幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

幕末に活躍した凄腕イギリス公使「ハリー・パークス」について歴女がわかりやすく解説

2-9、その後のパークス

明治16年(1883年)7月、駐日イギリス公使を18年務めた後、清国公使に昇進して離日。1884年からは駐韓公使を兼ねたが、1885年、北京でマラリアのため、57歳で死去。

3-1、パークスの逸話

パークスの日本公使としての在職期間は18年で、歴代の駐日イギリス公使、大使の中では最長記録。ただし通算の日本滞在期間はアーネスト・サトウの25年が最長。またパークスは、夫人とウィリスたちと共に富士山に登頂したこともあるなど、色々な逸話があります。

3-2、パークス、若い公使館員に日本研究を奨励

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パークスは、部下に対してものすごく厳しく、神経が参った自殺者が2人ほど出たくらいだったが、反面、若い公使館員たちに、公使館の実務を午前中で終えて午後は日本についての研究、学習を奨励したので、サトウやウィリアム・ジョージ・アストンのような優れた日本学者が続々と誕生し、これは後々まで駐日イギリス大使館の伝統になっているよう。ミットフォードも「昔の日本の物語」などを書いて赤穂浪士を欧州に初紹介。

また、明治2年(1869年)にはパークスと公使館員が調査した「日本紙調査報告」を作成して本国に報告したが、412種類もの和紙が収集された大変貴重なコレクションは、現在ヴィクトリア&アルバート博物館、キューガーデンズに保管されていて、1994年に「海を渡った江戸の和紙」展で日本に里帰り展示されたということ。

3-3、パークス、癇癪もちで有名

パークスは外交官としては有能だが、相手に言うことを聞かせようとするためにしばしば怒号を発する癖あり。部下のサトウやミットフォードは、パークスは長年中国で威嚇的な態度で従わせて成功したので、同じアジアの日本でもそれが通用すると思っているのだろうが、日本人は怒鳴りつけて従わせようとしてもだめだと、いくら言っても聞いてくれないと頭を抱えていたといいうこと。

サトウは通訳として、パークスの激しい罵倒する言葉を通訳するのが苦痛だったということで、「一外交官の見た明治維新」では、後藤象二郎と会見したとき、パークスの前回の暴言に付いて後藤に苦言を呈されたので、自分の代わりにパークスに言ってくれと頼んだほどで、次回の会見の最後に後藤はパークスにちょっと説教したが、後藤は物分かりの良い人物としてパークスは気に入っていたので一応は怒鳴らずに事なきを得たという話も。

3-4、フランス公使ロッシュをライバル視

部下のミットフォードによれば、ふたりの女のように嫉妬しあった仲と揶揄されたほどで、「英国外交官の見た幕末維新」にも、パークスがロッシュが幕府のためにフランスから陸軍の教官を招聘することになったので、自分はイギリス海軍の教官を呼ぶんだと対抗心を燃やすシーンが登場。

実際にこの通りになり、明治後、日本の陸軍はその後ドイツ式に変換したが、太平洋戦争終戦まで日本の海軍はイギリス式で、広島の江田島海軍兵学校には、イギリス海軍から贈られたネルソン提督の遺髪がご神体のように飾ってあったそう。

尚、ロッシュはパークスのような有能な部下たちに恵まれず、幕府に入れ込み過ぎたせいで幕府が倒れた後は日本公使を辞任、パークスはライバルに勝利したということ。

3-5、叩き上げで教養がないが、有能な実務家

パークスは若くして中国に渡り、働きながら中国語を会得して現地採用の外交官として実務をこなしたので、ノンキャリア中のノンキャリアとして異例の出世を遂げた優秀な外交官ですが、イギリス人と言えば、スノッブな会話にも文章にもあらわれてしかるべきの教養がなかったのですね。

サトウの回想録にも、パークス自身がこのことをよくわかっていて、暇を見てはむさぼるように読書をしていると書いていますが、同時に「疲れを知らない精励家で、その職務に全く没頭し、局囲の事情に正しく目を配って倦むことを知らなかった」と評し、また「日本は1868年の革命の際に、パークスが別の側に立っていたり、他の公使仲間と一緒に単純な行動に与していたならば、王政復古の途上にいかんともなしがたい障害が起こって、あのように早く内乱が終息することは不可能だったろう。日本はパークスのおかげを被っており、日本はこれに報いてもいないし、パークスの努力を認めてもいない」と回想録に。

また伊藤博文も、「パークスぐらい聡明勇断で職務に忠実な人にはまだ会うたことがない」と述懐。

幕末、明治維新では無視できない存在感を持ったイギリス公使だった

ハリー・パークスは、若くして中国へ渡り現地採用された叩き上げの外交官で、期待されて鳴り物入りで日本に着任した外交官でした。

自身も骨身を惜しまず活動、また部下たちにも同じように要求するという厳しい面をもち、何かというと怒鳴りつけて意に従わせようとするのが玉にきずでしたが、有能なサトウ、ウィリス、ミットフォードらの部下に恵まれ、彼らの有能さを認めて自由に情報収集をさせて意見を聞き入れたおかげで、表面中立を保ちつつも、はやくから薩摩や長州が幕府を倒して新政府樹立するのを見通して友好関係を結ぶことができ、ライバルで幕府に入れ込み過ぎて自滅したフランス公使ロッシュにも勝利したのは、やはりパークスが有能な上司だったからでしょう。

明治後は、新政府はわしが作ったといわんばかりに、教師のように上から怒鳴りつつ近代化を指導し、元勲たちをげんなりさせたそうですが、江戸城無血開城にも影響力を及ぼしたといわれるパークスの功績は、有能な若手イギリス外交官たちの活動と共に明治維新の時代を語るときには忘れてはいけないことでは。

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