
諸大名の戦力を削ごうとした徳川家
一国一城令とは文字どおり一つの国に対して城は一つと定めた法令ですが、この解釈は誤解だと招くかもしれません。そこで補足すると、ますここでの一国とは現在の捉え方ではなく旧国の捉え方であり、例えば現在の京都である山城国、神奈川である相模なども一国に含まれます。
分かりやすく言えば「一国=一つの藩」と考えるとイメージしやすく、正確な言葉で表現するなら大名の領国または令制国でしょう。一国に対してその領国を治める大名の居城は一つと定められたのが一国一城令で、大名が住む居城以外の城を廃城することが求められました。
さて、法令が定められる以上はその目的が必ずありますが、一国一城令の目的は諸大名の戦力を削ることです。外様大名が反乱を起こす可能性を怖れた徳川家は、全国統治をより万全なものにするために一国一城令を定め、特に豊臣家との結びつきが強かった西日本は厳しく管理していました。
譜代大名と外様大名の違い
一国一城令を発令するほど徳川家が反乱を警戒していた外様大名とは、一体どのような存在なのでしょうか。外様大名と対称的な存在として譜代大名が挙げられますが、江戸時代の大名の中には関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であり、関ヶ原の戦い後に徳川家に任命された大名もいますが、このような大名を譜代大名と呼びます。
一方、外様大名とは関ヶ原の戦い以前から既に大名であり、関ヶ原の戦い後に徳川家の家臣となった大名のことです。元々徳川家に仕えていた譜代大名は言わば家臣としての経歴が長いために信頼も厚く、その点で徳川家も譜代大名は怖れていなかったに違いありません。
しかし、外様大名は関ヶ原の戦い後に家臣となったため家臣としての経歴も短く、さらに元々大名であったことから一人の人物で比較すれば徳川家の将軍と同格と言えますね。そのため徳川家も完全な信頼はしておらず、また元々は同等の力を持っていたことから反乱を怖れていたのです。
武家諸法度による一国一城令の補足
徳川家は一国一城令を発令した翌月、つまり1615年7月に武家諸法度も発令しており、「武家」の名が示すとおり家臣である武家……すなわち大名に対していくつかの法令を出しました。政権の安定と維持を目的とした武家諸法度では、一国一城令についての補足のようなものも含まれています。
一国一城令でお城の数を減らしても、諸大名が後に築城してしまっては意味がありません。そこで武家諸法度にて「新たな城の築城はもちろん、幕府の許可なしで居城を修理することも禁止」と発令、これは一国一城令の意味と目的をより確かなものとなる内容でしょう。
ちなみに、武家諸法度を発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、その内容は将軍が代替わりするたびに改定されています。江戸幕府において徳川家の将軍は幕末の第15代将軍・徳川慶喜まで続いていきますが、第7代将軍・徳川家継と第15代将軍の徳川慶喜以外の全ての将軍がその都度改定して武家諸法度を発令しているのです。
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