奈良時代の「天平文化」は仏教と「唐」の影響が濃い。それに、疫病が流行したこともあって各国に国立の寺院をたくさん建立した。そのときにできたのがあの有名な「奈良の大仏」です。他にも「万葉集」や「古事記」「日本書紀」が完成したりと覚えることも多い。
今回は、そんな「天平文化」についてえ歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。本当は前回の「奈良時代」の解説に入れたかったんですが、「天平文化」はけっこうなボリュームで前回の記事に納めきれませんでした。今回は歴史的背景を読み解きながら、じっくり「天平文化」について解説していきます。

1.大仏建立で日本を救え!

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疫病の脅威と社会不安に仏教で対抗

奈良時代の中盤、藤原四兄弟を中心に朝廷が動いていたころ、にわかに天然痘が流行しはじめていました。今でこそ撲滅された天然痘ですが、もちろん奈良時代にワクチンなんてものはありません。天然痘が流行した結果、100万人~150万人が亡くなるという甚大な被害を出しました。天然痘によって藤原四兄弟も亡くなり、その穴を橘諸兄らが埋めることになります。しかし、橘諸兄らの登用に不満を持った藤原広嗣が挙兵したり(藤原広嗣の乱)と、国が荒れに荒れていました。

疫病や乱による政治的動揺は大きく、それらの災いから逃れるように聖武天皇は山背の恭仁京、摂津の難波京、近江の紫香楽京と遷都を繰り返します。良かれと思ってやっているんでしょうけど、逆に都を何度も造営工事をしなければならず、疫病と災害によって社会不安を煽ってしまう結果になってしまったんですね。結局はまた平城京に戻ってきてしまいます。おさまらない疫病に高まっていく社会不安。なすすべもなくなった聖武天皇は、そこで昔から篤く信仰していた仏教に救いを求めることにしたのでした。

なぜここで仏教に頼ったかと言うと、「仏教には国を守護して安定させる力がある」とする思想があったんです。この思想を「鎮護国家」といって強く信じられていました。

その思想によってまず741年に「国分寺建立の詔」を発して各国にひとつずつ国立の寺院と尼寺を建てさせます。それから二年後の743年に「盧遮那大仏造立の詔」を発表するんですが、これがいわゆる「東大寺」と「奈良の大仏」のはじまりでした。

奈良の大仏、東大寺盧遮那仏像

国家の一大プロジェクトとして始まった東大寺と奈良の大仏の建立。大仏は青銅でできた全身に金が貼られたかなりゴージャスなつくりだったとか。創建当時の資料によると、大仏と大仏殿を作るのにのべ260万人を動員、現代の価格にして約4657億円もかかったと算出されています。す、すごい……。

でも、現在の東大寺に安置されている大仏に金なんか貼られていませんよね?というのも、残念ながら「奈良の大仏」は平安末期の源平合戦と戦国時代の二度に渡って焼けてしまったからなんです。今、私たちが見ている「奈良の大仏」は江戸時代に再建されたものなんですよ。とはいえ、それでも国宝であることに変わりはありません。

民に大人気の私度僧・行基

ところで、東大寺や大仏の建立に動員されたのべ260万人の人々がいますね。現場で働くのはもちろん貴族や天皇ではありません。地方や都で暮らしている民のみなさまです。でも、よくよく考えると、天然痘が猛威をふるっているなか、奈良時代の重い税を払いながらもなんとか生きようとがんばっている人々を集めて働かせるわけですから、当然、彼らの暮らしは厳しくなるばかり。

こんなのやってられるか!と暴動が起きそうなものですが、それをなんとか抑えられる人がいました。その奇跡のような人こそ、「行基」という名の私度僧だったのです。

この時代の仏教は国を守る「鎮護国家」の思想がありましたから、当然、仏教に帰依する僧侶たちは国のために働く人々でした。しかし、仏教はそれだけではなく、人々のために活動することも大事だとして、民に教えを説き、ため池や用水路をつくり、時には病人の看護までして人々を救う僧侶たちがいました。国のためでなく民のために行動する僧侶たちは「私度僧」と呼ばれ、朝廷は彼らを民を惑わす罪人として扱います。

国家に犯罪者として扱われながらも、行基は人々の救済につとめて民衆から絶大な人気を博しました。だから、朝廷は逆にそれを利用することにしたのです。

聖武天皇は行基に接近し、彼に大仏建立を協力するように依頼しました。朝廷が考えたとおり行基の力は絶大で、結果、大仏のための膨大な資金や労働力がなんとかなっちゃうんですね。その功績によって行基は仏教界の最高位「大僧正」の位を日本で初めて贈られました。

世界遺産東大寺と正倉院

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東大寺は「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されているのですが、保存されている文化財も素晴らしいものばかりです。なかでも「正倉院」の名前は一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?

東大寺大仏殿の北北西に建てられた「正倉院」には、天平文化の美術工芸品が多く収蔵されており、建物自体も国宝と、ユネスコ世界遺産に登録されています。また、保存されている宝物は日本製だけでなく、唐や西アジア、遠くペルシャからの輸入品なども納められているんですよ。

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2.犠牲を払いながらも来日した鑑真

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「唐」と日本の関係

日本の政治や文化に大きな影響を与えた「唐」との関係。当時の「唐」は周辺諸国から朝貢されるような、いわゆる大親分のような存在でした。その大帝国「唐」と日本は、飛鳥時代に一度戦争をしているのは覚えているでしょうか?

飛鳥時代、当時の朝鮮半島にあった「百済」が「唐」と「新羅」によって滅ぼされ、日本の大和朝廷は友好国だった「百済」の復興のために朝鮮半島への出兵を決めます。しかし、この戦いは日本の敗北に終わってしまいました。これが日本と唐が戦った「白村江の戦い」です。

戦争をしたんですから「唐」と日本の外交関係だって最低ラインまで下がっていますよね。朝廷は「唐」の侵略を恐れて九州の大宰府に水城を建設したり、防人を置いたりして防衛に努めます。ついでに都も内陸の大津に遷都したりと大変な時期でしたね。このときの天皇が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こと、天智天皇です。

また、防備を固めると同時に、関係改善のための交渉ももちろん開始されていました。一時は2000人の唐の軍が筑紫国に駐留するなど深刻な状況にまで発展しますが、交渉の甲斐もあって危機的状況を回避すると、再び正常な外交関係に戻ることができたのです。

遣唐使たちの多大なる努力

ところで、現代だと正当な手続きを踏めばすぐにでも大陸へ行けますよね?飛行機でも船でも、何時間か後には確実に入国できているはずです。けれど、奈良時代ではそうもいきません。飛行機がないとかそういうレベルじゃないんです。

まず、当時の航海術は未熟で、羅針盤(方位磁石)もありませんでしたから、確実な方角がわかりません。だから、特定の港に到着することは不可能でした。それに天気予報もできませんから、いつ台風にあってもおかしくない上に、ちょっとした高波や嵐だって命取りです。

そんな危険な旅でも、「唐」のものを持ち帰れば100パーセント利益還元みたいなものですから、やめられません。こうやって「唐」の文化や政治、仏教を学ぶために派遣された使節を「遣唐使」といいます。彼らの命がけの努力によって古代の日本は発展していったのでした。

「遣唐使」は平安時代に「菅原道真」によって廃止されるまで十数回に渡って派遣されます。

遣唐使で派遣された優秀なメンバー

「遣唐使」のなかには政府間での交流とは別に唐の知識や技術を学ぶための留学生もいました。留学生になれる倍率は現代とでは比になりません。そもそも国を代表するようなとんでもなく優秀な人じゃないと留学生に選ばれなかったんです。しかも、留学の任期は長く、留学生が唐で客死してしまうこともありました。けれど、リスク以上のリターンがありますから日本としてもやめられませんよね。

さて、そんな留学生のなかでも阿部仲麻呂(あべのなかまろ)はすごい。彼は優秀すぎるあまり、唐の役人にまでなった人で、最終的にはベトナムの総督にまで上り詰めました。ですが、かわいそうなことに、彼は日本に帰りたいと思いつつも、渡海に失敗してとうとう帰国できないまま唐でその生涯を終えてしまいます。留学生が唐の地で客死してしまった悲しい例のひとつですね。

また、阿部仲麻呂と同じ船で唐に渡った吉備真備は、18年の留学で天文学や兵学など多くの学問を納めます。帰国後は役人としてスピード出世し、時の右大臣・橘諸兄に重用されて政治に深く携わることとなるのです。

\次のページで「苦難を乗り越え来日した鑑真」を解説!/

苦難を乗り越え来日した鑑真

一方、「唐」から日本へ渡航した人のなかに仏教界の重要人物がいます。日本は仏教国のなかでも中国や朝鮮半島の国々よりも後から信仰をはじめた国、つまり、後輩だったわけです。なので、先輩たちにもっと詳しく仏教について教えてもらいたい。そこで遣唐使として「唐」に渡った留学僧たちは、「鑑真(がんじん)」という偉い僧侶を訪ねて「あなたの弟子の誰かを日本に派遣してほしい」と頼みます。しかし、大都会の「唐」に比べて、当時の日本は辺境の田舎。その上、無事に日本にたどり着けるかさえも保証できません。鑑真の弟子の誰もが嫌がるなか、それならば、と手を上げたのはなんと鑑真本人でした。

すでに「唐」において確固たる地位を築いていた鑑真ですが、自分の命を危険にさらしてでも日本に仏教の教えを広めることを選んでくれたのです。先生が行くなら、と弟子たちも考え直してついてくることになりました。

しかし、鑑真はいわば仏教界のスーパースターでしたから、当然、日本へ行ってほしくない人もいたわけです。彼らによる妨害にあったり、嵐によって止む終えず引き返したりと鑑真の渡海は苦難を極めます。途中で鑑真の弟子が亡くなり、鑑真自身も失明するという不幸に見舞われても彼は諦めませんでした。そうして、五度に渡る失敗の末、10年後の754年にとうとう鑑真の来日がかなったのでした。

鑑真、唐招提寺に眠る

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念願かなってようやく日本についた鑑真は、都に迎え入れられました。鑑真は仏教の他にも薬や彫刻にも造詣が深く、さまざまな知識を日本人に伝えてくれます。それだけでなく、悲田院という貧民や孤児を救うための施設作りにも積極的に取り組んだりと、人々のためにたくさんのことをしてくれました。

鑑真は唐招提寺を建立し、来日して10年目にそこで亡くなってしまうのです。その死を惜しんだ弟子の忍基によって鑑真の彫刻「乾漆鑑真和上坐像」がつくられ、これは日本最古の肖像彫刻として国宝に指定されています。

また唐招提寺には「乾漆鑑真和上坐像」の他にも、たくさんの国宝が眠っているんですよ。金堂(本尊を安置する堂)は奈良時代に建立されたもののなかで現存する唯一のものです。

3.「記紀」、「風土記」、「万葉集」の完成

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「記紀」の完成

日本最古の歴史書「古事記」の編纂の命令を出したのはなんと飛鳥時代の天武天皇でした。編纂者は太安麻呂(おおのやすまろ)という貴族なのですが、その人とは別に稗田阿礼(ひえだのあれ)といって、一度見聞きしたものを忘れないというすごい能力を持った人がいたんです。稗田阿礼に語ってもらった記録を書き、712年にようやく「古事記」が完成したのでした。

そして、日本最古の正史とされる「日本書紀」もまたこの時代に完成しました。イザナギノミコトや天照大神が登場する神代から持統天皇までの時代を扱った歴史書で、天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)を中心に編纂されました。

このふたつの歴史書はあわせて「記紀」と総称されるのですが、漢字をよく見てください。「記」と「紀」、偏の違うよく似た漢字が使われていますね。これは「古事記」の「記」と「日本書紀」の「紀」を重ねたものなんです。記述問題でうっかり間違いが多い漢字の間違いなので気をつけて覚えてくださいね!

地方の地誌を伝える「風土記」

「記紀」と同じ奈良時代、各国の事情を知るために元明天皇がつくらせたのが「風土記」です。「風土記」には当時の地方の歴史や文化、特産物に神話などをおさめた地誌でした。しかし、残念なことに現存しているのは出雲国(島根県)の『出雲国風土記』の完本と、一部欠損している『播磨国風土記』(兵庫県)、『常陸国風土記』(茨城県)、『肥前国風土記』(佐賀県)、『豊後国風土記』(大分県)の五冊のみです。

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古代の風を感じる「万葉集」

当時の文学の風を感じる日本最古の和歌集「万葉集」には4500首の和歌が収められています。そこには天皇や貴族、僧侶といった著名人だけでなく、一般の人々の歌をおさめられていて、世界でも例のない特殊な歌集でもあるんです。奈良時代の人々は、素晴らしい和歌の前には身分の差も関係なく愛していたのでしょうね。

苦難の中に咲いた天平文化

疫病に災害、重税や権力争いと奈良時代は苦難の多い時代でした。そんな状況でも仏教に救いを求めて多くの寺や「奈良の大仏」を建立し、歴史書や和歌集の編纂も怠らず後世へと残していった力強い時代です。

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奈良時代日本史歴史

仏教に救いを求めた奈良時代の「天平文化」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古代の風を感じる「万葉集」

当時の文学の風を感じる日本最古の和歌集「万葉集」には4500首の和歌が収められています。そこには天皇や貴族、僧侶といった著名人だけでなく、一般の人々の歌をおさめられていて、世界でも例のない特殊な歌集でもあるんです。奈良時代の人々は、素晴らしい和歌の前には身分の差も関係なく愛していたのでしょうね。

苦難の中に咲いた天平文化

疫病に災害、重税や権力争いと奈良時代は苦難の多い時代でした。そんな状況でも仏教に救いを求めて多くの寺や「奈良の大仏」を建立し、歴史書や和歌集の編纂も怠らず後世へと残していった力強い時代です。

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