仏教で僧尼になろうと思うと、僧の心得を定めた戒律を受けなければならない。奈良時代の日本では自分で自分に誓って受戒する「自誓受戒」が主流だった。

しかし、それでは不十分だという事態が起こった。それで唐から授戒できる僧を招こうということなり、来日したのが今回のテーマとなる「鑑真」です。

鑑真の来日は困難を極めることとなるんですが、そこでいったいなにが起こったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたので、今回は当時の仏教界の重要人物「鑑真」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。

1.困難を乗り越えて来日した鑑真はどんな人?

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歴史に忘れ去られた聖人

日本の神代から持統天皇までの歴史を記したのが『日本書紀』。それに続く六国史が『続日本紀(しょくにほんぎ)』です。この『続日本紀』の著者のひとりに天智天皇の玄孫で淡海三船(おうみのみふね)という文人がいました。彼は鑑真(がんじん)の伝記『唐大和上東征伝』を書き上げ、さらに鎌倉時代の真言律宗の僧・忍性によって絵巻物『東征絵伝』が作られます。そして、昭和になってからこれらをもとにして作家・井上靖の小説『天平の甍』が著されることとなったのです。『天平の甍』が映画になったことでようやく「鑑真」は日本で有名な僧侶となりました

でも、なんだかちょっとおかしいですね?冒頭で桜木先生が軽く説明してくれたとおりなら、鑑真は奈良時代当時の日本の仏教界に大きく貢献してくれたはずです。それに、唐ではとても偉い僧侶でした。なのに、どうして有名になったのは昭和になってからなんでしょうか?

そもそも「鑑真」はどんな人なの?

鑑真は688年に唐の揚州江陽県に生まれ、たった14歳で僧侶でとなりました。順風満帆に僧侶としての人生を歩む彼は天台宗と律宗を学ぶのですが、この律宗というのは、僧尼や仏教徒が守るべき戒律を研究する宗派のことです。

鑑真はなんと4万人以上の人々に授戒をしたとされています。日本の地方自治体制度において「市」になるためには最低でも5万人必要とされているんですけど、もうちょっとで鑑真に授戒してもらった人たちのみで「市」ができるところでしたね。おしい。でも、それぐらい彼に授戒してもらった人は多かったんですよ。

お経も読めない僧もいた日本

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仏教には国を守る「鎮護国家」の思想があり国の定めた手続きに従って出家した僧尼らを「官僧」といいました。このあたりの決まりは「大宝律令」の「僧尼令」にも規定されています。

官僧とは反対に、「仏教はそれだけではない、人々のために活動することも大事だ」と言って、国でなく市井の人々のために僧侶たちを「私度僧」と呼びました。

普通、僧侶となるためには僧の心得を定めた「戒律」を受けなければなりません。このころの日本では一人の僧を戒師(戒を授ける人)として、自分自身で仏に戒を守ると誓うものでした。この方法を「自誓受戒」といいます。

さて、ここで問題となったのは聖武天皇が病気になったときに一気に3800人もの僧尼が増えたこと。そのなかにはろくにお経も読めないという人もいました。いやいや、そんな人を出家させちゃダメでしょ!それで自誓受戒だけでは不十分だということになったのです。

もっと慎重で厳粛な授戒の儀式を求め、日本は仏教の先輩の国「唐」へ栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という僧侶を送り出しました。

鑑真、日本行きを決意する

当時、鑑真は揚州の大明寺というところの住職でした。そこへ742年に日本から派遣された栄叡と普照というふたりの僧侶に「あなたの弟子の誰かを日本に派遣してほしい」と頼まれるのです。

しかし、アジアの中心であり大都会だった「唐」に比べ、当時の日本は海を渡った先にある辺境の田舎でした。しかも、このころの航海術は未熟で、羅針盤も天気予報もありません。目的の港に着くことすらも困難な時代でした。当然、わざわざ命を危険にさらしてまで日本に行きたいという弟子はいません。そんな状態であるにもかかわらず、それならば、と手を上げたのはなんと鑑真本人でした。

鑑真は唐においてすでに高い地位にいる、いわば、唐の仏教界におけるスーパースターのような存在です。それなのに危険をおかして日本へ来てくれるなんて、こんなに尊い人は滅多にお目にかかれません。それに、鑑真が日本に行くというなら弟子たちもがついて行かないわけにはいきません。弟子たちも考えを改めて日本行きを決めたのでした。

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2.海を越え、いざ日本へ!

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鑑真さま行かないで!

いざ日本行きを決めた鑑真とその弟子たち。しかし、本当の困難はここからでした。

743年の夏、第一回目の日本への渡海計画がはじまります。ところが、この段階になってもまだ日本へ行きたくない弟子がいました。彼はお役所へ駆けこむと、「日本から来た僧侶たち(栄叡と普照)は実は僧ではなく海賊だ!」と訴えたのです。残念なことに、お役所はこの話を信じてしまいます。それで、鑑真の渡海は果たせなくなりました。

しかし、こんなことがあっても鑑真はあきらめません。翌年の1月には第二回目の渡航が試みられました。用意周到に準備し、いざ、日本へ……と意気揚々と出発したところでひどい嵐に遭遇して一旦帰港を余儀なくされてします。そして、第三回目は鑑真が日本に行ってしまうのを惜しんだ第三者による密告によって、第四回目は鑑真の体調を心配した弟子が役人に訴えて出向を差し止められた、となかなか唐国内から出られませんでした。

困難を極める渡海でしばし海南島へ

五回目の計画でようやく唐を出られたのですが、ここでもまた嵐に遭って鑑真一行は南方の海南島へ漂着してしまいます。鑑真の何がすごいって、ここまでしてようやくたどり着いたのが海南島だったことにガッカリせず、逆に海南島の大雲寺に滞在している間に人々に医薬の知識を伝えたのです。転んでもただでは起きず、他者に施すことを忘れない、僧侶の鑑のような人ですね。

10年におよぶ苦難の末に来日

海南島での活動後、鑑真一行は一度揚州に戻るために島を出発しました。この帰途の途中、密かに鑑真のもとに戻っていた栄叡が亡くなり、さらにそこに天候の変化や激しい疲労が重なったことによって鑑真は両目を失明してしまいます。いったい鑑真が何をしたというのでしょう……。

困難に見舞われ、両目の視力を失った鑑真。それでもまだまだ彼は日本行きをあきらめてはいません。753年に遣唐大使の藤原清河らの船にこっそり乗船すると、ついに唐の地を離れることに成功しました。そうして、鑑真が乗っていた第二船は予定外の屋久島に漂着したのちに大宰府へと辿り着くと、鑑真はようやく奈良の都へ到達します。渡日を決意した743年から10年後、753年の年の瀬のことでした。

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3.授戒の儀式を行った鑑真

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戒律と鑑真の「四分律」

やっとの思いで日本にやってきた鑑真。苦難の連続を乗り越えての壮大な旅でしたが、ここで最初の目的を思い出してください。……そう、「授戒」です。お経も読めないような僧尼を簡単に増やさないために、僧侶になる儀式「授戒」を荘重なものにあらためるためにやってきたのでした。

この「授戒」で授けられる「戒律」。もう少し詳しく解説すると、戒律はそもそも生前のお釈迦様(ガウタマ・シッダールタ)が定めた弟子と信徒の心得や教団の規則のことです。「不殺生(殺してはいけない)」や「不偸盗(盗んではいけない)」など、聞いたことがありませんか?この他にもたくさんの心得があります。

鑑真の戒律は「四分律」といって、現代だと律宗がよりどころにしているものです。これは人々を、比丘(男性の僧侶)、比丘尼(女性の僧侶)、優婆塞(男性の信徒)、優婆夷(女性の信徒)の四種類に分けて、それぞれに戒律を説きました。比丘は250項目、比丘尼は348項目もの戒律があるんですよ。

「天下の三戒壇」の設立

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戒律をうけ、宣誓することで人は僧尼となりました。僧尼になることを「得度」いい、これは「仏陀の悟りの世界に渡(度)り得る」という意味です。ちなみに、日本で一番最初に得度したのは584年(飛鳥時代)の三人の女性だったんですよ。

しかし、ここで本当に重要なのは、受戒することによって仏に守護されるようになるということ。僧尼はその守護の力によって僧尼は国や人々を守り、五穀豊穣の祈りを捧げるのです。これが「鎮護国家」の思想で一番大事なところなんですね。だから、お経も読めない不心得者を僧尼にしていてはいけないんです。

さて、授戒の儀式を行う場所を「戒壇」、そのための建物を「戒壇院」といいます。鑑真は戒師として活動を始めるため、翌年の755年に平城京にある東大寺に戒壇院を建て、そのあとに九州の大宰府は観世音寺と栃木県下野市の下野薬師寺にひとつずつ戒壇院をつくりました。これらを合わせて「天下の三戒壇」といいます。

以降、日本の僧尼は「自誓受戒」で得度したあと、「天下の三戒壇」のどこかで授戒の儀式をうければ正式な僧尼と認められるようになったのです。細かく説明すると、まず自誓受戒して出家した人(この時点では見習い僧という扱い)は、その数年後に三戒壇へ行く旨を治部省へ申請します。それを治部省が太政官に届けて許可をもらったあと、三戒壇で儀式を受ければ「戒牒」という受戒の証明書がもらえました。それで国家に認められた僧尼となれるのです。こうして間に役所が入ると、いよいよ国家のための僧侶という感じがしますね。

鑑真最期の地、唐招提寺

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Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

鑑真は仏教の他、彫刻や医薬の知識も豊富に持っていて、出し惜しみせずそれも日本人に伝えてくれます。また、戒壇だけでなく、貧民や孤児を救うため「悲田院」という施設を作ったりと、人々のためにたくさんのことをしてくれたんです。

758年に鑑真は唐招提寺を創建し、来日10年目の763年にそこで亡くなられました。鑑真の死を惜しんだ弟子の忍基は、鑑真の彫刻「乾漆鑑真和上坐像」をつくり、今でも唐招提寺に安置されています。

消えた戒壇設立の功績

ところで、当時を書き記した歴史書『続日本紀』には鑑真の記事は少ししかありません。754年に大僧都に任命されてはいますが、二年後には解任されたということだけで、「鑑真が戒壇を設立した」という記事はどこにもないんですね。この原因は、朝廷は大乗仏教の経典『梵網経』を重視していたのに対し、鑑真の「四分律」は上座部仏教の一派に伝承されたものだったからだと考えられます。

ざっくり上座仏教と大乗仏教について説明すると、「大乗仏教」は修行している僧侶が己ひとりではなく、生きとし生けるものすべてが救われるという考えです。逆に「上座部仏教」は戒律重視、修行したものだけが悟りを開き、救われるというものでした。同じ仏教でもかなり違うでしょう?宗教も行き過ぎると戦争の火種になることがありますから、淡海三船の『唐大和上東征伝』は非常に希少な史料と言っても過言ではありません。

不屈の聖人 鑑真

10年という長い間あきらめず、失明してまで日本にやってきて授戒の儀式を授けてくれた鑑真。今でこそ教科書に載る名前ですが、長い間その功績は忘れ去られていました。昭和となってから井上靖の小説『天平の甍』とその映画によって広く日本で知られることとなったのです。

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奈良時代日本史歴史

奈良時代の日本の仏教に戒律を伝えた「鑑真」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

仏教で僧尼になろうと思うと、僧の心得を定めた戒律を受けなければならない。奈良時代の日本では自分で自分に誓って受戒する「自誓受戒」が主流だった。

しかし、それでは不十分だという事態が起こった。それで唐から授戒できる僧を招こうということなり、来日したのが今回のテーマとなる「鑑真」です。

鑑真の来日は困難を極めることとなるんですが、そこでいったいなにが起こったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたので、今回は当時の仏教界の重要人物「鑑真」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。

1.困難を乗り越えて来日した鑑真はどんな人?

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歴史に忘れ去られた聖人

日本の神代から持統天皇までの歴史を記したのが『日本書紀』。それに続く六国史が『続日本紀(しょくにほんぎ)』です。この『続日本紀』の著者のひとりに天智天皇の玄孫で淡海三船(おうみのみふね)という文人がいました。彼は鑑真(がんじん)の伝記『唐大和上東征伝』を書き上げ、さらに鎌倉時代の真言律宗の僧・忍性によって絵巻物『東征絵伝』が作られます。そして、昭和になってからこれらをもとにして作家・井上靖の小説『天平の甍』が著されることとなったのです。『天平の甍』が映画になったことでようやく「鑑真」は日本で有名な僧侶となりました

でも、なんだかちょっとおかしいですね?冒頭で桜木先生が軽く説明してくれたとおりなら、鑑真は奈良時代当時の日本の仏教界に大きく貢献してくれたはずです。それに、唐ではとても偉い僧侶でした。なのに、どうして有名になったのは昭和になってからなんでしょうか?

そもそも「鑑真」はどんな人なの?

鑑真は688年に唐の揚州江陽県に生まれ、たった14歳で僧侶でとなりました。順風満帆に僧侶としての人生を歩む彼は天台宗と律宗を学ぶのですが、この律宗というのは、僧尼や仏教徒が守るべき戒律を研究する宗派のことです。

鑑真はなんと4万人以上の人々に授戒をしたとされています。日本の地方自治体制度において「市」になるためには最低でも5万人必要とされているんですけど、もうちょっとで鑑真に授戒してもらった人たちのみで「市」ができるところでしたね。おしい。でも、それぐらい彼に授戒してもらった人は多かったんですよ。

お経も読めない僧もいた日本

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仏教には国を守る「鎮護国家」の思想があり国の定めた手続きに従って出家した僧尼らを「官僧」といいました。このあたりの決まりは「大宝律令」の「僧尼令」にも規定されています。

官僧とは反対に、「仏教はそれだけではない、人々のために活動することも大事だ」と言って、国でなく市井の人々のために僧侶たちを「私度僧」と呼びました。

普通、僧侶となるためには僧の心得を定めた「戒律」を受けなければなりません。このころの日本では一人の僧を戒師(戒を授ける人)として、自分自身で仏に戒を守ると誓うものでした。この方法を「自誓受戒」といいます。

さて、ここで問題となったのは聖武天皇が病気になったときに一気に3800人もの僧尼が増えたこと。そのなかにはろくにお経も読めないという人もいました。いやいや、そんな人を出家させちゃダメでしょ!それで自誓受戒だけでは不十分だということになったのです。

もっと慎重で厳粛な授戒の儀式を求め、日本は仏教の先輩の国「唐」へ栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という僧侶を送り出しました。

鑑真、日本行きを決意する

当時、鑑真は揚州の大明寺というところの住職でした。そこへ742年に日本から派遣された栄叡と普照というふたりの僧侶に「あなたの弟子の誰かを日本に派遣してほしい」と頼まれるのです。

しかし、アジアの中心であり大都会だった「唐」に比べ、当時の日本は海を渡った先にある辺境の田舎でした。しかも、このころの航海術は未熟で、羅針盤も天気予報もありません。目的の港に着くことすらも困難な時代でした。当然、わざわざ命を危険にさらしてまで日本に行きたいという弟子はいません。そんな状態であるにもかかわらず、それならば、と手を上げたのはなんと鑑真本人でした。

鑑真は唐においてすでに高い地位にいる、いわば、唐の仏教界におけるスーパースターのような存在です。それなのに危険をおかして日本へ来てくれるなんて、こんなに尊い人は滅多にお目にかかれません。それに、鑑真が日本に行くというなら弟子たちもがついて行かないわけにはいきません。弟子たちも考えを改めて日本行きを決めたのでした。

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