今日は一国一城令(いっこくいちじょうれい)について勉強していきます。

戦国時代の日本ではそれは多くの城が建てられており、全国には3000以上もの城が存在していたとされている。

しかしある時を境に城の数は激減、3000以上も存在した城の約9割が廃城となり、その数は170程度まで減ったという。その「ある時」とは一国一城令であり、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から一国一城令をわかりやすくまとめた。

一国一城令の意味とその目的

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天下統一を果たした徳川家

織田信長、豊臣秀吉、次々と歴史の主役が現れる中で、密かに次の主役の時を待っている人物がいました。その人物とは徳川家康、織田信長や豊臣秀吉に従っていた彼は、配下として戦乱の世を生き残り、ついには関ケ原の戦いに勝利して江戸幕府を開きます。

さらには、大阪冬の陣と大阪夏の陣において亡き豊臣秀吉の豊臣家も滅亡させて完全に天下統一、歴史の新たな主役が誕生した瞬間でした。こうして徳川家が政治の主導権を握るようになった中、1615年に幕府より発令されたのが一国一城令です。

徳川家が豊臣家を滅ぼしたのが1615年の5月、一国一城令を発令したのが同年の6月ですから、一国一城令は大阪冬の陣と夏の陣……すなわち大阪の陣の後、すぐに発令したことが分かりますね。発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、立案したのは初代将軍・徳川家康です

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諸大名の戦力を削ごうとした徳川家

一国一城令とは文字どおり一つの国に対して城は一つと定めた法令ですが、この解釈は誤解だと招くかもしれません。そこで補足すると、ますここでの一国とは現在の捉え方ではなく旧国の捉え方であり、例えば現在の京都である山城国、神奈川である相模なども一国に含まれます。

分かりやすく言えば「一国=一つの藩」と考えるとイメージしやすく、正確な言葉で表現するなら大名の領国または令制国でしょう。一国に対してその領国を治める大名の居城は一つと定められたのが一国一城令で、大名が住む居城以外の城を廃城することが求められました。

さて、法令が定められる以上はその目的が必ずありますが、一国一城令の目的は諸大名の戦力を削ることです。外様大名が反乱を起こす可能性を怖れた徳川家は、全国統治をより万全なものにするために一国一城令を定め、特に豊臣家との結びつきが強かった西日本は厳しく管理していました

外様大名と武家諸法度

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譜代大名と外様大名の違い

一国一城令を発令するほど徳川家が反乱を警戒していた外様大名とは、一体どのような存在なのでしょうか。外様大名と対称的な存在として譜代大名が挙げられますが、江戸時代の大名の中には関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であり、関ヶ原の戦い後に徳川家に任命された大名もいますが、このような大名を譜代大名と呼びます。

一方、外様大名とは関ヶ原の戦い以前から既に大名であり、関ヶ原の戦い後に徳川家の家臣となった大名のことです。元々徳川家に仕えていた譜代大名は言わば家臣としての経歴が長いために信頼も厚く、その点で徳川家も譜代大名は怖れていなかったに違いありません。

しかし、外様大名は関ヶ原の戦い後に家臣となったため家臣としての経歴も短く、さらに元々大名であったことから一人の人物で比較すれば徳川家の将軍と同格と言えますね。そのため徳川家も完全な信頼はしておらず、また元々は同等の力を持っていたことから反乱を怖れていたのです

武家諸法度による一国一城令の補足

徳川家は一国一城令を発令した翌月、つまり1615年7月に武家諸法度も発令しており、「武家」の名が示すとおり家臣である武家……すなわち大名に対していくつかの法令を出しました。政権の安定と維持を目的とした武家諸法度では、一国一城令についての補足のようなものも含まれています。

一国一城令でお城の数を減らしても、諸大名が後に築城してしまっては意味がありません。そこで武家諸法度にて「新たな城の築城はもちろん、幕府の許可なしで居城を修理することも禁止」と発令、これは一国一城令の意味と目的をより確かなものとなる内容でしょう。

ちなみに、武家諸法度を発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、その内容は将軍が代替わりするたびに改定されています。江戸幕府において徳川家の将軍は幕末の第15代将軍・徳川慶喜まで続いていきますが、第7代将軍・徳川家継と第15代将軍の徳川慶喜以外の全ての将軍がその都度改定して武家諸法度を発令しているのです。

一国一城令に基づかない例外

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徳川家に優遇されていたケース

一国一城令を素直に捉えれば「藩の数=城の数」となるはずですが、実際にはそれが一致せず、なぜなら例外もあるからです。そんな例外のケースを解説すると、例えば加賀百万石と呼ばれていた加賀藩の場合ですね。加賀藩は加賀・能登・越中の3つの国を領土としていましたから、その時点で既に他の藩とは規模が違うでしょう。

それでも当初は一国一城令に基づき、加賀にある金沢城のみを残して他の城は破却していました。しかし、2代目の藩主・前田利常は徳川家と親密な関係だったことから、破却した小松城の再建を許可されており、言わば特別扱いで優遇されたため一国一城令の型にはまっていないのです。

前田利常と同様、特別扱いによる優遇を受けたのが鳥取藩の池田氏。鳥取藩は因幡・伯耆の二国を領土にしていたため、本来なら許可された城の数は2つでしょう。しかし、鳥取藩の藩主家には徳川家康の次女の血が含まれていたため、例外として3つもの城の所有が認められました。

領土の規模や統治する大名の人数で認められたケース

さらに例外のケースを解説すると、久保田藩の佐竹氏も複数の城の所有が認められており、これは領土の規模が広すぎて一つの城だけでは対応が難しかったためですね。そもそも佐竹氏は徳川家康によって地元から引き離されていましたから、それだけで戦力を削ぐ効果が充分あったと判断されたのでしょう。

また、一国が複数の大名によって統治されていたケースもあります。国は一つでもそこを治める大名は複数存在したことから、大名の人数だけで城を残すことも認められたのです。一方、幕府への気遣いで城を減らしたという特殊なケースもあり、その意味で毛利家は従順だったのかもしれません。

毛利家が統治する萩藩は周防と長門の二国を領土としており、本来2つの城を残すことが認められていました。しかし、毛利家は萩城以外の城を破却しており、これは幕府の圧力によるものではなく、毛利家が自主的にこのような形にして幕府に報告したとされています。

一国一城令に対する大名の反応

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一国一城令が大名にもたらすメリット

一国一城令は言わば徳川家が大名に対して行った反乱防止であり、大名からすればデメリットだらけの法令に思えるかもしれません。事実、一時期は3000を超えていた城の数が170ほどまで減らされており、一国一城令によっておよそ9割以上の城が全国で失われているわけですからね。

徳川家の狙いどおり、各国の大名は大幅に戦力を削がれてしまいますが、一方で大名にとって一国一城令の発令にはメリットもありました。一国一城令が発令された以上、家臣は城を所有することができず、そのため城を所有できる大名とそうでない家臣とでは明確に地位の差が出たのです

それは大名が統治を行いやすくなることを意味しており、一国一城令によって領土における大名の支配は行いやすくなったと言えるでしょう。また、城が減ったことで衝突による戦いも起こりにくくなり、徳川家への反乱のみならず戦いが起こらないことは日本の平和の維持にもつながりました。

一国一城令の法令に背いた大名

大名の中には一国一城令を守らなかった者もおり、法令に背いた大名がどうなるのかも解説しておきましょう。広島城を居城としていた福島正則は、台風によって被害を受けた広島城の修復を急いでいました。しかし幕府から修復の許可がなかなか下りず、そこで勝手に修復してしまったのです。

最も、この場合は許可を下さない幕府の対応にも問題ありと考えられますが、一説では福島正則に前科があったのが理由だと解説されています。福島正則は一国一城令が発令される以前にも、隣国への牽制を目的に城を築城したことがあり、その際も幕府から廃城を命じられました。

もしかすると、幕府はこのような福島正則の行動を問題視して城の修復を許可しなかったのかもしれませんね。ともあれ、勝手に城を修復した福島正則は幕府に処罰を受けており、怒った徳川秀忠によって大名の地位を解任されてしまいました

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盤石な統治体制を築いた江戸幕府のその後

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大名に向けたさらなる制度となる参勤交代

江戸幕府は全国統治を万全なものとするため、一国一城令武家諸法度を発令して支配体制を強化していきました。これらはいずれも江戸幕府の基本となる政治政策ですが、もう一つ忘れてはならないのが1635年に3代目将軍・徳川家光によって定められた参勤交代ですね。

参勤交代とは、大名が自身の領地と江戸とを1年の交代で往復することを義務化したもので、大名の妻子は人質の意味を含めて江戸に居住することになりました。一国一城令や武家諸法度とは全く内容が異なるものの、大名を対象にした制度という点は同じでしょう。

これもやはり、将軍と大名の主従関係を維持することが目的で定められた制度です。ちなみに、参勤交代にかかる費用によって藩の財政が圧迫して大名の財力を減らす効果もありましたが、あくまでそれは結果論であり、幕府はそれを目的として参勤交代を定めたわけではないと現在では解釈されています。

江戸幕府が衰退したのはなぜか

盤石な統治体制を確立した江戸幕府ですが、その江戸幕府が一体どうやって衰退していったのでしょうか。それは一国一城令を発令した1615年より250年近く先のことであり、大きなきっかけとなったのが1858年にアメリカと不平等条約を締結したことでした。

その頃の日本は開国して外国との交流が生まれますが、外国の軍事力は非常に高く、日本を統治する幕府でさえ対等な関係を築くのが困難なほどだったのです。そのため、不平等条約ですら天皇に無許可で調印する始末となり、人々はそんな幕府に対して失望して不満を募らせていきます。

やがて武力も低下した幕府、しかもそれが露呈してしまい、日本では倒幕ムードが加速していきました。このような中、天皇中心の政治を行うべきという思想が生まれ、次第に幕府は衰退、ついには戊辰戦争と呼ばれる大きな戦争が起こって幕府の時代は終わりを迎えたのです。

一国一城令と武家諸法度を区別しよう!

一国一城令のポイントは武家諸法度との区別です。どちらも1615年に制定されたものであり、また武家諸法度には一国一城令に関わる内容も含まれていますが、これらはイコールではありません。

一国一城令は文字どおり一つの国に城は一つと定めたもの、それに対して武家諸法度は「無断で築城してはならない」など、一国一城令の補足したものであり、さらに武家諸法度ではその他に全く別の制度も含まれています。

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日本史歴史江戸時代

日本の城を9割減らした「一国一城令」とは?その意図を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は一国一城令(いっこくいちじょうれい)について勉強していきます。

戦国時代の日本ではそれは多くの城が建てられており、全国には3000以上もの城が存在していたとされている。

しかしある時を境に城の数は激減、3000以上も存在した城の約9割が廃城となり、その数は170程度まで減ったという。その「ある時」とは一国一城令であり、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から一国一城令をわかりやすくまとめた。

一国一城令の意味とその目的

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天下統一を果たした徳川家

織田信長、豊臣秀吉、次々と歴史の主役が現れる中で、密かに次の主役の時を待っている人物がいました。その人物とは徳川家康、織田信長や豊臣秀吉に従っていた彼は、配下として戦乱の世を生き残り、ついには関ケ原の戦いに勝利して江戸幕府を開きます。

さらには、大阪冬の陣と大阪夏の陣において亡き豊臣秀吉の豊臣家も滅亡させて完全に天下統一、歴史の新たな主役が誕生した瞬間でした。こうして徳川家が政治の主導権を握るようになった中、1615年に幕府より発令されたのが一国一城令です。

徳川家が豊臣家を滅ぼしたのが1615年の5月、一国一城令を発令したのが同年の6月ですから、一国一城令は大阪冬の陣と夏の陣……すなわち大阪の陣の後、すぐに発令したことが分かりますね。発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、立案したのは初代将軍・徳川家康です

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