
大名に向けたさらなる制度となる参勤交代
江戸幕府は全国統治を万全なものとするため、一国一城令や武家諸法度を発令して支配体制を強化していきました。これらはいずれも江戸幕府の基本となる政治政策ですが、もう一つ忘れてはならないのが1635年に3代目将軍・徳川家光によって定められた参勤交代ですね。
参勤交代とは、大名が自身の領地と江戸とを1年の交代で往復することを義務化したもので、大名の妻子は人質の意味を含めて江戸に居住することになりました。一国一城令や武家諸法度とは全く内容が異なるものの、大名を対象にした制度という点は同じでしょう。
これもやはり、将軍と大名の主従関係を維持することが目的で定められた制度です。ちなみに、参勤交代にかかる費用によって藩の財政が圧迫して大名の財力を減らす効果もありましたが、あくまでそれは結果論であり、幕府はそれを目的として参勤交代を定めたわけではないと現在では解釈されています。
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江戸幕府が衰退したのはなぜか
盤石な統治体制を確立した江戸幕府ですが、その江戸幕府が一体どうやって衰退していったのでしょうか。それは一国一城令を発令した1615年より250年近く先のことであり、大きなきっかけとなったのが1858年にアメリカと不平等条約を締結したことでした。
その頃の日本は開国して外国との交流が生まれますが、外国の軍事力は非常に高く、日本を統治する幕府でさえ対等な関係を築くのが困難なほどだったのです。そのため、不平等条約ですら天皇に無許可で調印する始末となり、人々はそんな幕府に対して失望して不満を募らせていきます。
やがて武力も低下した幕府、しかもそれが露呈してしまい、日本では倒幕ムードが加速していきました。このような中、天皇中心の政治を行うべきという思想が生まれ、次第に幕府は衰退、ついには戊辰戦争と呼ばれる大きな戦争が起こって幕府の時代は終わりを迎えたのです。
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一国一城令と武家諸法度を区別しよう!
一国一城令のポイントは武家諸法度との区別です。どちらも1615年に制定されたものであり、また武家諸法度には一国一城令に関わる内容も含まれていますが、これらはイコールではありません。
一国一城令は文字どおり一つの国に城は一つと定めたもの、それに対して武家諸法度は「無断で築城してはならない」など、一国一城令の補足したものであり、さらに武家諸法度ではその他に全く別の制度も含まれています。