今回は緒方洪庵先生を取り上げるぞ。先生が育てた人材は幕末から明治に欠かせない逸材が大勢いたんですね。

その辺のところを明治維新と蘭学者に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、緒方洪庵について5分でわかるようにまとめた。

1-1、緒方洪庵は足守藩士の生まれ

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緒方洪庵(おがたこうあん)は、文化7年(1810年)7月14日、備中国2万5千石木下家の足守(現在の岡山市北部)藩士佐伯瀬左衛門惟因の3男として誕生。母は石原光詮の娘のキャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)、諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号は、洪庵の他に適々斎、華陰。

洪庵の父は下級武士だが、藩の経済や訴訟に関わる仕事で知識人、洪庵の長兄は夭折し、次兄が父の跡継ぎに。

1-2、洪庵の子供時代

洪庵は8歳のとき天然痘にかかったが、軽くて済んだよう。

そして司馬遼太郎著「花神」によれば、洪庵が12歳の頃に備中岡山にコレラが流行って大勢の人が犠牲になり、近所の親しい一家全員が亡くなったが漢方ではどうすることも出来ないのをみて、医師になって人を救おうとしたということ。

ただ、この時代、身分制度がある時代なので、医師とか学者、お坊さんは方外つまり士農工商の身分制度の外の存在として扱われていたということで、武士の身分から外れると父はいい顔をしなかったそう。

1-3、洪庵、16歳で大坂の塾へ入門

文政8年(1825年)2月5日、16歳で元服して田上惟章と名乗り、父が医者になるのを許さなかったので翌年に家出、蘭医の大槻玄沢の弟子である大坂の中天游(なかてんゆう)の思々斎(ししさい)塾に入門。父は藩の大坂屋敷詰めになって大坂へ来て、洪庵の医者修業は許されたということ。

尚、洪庵は以後、緒方を名字に。そしてオランダ医学を学び、4年間学んだ洪庵に対して天游は、もう自分が教えることはないと江戸での勉強を勧めたので、洪庵は21歳で江戸へ。

2-1、洪庵、江戸、次に長崎で学び、大坂で医業を開業、適塾も開塾

天保2年(1831年)、洪庵は江戸へ出て坪井信道、さらに宇田川玄真にも学んだ後、天保7年(1836年)には長崎へ行き、出島のオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から洪庵と名乗ったということ。

そして天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業し、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開塾、同年、天游門下の先輩、億川百記の娘八重と結婚、のちに6男7女をもうけることに。

尚、弘化2年(1845年)洪庵35歳のとき、門下生が増えて手狭になり、今も残る過書町(現大阪市中央区北浜3丁目)に適塾を移転。洪庵の故郷、足守藩の藩主木下利愛(としちか)は、医師として成功した洪庵に捨扶持として3人扶持を

2-2、適塾の方針

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「花神」によれば、この時代は医師になる動機として「卑賤の秀才がその境遇から脱するための目標」とされることが多かったということ。日本では西洋のようにキリスト教世界から育ったのではないため、医師道徳が発達しにくかったが、洪庵自身が医師になった動機はそう考えるとかなり異例なことだそう。

洪庵は人を救うための人間愛から医師になった人で、無欲な生まれついての親切者なので、医師というのは飛び切りの親切者以外はなるべき仕事ではない、病人を見ればだれであろうが可哀そうでたまらなくなるという性分の者以外は医者になるなと門下生に諭したということ。

こういう洪庵だから、弟子から日本赤十字創設者佐野常民や箱館戦争で敵味方の区別なく治療した高松凌雲のような人物が出たというわけかも。

また適塾というのは、洪庵の号からとったものだが、洪庵は熟成に必ずしも医学の道ではなく、様々な方面での活躍を望んでいたらしく、塾生の適するところにおもむかせるという学風のようなものがあったせいで、大村益次郎や福沢諭吉などが出たということ。

尚、適塾の続いた25年間に、入塾者は記名者が600人を超えていて、記入しない者を入れると約3千人が学んだそう。

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2-3、適塾の勉強方法

適塾ではかなり合理的な方法で塾生を教えたということで、30畳の部屋に30人の生徒が住み、畳一畳分が塾生の居場所で、最初は一番奥の暗い一隅から始め、5日おきの会読の成績如何でよい場所に移れるという合理的なシステム。

また塾生は学力によって8学級に分けられていて、学級ごとに月6回の輪講があり、先輩塾生が後輩に教える相互学習制度。洪庵先生は、塾頭や最上級生らだけに講義したそう。隣はズーフ部屋という移動禁止の一冊の貴重な日蘭の辞書が置かれた部屋で、毎晩塾生の誰かが勉強に使っていて、部屋の明かりが消えることがないと言われたそう。

洪庵は医師で、蘭医を目指す塾生が集まって解剖の授業もあったのですが、適塾ではオランダ語の医学書を解読して学ぶのが主なので、オランダ語読解がメインであったということ

2-4、ペリーの黒船来航後、蘭学者の需要が急増

開国後、各藩では西洋の最新知識が必要とされるようになり、オランダ語が理解できる学者、ましてや著名な適塾の塾頭となれば、300石扶持などの高禄で大藩から召し抱えの誘いが来ること間違いなしといわれたほど。

3-1、洪庵の弟子たち

そうそうたるメンバーですが、世話好きの洪庵先生のおかげか、在塾期間が違っても交流はあったということで、洪庵先生の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となり、6月10日と11月10日を恩師の記念日として、同窓生の親睦会を開き、長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加したそう。

3-2、橋本左内

越前福井藩士の橋本左内は、藩のご典医の家系で、若くして藩命により適塾に学び希代の秀才といわれたが、父の病気で退塾した人。左内は適塾に在塾中、医者は嫌いと言っていたのに、夜にこっそりと出ていきホームレスに無料診療していたということ。洪庵先生はそれを聞いて、今は友人だが、左内は今に自分が遠く及ばないえらい人になるとため息をついて感心したそう。左内はその後、藩主松平春嶽のアドバイザーとなり藩政改革も行ったが、25歳で安政の大獄で処刑。

\次のページで「3-3、大村益次郎」を解説!/

3-3、大村益次郎

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エドアルド・キヨッソーネ - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

長州の村医の息子で村田良庵と言った頃に入塾し、塾頭に。この人はどう見てもアスペルガー症候群で不愛想で挨拶が出来ない人のようですが、洪庵先生は特に可愛がり、後に二宮敬作が宇和島藩が優秀な蘭学者を探しているので紹介してくれと訪ねてきたので、洪庵はこの人を推挙したのが、世に出たきっかけに。

大村は後に長州征伐の幕府軍に対する長州軍の総司令官、官軍の総司令官となり、日本陸軍の創始者に。しかし、軍隊経験もまったくなく実地体験せず、適塾で学んだオランダ語を駆使して、蕃書調所とか藩に頼まれたオランダの兵書を翻訳したりしただけの戦術で軍隊を指揮し、連戦連勝したという、よく考えると異色の人。

3-4、福沢諭吉

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中津藩士の息子として生まれ、適塾で学び塾頭になったが、塾生の時代に腸チフスにかかり、洪庵先生が親身に看病してくれたことが忘れられなかったそう。福沢は横浜ではフランス語と英語ばかりでオランダ語が通じず、看板すら読めなくてショックを受けて英語の時代を痛感したのは有名だが、洪庵先生はそういう話もニコニコと聞き、自分の蘭学が時代遅れになったとしても受け容れる心の広さを持ち、晩年には適塾でも英語を教えるように。福沢は慶応義塾の創始者で、幕府の「西洋紀聞」「学問のすすめ」などの今でいう自己啓発書のさきがけも。

3-5、大鳥圭介

播州赤穂の村医の子として生まれ、閑谷学校や適塾などで学んだあと、江戸に出て兵書などの翻訳をし蕃書調所へ出仕。幕臣に取り立てられて幕府陸軍の育成、訓練にあたり、江戸開城後は伝習隊を率いて奥州へ転戦。榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となったが、五稜郭の戦いの後、降伏。東京で3年投獄の後に許されて、新政府の技術部門や教育部門の役人を歴任。大村益次郎は、適塾の後輩のために大鳥を助けなくてはと助命運動したそう。

3-6、高松凌雲

高松凌雲は、筑後国の庄屋の子として生まれ20歳の時、久留米藩家臣の川原家の養子となり、江戸の兄を頼って医師を志し、蘭方医石川桜所の門下に入った後に適塾に入塾。そして幕府が開いた英学所で英語もマスターし、一橋家が専属医師として抜擢。一橋慶喜が15代将軍になると奥詰医師となり、慶喜の弟昭武に随行医としてパリ万博へ行き、残留して1年半の留学。帰国して箱館戦争に参加、箱館病院の院長に就任し、敵味方の区別なく治療したのが、日本で初めての赤十字活動ということに。明治後は民間で無料治療に専念、民間救護団体の前身である同愛社を創設。

3-7、長与専斎

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)の漢方医の家系に生まれ、大村藩の藩校五教館で学んだ後、適塾に入門して福沢諭吉の後に塾頭となり、その後大村藩の侍医となったが、長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペと後任マンスフェルトに学んだ後に長崎精得館の医師頭取に就任。

岩倉使節団の一員として渡欧、ドイツやオランダの医学、衛生行政を視察後、文部省医務局長に就任後、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務し、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設。尚、衛生の訳語は長与が採用したということ。そして衛生局の初代局長に就任し、コレラなどの伝染病の流行に際して衛生のための工事を推進し、衛生思想の普及に尽力。

3-8、佐野常民

佐賀藩士の子として生まれ、佐賀藩医の養子となり、色々な塾で学んだ後、適塾で学び、さらに紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾、江戸の伊東玄朴の象先堂塾では塾頭となり、戸塚静海にも学び、勤皇運動に傾倒したために藩から佐賀に戻るよう命じられ、長崎で家塾を開いたのち、幕府の長崎海軍伝習所に佐賀藩から第一期生として参加。またパリ万博に参加後、ヨーロッパでは諸国の軍事、産業、造船術などを視察し、帰国後は海軍の基礎作りや西洋式灯台作りに携わり、ウィーン万博に派遣されたりしたのち、日本赤十字社の前身である博愛社の総副長となり、日本赤十字の父と言われるように。

\次のページで「4-1、洪庵、種痘にも熱心に取り組む」を解説!/

4-1、洪庵、種痘にも熱心に取り組む

洪庵は、嘉永2年(1849年)出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わった痘苗を入手して、古手町(現大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開設して、牛痘種痘法での切痘を無償で開始。翌年には故郷の足守藩の要請で足守除痘館も開設。牛痘種痘法は牛になるなどという迷信の障害や、もぐりの牛痘種痘法者が現れたりと苦労もあったが、除痘館が公認とされるように奔走した結果、幕府が公認、牛痘種痘は免許制に。

洪庵はまた、日本最初の病理学書「病学通論」、コレラ流行に際して「虎狼痢治準」という治療手引き書を出版。

4-2、洪庵先生、江戸で出世するもストレスで急死

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洪庵は、最晩年の文久2年(1862年)、再三断ったにもかかわらず、幕府からの要請で奥医師と西洋医学所頭取として江戸へ赴いて出仕することに。洪庵は、将軍家茂の侍医として「法眼」の地位(医師として最高位)を得たが、堅苦しい宮仕えや新しい地位のための出費に苦しんだということで、ストレスが健康を蝕んだらしく、文久3年6月11日(1863年7月25日)、江戸の役宅で突然喀血し窒息により54歳で死去。

適塾は洪庵の死後閉塾となったが、現在は大阪大学医学部に受け継がれているということ。

厳しい競争はあるが自由な校風で塾生を育てた

緒方洪庵は、蘭学医として種痘の普及やコレラの治療などでも貢献し、適塾を開いて幕末に活躍する逸材を続々と育てたことで有名。

優秀な塾生が集まりよほど猛勉強しないと付いて行けない、当時は合理的な塾でしたが、卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱、立身出世を求めたり、わが身の行く末を案じて勉強するのではなくて、純粋に学問修行に努めてものごとすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養うのが肝心という教えは、今も通じるものがあるかも。

しかしどんな先生かと思いきやほとんど怒ったことがないという温厚な人柄で、蘭学医ネットワークを駆使し、弟子たちの身の振り方の相談にも乗り、推薦も行い、弟子たちがいつ訪れても歓迎して話を聞くのを楽しみにしていたよう。また、蘭学よりも英語の時代になってもすんなりと受け入れるという、進んだ考え方の持ち主でしたが、晩年には本人は嫌がっているのに江戸城務めなんかさせたせいで、寿命を縮めたのがほんとうに気の毒でたまらないです。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

適塾を開いて優れた人材を育成した「緒方洪庵」日本近代医学の祖について歴女がわかりやすく解説

今回は緒方洪庵先生を取り上げるぞ。先生が育てた人材は幕末から明治に欠かせない逸材が大勢いたんですね。

その辺のところを明治維新と蘭学者に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、緒方洪庵について5分でわかるようにまとめた。

1-1、緒方洪庵は足守藩士の生まれ

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緒方洪庵(おがたこうあん)は、文化7年(1810年)7月14日、備中国2万5千石木下家の足守(現在の岡山市北部)藩士佐伯瀬左衛門惟因の3男として誕生。母は石原光詮の娘のキャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)、諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号は、洪庵の他に適々斎、華陰。

洪庵の父は下級武士だが、藩の経済や訴訟に関わる仕事で知識人、洪庵の長兄は夭折し、次兄が父の跡継ぎに。

1-2、洪庵の子供時代

洪庵は8歳のとき天然痘にかかったが、軽くて済んだよう。

そして司馬遼太郎著「花神」によれば、洪庵が12歳の頃に備中岡山にコレラが流行って大勢の人が犠牲になり、近所の親しい一家全員が亡くなったが漢方ではどうすることも出来ないのをみて、医師になって人を救おうとしたということ。

ただ、この時代、身分制度がある時代なので、医師とか学者、お坊さんは方外つまり士農工商の身分制度の外の存在として扱われていたということで、武士の身分から外れると父はいい顔をしなかったそう。

1-3、洪庵、16歳で大坂の塾へ入門

文政8年(1825年)2月5日、16歳で元服して田上惟章と名乗り、父が医者になるのを許さなかったので翌年に家出、蘭医の大槻玄沢の弟子である大坂の中天游(なかてんゆう)の思々斎(ししさい)塾に入門。父は藩の大坂屋敷詰めになって大坂へ来て、洪庵の医者修業は許されたということ。

尚、洪庵は以後、緒方を名字に。そしてオランダ医学を学び、4年間学んだ洪庵に対して天游は、もう自分が教えることはないと江戸での勉強を勧めたので、洪庵は21歳で江戸へ。

2-1、洪庵、江戸、次に長崎で学び、大坂で医業を開業、適塾も開塾

天保2年(1831年)、洪庵は江戸へ出て坪井信道、さらに宇田川玄真にも学んだ後、天保7年(1836年)には長崎へ行き、出島のオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から洪庵と名乗ったということ。

そして天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業し、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開塾、同年、天游門下の先輩、億川百記の娘八重と結婚、のちに6男7女をもうけることに。

尚、弘化2年(1845年)洪庵35歳のとき、門下生が増えて手狭になり、今も残る過書町(現大阪市中央区北浜3丁目)に適塾を移転。洪庵の故郷、足守藩の藩主木下利愛(としちか)は、医師として成功した洪庵に捨扶持として3人扶持を

2-2、適塾の方針

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「花神」によれば、この時代は医師になる動機として「卑賤の秀才がその境遇から脱するための目標」とされることが多かったということ。日本では西洋のようにキリスト教世界から育ったのではないため、医師道徳が発達しにくかったが、洪庵自身が医師になった動機はそう考えるとかなり異例なことだそう。

洪庵は人を救うための人間愛から医師になった人で、無欲な生まれついての親切者なので、医師というのは飛び切りの親切者以外はなるべき仕事ではない、病人を見ればだれであろうが可哀そうでたまらなくなるという性分の者以外は医者になるなと門下生に諭したということ。

こういう洪庵だから、弟子から日本赤十字創設者佐野常民や箱館戦争で敵味方の区別なく治療した高松凌雲のような人物が出たというわけかも。

また適塾というのは、洪庵の号からとったものだが、洪庵は熟成に必ずしも医学の道ではなく、様々な方面での活躍を望んでいたらしく、塾生の適するところにおもむかせるという学風のようなものがあったせいで、大村益次郎や福沢諭吉などが出たということ。

尚、適塾の続いた25年間に、入塾者は記名者が600人を超えていて、記入しない者を入れると約3千人が学んだそう。

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