
徳川家に優遇されていたケース
一国一城令を素直に捉えれば「藩の数=城の数」となるはずですが、実際にはそれが一致せず、なぜなら例外もあるからです。そんな例外のケースを解説すると、例えば加賀百万石と呼ばれていた加賀藩の場合ですね。加賀藩は加賀・能登・越中の3つの国を領土としていましたから、その時点で既に他の藩とは規模が違うでしょう。
それでも当初は一国一城令に基づき、加賀にある金沢城のみを残して他の城は破却していました。しかし、2代目の藩主・前田利常は徳川家と親密な関係だったことから、破却した小松城の再建を許可されており、言わば特別扱いで優遇されたため一国一城令の型にはまっていないのです。
前田利常と同様、特別扱いによる優遇を受けたのが鳥取藩の池田氏。鳥取藩は因幡・伯耆の二国を領土にしていたため、本来なら許可された城の数は2つでしょう。しかし、鳥取藩の藩主家には徳川家康の次女の血が含まれていたため、例外として3つもの城の所有が認められました。
領土の規模や統治する大名の人数で認められたケース
さらに例外のケースを解説すると、久保田藩の佐竹氏も複数の城の所有が認められており、これは領土の規模が広すぎて一つの城だけでは対応が難しかったためですね。そもそも佐竹氏は徳川家康によって地元から引き離されていましたから、それだけで戦力を削ぐ効果が充分あったと判断されたのでしょう。
また、一国が複数の大名によって統治されていたケースもあります。国は一つでもそこを治める大名は複数存在したことから、大名の人数だけで城を残すことも認められたのです。一方、幕府への気遣いで城を減らしたという特殊なケースもあり、その意味で毛利家は従順だったのかもしれません。
毛利家が統治する萩藩は周防と長門の二国を領土としており、本来2つの城を残すことが認められていました。しかし、毛利家は萩城以外の城を破却しており、これは幕府の圧力によるものではなく、毛利家が自主的にこのような形にして幕府に報告したとされています。
一国一城令が大名にもたらすメリット
一国一城令は言わば徳川家が大名に対して行った反乱防止であり、大名からすればデメリットだらけの法令に思えるかもしれません。事実、一時期は3000を超えていた城の数が170ほどまで減らされており、一国一城令によっておよそ9割以上の城が全国で失われているわけですからね。
徳川家の狙いどおり、各国の大名は大幅に戦力を削がれてしまいますが、一方で大名にとって一国一城令の発令にはメリットもありました。一国一城令が発令された以上、家臣は城を所有することができず、そのため城を所有できる大名とそうでない家臣とでは明確に地位の差が出たのです。
それは大名が統治を行いやすくなることを意味しており、一国一城令によって領土における大名の支配は行いやすくなったと言えるでしょう。また、城が減ったことで衝突による戦いも起こりにくくなり、徳川家への反乱のみならず戦いが起こらないことは日本の平和の維持にもつながりました。
一国一城令の法令に背いた大名
大名の中には一国一城令を守らなかった者もおり、法令に背いた大名がどうなるのかも解説しておきましょう。広島城を居城としていた福島正則は、台風によって被害を受けた広島城の修復を急いでいました。しかし幕府から修復の許可がなかなか下りず、そこで勝手に修復してしまったのです。
最も、この場合は許可を下さない幕府の対応にも問題ありと考えられますが、一説では福島正則に前科があったのが理由だと解説されています。福島正則は一国一城令が発令される以前にも、隣国への牽制を目的に城を築城したことがあり、その際も幕府から廃城を命じられました。
もしかすると、幕府はこのような福島正則の行動を問題視して城の修復を許可しなかったのかもしれませんね。ともあれ、勝手に城を修復した福島正則は幕府に処罰を受けており、怒った徳川秀忠によって大名の地位を解任されてしまいました。
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