボルトはおたきさん(オタクサ)と呼んでいたということで、紫陽花の学名オタクサがイネの母の名であることは有名。

1-4、いね、父と別れる

いねは、出島で育ったが、父シーボルトが文政11年(1828年)、5年の任期の後、帰国するための船から、国禁となる日本地図、葵の紋つき等の持ち出しが発覚 (シーボルト事件)、いねが2歳7ヶ月の時に国外追放に。

その後いねは、母瀧の叔父の家に移り、その後、母が回漕業者俵屋時次郎と再婚したため、いねも母と一緒に俵屋に移り住むことに。

シーボルトは事件が発覚しなければ再来日をするつもりでいたが、追放となったために出来る限りの金品を残し、二宮敬作ら弟子たちにくれぐれもいね親子を頼むと言い置き、自分の肖像画を瀧といねに残し、自分はいねと瀧の肖像画と共に髪を入れた螺鈿の箱を作らせてそれを大事に持って出国したそう。

二宮敬作らは、シーボルトを神のように尊敬していたのはもちろん、幕府の禁制品の入手経路を厳しく問われても弟子たちに累が及ばぬよう話さなかったことも感謝していたので、その恩義に報いるためにいねの成長を見守ったということ。

いねは記憶にない父のことを父の弟子たちから聞かされて育つうちに、自分も医学を志すようになったのでは。

1-5、いねの子供時代

母瀧の叔父のもとで育ったいねは、5歳くらいから寺子屋に通い、読書が好きで学識欲が強い子供だったが、女に学問は不要で家事修行をさせようとする母瀧と対立したそう。瀧からシーボルトへの手紙にも、「 いねははや 6、7 歳になりましたが、心根は男々しく遊びも男の子のようで、仮にも女の子の遊びに夢中になることはありませんでした」とあり、書道や三味線、裁縫を習わせたということで、母瀧はこういうことが女の子にとって大切だとするものの、「あなた様の名声が日本国中に伝わっていましたので、おいねはいつもオランダの学問について学ぶことができると考えて」いるといい、すでに女性としての立ち居振る舞いが出来ているのに嘆かわしいとだと述べているとうこと。

とはいえ、母瀧も、いねが父シーボルトの存在を誇りとして父の名に恥じない人生を送ることを望んでいたようで、「あなたはただの子ではありません。地球に美名をあらわす人の子としてはその心がなければ志はかなわぬことなので、露ほども父上の名を汚してはなりませんよ」と、明けても暮れても教え諭したそう。

\次のページで「2-1、いね、医学を志す」を解説!/

2-1、いね、医学を志す

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いねは18歳になったときに長崎の母のもとを離れて、宇和島の二宮敬作のところへ行き蘭方医になりたいと敬作から外科学を学んだが、女性なので産科医がいいとすすめられて、備前岡山で産科を開業していた同じシーボルトの弟子で友人の石井宗賢のもとに19歳のいねを送り出したということ。

母の瀧はいねが学問をすることを好まなかったようですが、シーボルトへいねが二宮敬作の元へ行ったことは、長崎通詞に書いてもらった手紙を送って知らせたということで、「弘化2年(1845 年) 2 月においねは伊予国へ一人で旅たちました。あなた様の門人二宮敬作がおりますので」と書いた手紙が。

2-2、いね、石井宗賢にレイプされ未婚の母に

いねは産科学を学ぶつもりで岡山に行ったはずが、25歳のとき二50歳過ぎの石井宗賢にレイプされ妊娠、たったひとりで出産をすませ、長崎に帰ることに。石井夫人はいねに謝罪して子供を養女にすると言ったが、いねは拒絶したということ。

いねは生まれてきた女の子「天がただで授けたもの」という意味でタダと命名(後に、宇和島藩主でお世話好きの伊達宗城にすすめられて「高」に改名)。

その後、このことを知った二宮敬作は激怒、宗謙は他のシーボルト門下生から非難され総スカンに、もちろんいねは子供の高子にも話すほど宗謙のことを激しく憎んだそう。

2-3、いね、宇和島で村田蔵六に出会う

二宮敬作は再び宇和島にいねを招いて開業させ、いね親子は、宇和島8代藩主伊達宗城公と奥方に謁見、藩主の奥方はいねの娘たか子を寵愛して養育し、いねは奥方の診察もするまでに気に入られたそう。

尚、いねはシーボルトの日本の名前「朱本」を使っていたが、伊達宗城の命令で、母瀧の先祖が楠正成に関係あるとして「楠本」姓に。また「いね」を、伊達の「伊」と、シーボルトの「篤(と)」に変えさせたそう。

当時宇和島には、緒方洪庵塾の塾頭だった蘭学医の村田蔵六(大村益次郎)が、伊達宗城の要請を受けた二宮敬作が、蘭学者ネットワークで緒方洪庵先生の推薦で招いていて、蘭学の翻訳や教授、黒船や砲台作りなどに携わっていたが、二宮敬作の頼みで村田蔵六は、いねにオランダ語を教えることに。

二宮敬作の愛情
二宮敬作は、シーボルトの鳴滝塾で学び、これほどの腕の外科医はヨーロッパにもいないといわれた人ですが、故郷の宇和島に帰って開業して暮らしていたというちょっと変わった人。シーボルト事件では獄中につながれたが、無事に許され、シーボルトへの恩と約束からも、いねの成長を見守り、いねが可愛くて気の毒でと、ひたすらいねの幸せといねの蘭学が進むことを願っていたそう。

しかし敬作は、自分は酒乱で酔っぱらうと刀を振り回すことすらあるので、いねに万一ひどいことをするやもという懸念から、宇和島に来た村田蔵六(大村益次郎)を見込んで、自分の代わりにいねへのオランダ語や医学教授を頼んだということ。「花神」によれば、宇和島に残る二宮敬作の所蔵書に、「おいねを思う」と走り書きがあるほど、いねのことを常に思いやっていた優しい人。

2-4、シーボルト再来日

いねと二宮は、シーボルトの再来日に備えて、後に娘の夫となる二宮の甥で医師の三瀬周三と共に長崎へ戻り、母が銅座町で営む油屋の隣で開業、診療を開始。名医の二宮のもとには多くの学生が集まったそう。

シーボルトは、安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約で追放処分が取り消しとなり、翌年再来日。いねも父シーボルトと長崎で再会。父はいねには異母弟にあたる13歳のアレクサンダーを連れて来ていたが、父シーボルトは、立派に育ち、医師となったいねに感動を隠せなかったということ。いねの方は肖像画でしか知らない父と再会して感動するよりも、がっかりしたようで、医師として勉強したいいねと、側に置きたい父シーボルト(ここ30年医師としてじゃなく学者として日本に関する研究をしていたし)というギャップも。シーボルトは、瀧が売ってしまい荒れ果てていた鳴滝を買い戻して住居を構え、昔の門人たちと交流し、日本研究を続けて、文久元年(1861年)、幕府の外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義するなど3年ほど滞在して離日。

二宮敬作の甥である周三は、このときシーボルトに師事し、同時にシーボルトの息子アレキサンダーに日本語を教え「日蘭英仏対訳辞典」をまとめたということ。

\次のページで「2-5、いね、シーボルトの娘として外国人の評判に」を解説!/

2-5、いね、シーボルトの娘として外国人の評判に

Ine Kusumoto.jpg
不明 - http://bakumatsu.org/men/view/229, パブリック・ドメイン, リンクによる

いねの弟のアレクサンダーは16歳のときイギリス公使館の通訳官となって、父の帰国後も日本に滞在し、異母姉のいねと仲が良くなったようで、新しい医学知識を欲するいねのために横浜にお医者さんが来たとか、横浜から長崎に行く外国人に姉をよろしくと伝えるなど、微笑ましい関係に。

また、父シーボルトはドイツに帰っても、日本通として日本に行く前に事情を聞きにくる人が多かったが、シーボルトはその人たちに日本にいる娘のいねの話をしたということで、いねは日本へ来る外国人の間で、日本通のドクトル・フォン・シーボルトの娘で医師である女性として、かなり畏敬の存在だったということ。

尚、文久2年(1862)3月12日、シーボルトが長崎を去った夜に、二宮敬作は脳出血のために他界。いねは、恩人敬作の遺骨を分骨して、皓台寺(こうだいじ)の高台に墓を建てたということ。

2-6、いね、ポンぺにオランダ医学を学ぶ

いねは、安政6年(1859年)医学伝習所でヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、文久2年(1862年)からは、ポンペの後任のアントニウス・ボードウィンに学んだということ。またオランダ医師マンスフェルトにも産科を学んだそう。医学伝習所は幕府の海軍伝習所の付属で、いねは正式な学生ではなく当時蕃書調所にいた大村益次郎の尽力などもあって、助手のようなかたちで講義を受けられたということ。

2-7、村田蔵六との師弟関係

村田蔵六こと大村益次郎は、適塾の塾頭だったエリート蘭学医で、翻訳も目の覚めるような的確な教授ぶりだったということですが、どう見てもアスペルガー症候群で不愛想な人、一応故郷には琴という妻がいたし、火吹き達磨といわれたご面相と美貌のいねとの関係が恋愛とかましてや不倫とかであるはずがない、いねは純粋に蘭学の先達として尊敬し、同じ学問の話題で盛り上がれる間柄だったとは思うのですが、宇和島でオランダ語を教授された後もいねとは付き合いがあったよう。

そして大村が京都でテロ暗殺で襲撃された後、大坂でオランダ人医師ボードウィンに手術を受けるなど当時としては最高の治療を受けたのですが、偉くなっていたので左足切断の許可を得るのに手間取り、敗血症で命取りに。いねは知らせを聞いて開業していた横浜から駆け付け、大村を看護して最期を看取ったということ。

3-1、いね、東京で開業し、皇室のお産にもかかわる

明治4年(1871年)、いねは異母弟のアレクサンダーと後で来日したもうひとりの異母弟のハインリヒ兄弟の支援を受けて、東京の築地に産科を開業。また福澤諭吉の口添えで宮内省御用掛となり、金100円が下賜されて、明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、医学技術を高く評価されたということ。また、異母弟ハインリヒと妻岩本はなの第一子の助産も担当したがその子は夭折したそう。

3-2、その後のいね

明治8年(1875年)に医術開業試験制度が始まったが、いねは女性で受験資格がなく受験できず、晧台寺墓所を守ろうと東京の医院を閉鎖して長崎に帰郷。その後父シーボルトの残した鳴滝塾が取り壊されたことで、一時長崎に帰り、父の意志を継いで、鳴滝の土地の確保と保存に尽力。現在は鳴滝塾跡は保存され、横には長崎市営のシーボルト記念館が建っているということ。

明治17年(1884年)、女性にも医術開業試験の門戸が開放されたが、いねは57歳になっていたため受験を断念して助産婦として開業。そして62歳のときに、娘高子一家と同居するために再上京。以後は弟ハインリヒの世話となって余生を送り、明治36年(1903年)食中毒のために、77歳で死去。

\次のページで「3-3、いね、シーボルトの子孫たち」を解説!/

3-3、いね、シーボルトの子孫たち

日本でのいねの子孫は楠本家と米山家となっていて、シーボルトのドイツの子孫とも交流。資料についてはハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫で、シーボルト研究家の関口忠志を中心に日本シーボルト協会が設立され、子孫、研究者によって資料を委託されたシーボルト記念館、二宮敬作の出身地の愛媛県西予市の資料館が研究を続けているそう。

医学への探求心を持ち続け、偉大な父に近づこうとした自立した女性

楠本いねは著名なシーボルトの娘として生まれ、女性として学問は不要と言いながらも立派な父の名を汚さないようにと唱える母瀧、優しく見守り蘭学を教えてくれる父の弟子たちの影響で、ごく自然に日本初の蘭学女医となったひと。

この当時は男性も伝手を頼ってあちこちの塾へ入って勉強したものですが、ほぼ本を読みこなして会得する独学に近いものだったよう。いねはオランダ語の医学書を読み、疑問点を先輩医に聞きさらに道を究めるために、宇和島や長崎、横浜と移動しつつ勉強する意欲はかなりのもの。これはやはり父シーボルトの探求心を受け継いだとしか思えないことで、二宮敬作も尊敬するシーボルトに似ているいねが可愛かったはず。

30年後の父シーボルトとの再会はほろ苦いものであったようですが、年の離れた異母弟たちにも尊敬され最後に一緒に暮らしたのは、やはりいねの学究心や生きる姿勢がシーボルト家の一員として通じるものがあったからでは。

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日本史明治明治維新歴史

シーボルトの娘「楠本いね」日本最初の蘭方女医について歴女がわかりやすく解説

今回は楠本いねを取り上げるぞ。シーボルトの娘で、自分も蘭方医学を勉強して産科医になった女性なのですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新と蘭学者に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、楠本いねについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、楠本いねは長崎の生まれ

image by PIXTA / 44721591

楠本いね(くすもと)は、文政10年(1827年)、長崎出島のオランダ商館に赴任していた父ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、母瀧の長女として祖父佐兵衛の住む長崎銅座町で誕生。

父シーボルトがオランダ人と称していたので、オランダおいねと呼ばれたことも。戸籍ではイ子となっているそうですが、ここではいねで統一。

1-2、イネの父シーボルト

シーボルト 川原慶賀筆.jpg
川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツ人ながらオランダ人と偽ってまで日本研究のために来日、鳴滝塾を開いて当時の最新ドイツ医学をなまりのあるオランダ語で門下生に教えたことで有名。シーボルトが開いた鳴滝塾には、高野長英など日本中から50人ほどの蘭学者が集まり、医学、薬学、動植物学、物理学などを学び、日本の蘭学医に多大な影響を与えたということ。

シーボルトは帰国後、持ち帰った資料をまとめて出版したりと、ヨーロッパにおける日本研究の第一人者に。尚、シーボルト事件で国外退去の30年後に再来日。

1-3、いねの母瀧

Kusumoto Otaki (1807-1865), aka Sonogi.jpg
Carl Hubert de Villeneuve (1800-1874) ad nat. del. (drawing after life). F. or T. E?????ber del. (drawing) – book Ph. F. von Siebold: Nippon : Archief voor de beschrijving van Japan en deszelfs toegevoegde en cijnsbare landen etc., Leiden 1832. Geheugen van Nederland, パブリック・ドメイン, リンクによる

いねの母の瀧(お滝)は、商家の娘であったが、実家が没落し、其扇(そのおうぎ、そのぎ)という名の出島のオランダ人向けの遊女となりシーボルトとの間にいねを出産。または、瀧は普通の商家の娘だったが、シーボルトが見初め、遊女でないとオランダ商館へは入れないため遊女の形式をとったうえでシーボルトと暮らすようになり、いねを出産という説も。

シーボルト帰国後は再婚したが、瀧(長崎通詞に代わりに書いてもらった)シーボルトとの手紙のやり取りはあり、ドイツのシーボルト関係の資料に瀧からの手紙が残っているということ。シーボルトはおたきさん(オタクサ)と呼んでいたということで、紫陽花の学名オタクサがイネの母の名であることは有名。

1-4、いね、父と別れる

いねは、出島で育ったが、父シーボルトが文政11年(1828年)、5年の任期の後、帰国するための船から、国禁となる日本地図、葵の紋つき等の持ち出しが発覚 (シーボルト事件)、いねが2歳7ヶ月の時に国外追放に。

その後いねは、母瀧の叔父の家に移り、その後、母が回漕業者俵屋時次郎と再婚したため、いねも母と一緒に俵屋に移り住むことに。

シーボルトは事件が発覚しなければ再来日をするつもりでいたが、追放となったために出来る限りの金品を残し、二宮敬作ら弟子たちにくれぐれもいね親子を頼むと言い置き、自分の肖像画を瀧といねに残し、自分はいねと瀧の肖像画と共に髪を入れた螺鈿の箱を作らせてそれを大事に持って出国したそう。

二宮敬作らは、シーボルトを神のように尊敬していたのはもちろん、幕府の禁制品の入手経路を厳しく問われても弟子たちに累が及ばぬよう話さなかったことも感謝していたので、その恩義に報いるためにいねの成長を見守ったということ。

いねは記憶にない父のことを父の弟子たちから聞かされて育つうちに、自分も医学を志すようになったのでは。

1-5、いねの子供時代

母瀧の叔父のもとで育ったいねは、5歳くらいから寺子屋に通い、読書が好きで学識欲が強い子供だったが、女に学問は不要で家事修行をさせようとする母瀧と対立したそう。瀧からシーボルトへの手紙にも、「 いねははや 6、7 歳になりましたが、心根は男々しく遊びも男の子のようで、仮にも女の子の遊びに夢中になることはありませんでした」とあり、書道や三味線、裁縫を習わせたということで、母瀧はこういうことが女の子にとって大切だとするものの、「あなた様の名声が日本国中に伝わっていましたので、おいねはいつもオランダの学問について学ぶことができると考えて」いるといい、すでに女性としての立ち居振る舞いが出来ているのに嘆かわしいとだと述べているとうこと。

とはいえ、母瀧も、いねが父シーボルトの存在を誇りとして父の名に恥じない人生を送ることを望んでいたようで、「あなたはただの子ではありません。地球に美名をあらわす人の子としてはその心がなければ志はかなわぬことなので、露ほども父上の名を汚してはなりませんよ」と、明けても暮れても教え諭したそう。

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