「唐」と日本の関係
日本の政治や文化に大きな影響を与えた「唐」との関係。当時の「唐」は周辺諸国から朝貢されるような、いわゆる大親分のような存在でした。その大帝国「唐」と日本は、飛鳥時代に一度戦争をしているのは覚えているでしょうか?
飛鳥時代、当時の朝鮮半島にあった「百済」が「唐」と「新羅」によって滅ぼされ、日本の大和朝廷は友好国だった「百済」の復興のために朝鮮半島への出兵を決めます。しかし、この戦いは日本の敗北に終わってしまいました。これが日本と唐が戦った「白村江の戦い」です。
戦争をしたんですから「唐」と日本の外交関係だって最低ラインまで下がっていますよね。朝廷は「唐」の侵略を恐れて九州の大宰府に水城を建設したり、防人を置いたりして防衛に努めます。ついでに都も内陸の大津に遷都したりと大変な時期でしたね。このときの天皇が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こと、天智天皇です。
また、防備を固めると同時に、関係改善のための交渉ももちろん開始されていました。一時は2000人の唐の軍が筑紫国に駐留するなど深刻な状況にまで発展しますが、交渉の甲斐もあって危機的状況を回避すると、再び正常な外交関係に戻ることができたのです。
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遣唐使たちの多大なる努力
ところで、現代だと正当な手続きを踏めばすぐにでも大陸へ行けますよね?飛行機でも船でも、何時間か後には確実に入国できているはずです。けれど、奈良時代ではそうもいきません。飛行機がないとかそういうレベルじゃないんです。
まず、当時の航海術は未熟で、羅針盤(方位磁石)もありませんでしたから、確実な方角がわかりません。だから、特定の港に到着することは不可能でした。それに天気予報もできませんから、いつ台風にあってもおかしくない上に、ちょっとした高波や嵐だって命取りです。
そんな危険な旅でも、「唐」のものを持ち帰れば100パーセント利益還元みたいなものですから、やめられません。こうやって「唐」の文化や政治、仏教を学ぶために派遣された使節を「遣唐使」といいます。彼らの命がけの努力によって古代の日本は発展していったのでした。
「遣唐使」は平安時代に「菅原道真」によって廃止されるまで十数回に渡って派遣されます。
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遣唐使で派遣された優秀なメンバー
「遣唐使」のなかには政府間での交流とは別に唐の知識や技術を学ぶための留学生もいました。留学生になれる倍率は現代とでは比になりません。そもそも国を代表するようなとんでもなく優秀な人じゃないと留学生に選ばれなかったんです。しかも、留学の任期は長く、留学生が唐で客死してしまうこともありました。けれど、リスク以上のリターンがありますから日本としてもやめられませんよね。
さて、そんな留学生のなかでも阿部仲麻呂(あべのなかまろ)はすごい。彼は優秀すぎるあまり、唐の役人にまでなった人で、最終的にはベトナムの総督にまで上り詰めました。ですが、かわいそうなことに、彼は日本に帰りたいと思いつつも、渡海に失敗してとうとう帰国できないまま唐でその生涯を終えてしまいます。留学生が唐の地で客死してしまった悲しい例のひとつですね。
また、阿部仲麻呂と同じ船で唐に渡った吉備真備は、18年の留学で天文学や兵学など多くの学問を納めます。帰国後は役人としてスピード出世し、時の右大臣・橘諸兄に重用されて政治に深く携わることとなるのです。
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