鑑真さま行かないで!
いざ日本行きを決めた鑑真とその弟子たち。しかし、本当の困難はここからでした。
743年の夏、第一回目の日本への渡海計画がはじまります。ところが、この段階になってもまだ日本へ行きたくない弟子がいました。彼はお役所へ駆けこむと、「日本から来た僧侶たち(栄叡と普照)は実は僧ではなく海賊だ!」と訴えたのです。残念なことに、お役所はこの話を信じてしまいます。それで、鑑真の渡海は果たせなくなりました。
しかし、こんなことがあっても鑑真はあきらめません。翌年の1月には第二回目の渡航が試みられました。用意周到に準備し、いざ、日本へ……と意気揚々と出発したところでひどい嵐に遭遇して一旦帰港を余儀なくされてします。そして、第三回目は鑑真が日本に行ってしまうのを惜しんだ第三者による密告によって、第四回目は鑑真の体調を心配した弟子が役人に訴えて出向を差し止められた、となかなか唐国内から出られませんでした。
困難を極める渡海でしばし海南島へ
五回目の計画でようやく唐を出られたのですが、ここでもまた嵐に遭って鑑真一行は南方の海南島へ漂着してしまいます。鑑真の何がすごいって、ここまでしてようやくたどり着いたのが海南島だったことにガッカリせず、逆に海南島の大雲寺に滞在している間に人々に医薬の知識を伝えたのです。転んでもただでは起きず、他者に施すことを忘れない、僧侶の鑑のような人ですね。
10年におよぶ苦難の末に来日
海南島での活動後、鑑真一行は一度揚州に戻るために島を出発しました。この帰途の途中、密かに鑑真のもとに戻っていた栄叡が亡くなり、さらにそこに天候の変化や激しい疲労が重なったことによって鑑真は両目を失明してしまいます。いったい鑑真が何をしたというのでしょう……。
困難に見舞われ、両目の視力を失った鑑真。それでもまだまだ彼は日本行きをあきらめてはいません。753年に遣唐大使の藤原清河らの船にこっそり乗船すると、ついに唐の地を離れることに成功しました。そうして、鑑真が乗っていた第二船は予定外の屋久島に漂着したのちに大宰府へと辿り着くと、鑑真はようやく奈良の都へ到達します。渡日を決意した743年から10年後、753年の年の瀬のことでした。
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