今回はハリー・パークスを取り上げるぞ。この人はアーネスト・サトウの上司として幕末に活躍したんですね。

その辺のところを明治維新のイギリス外交官に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、特にイギリス外交官には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ハリー・パークスについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ハリー・パークスはアッパーミドル階級の生まれ

サー・ハリー・スミス・パークス(公使になるとサーの称号が授与される)は、イングランドのウェスト・ミッドランズのブロックスウィッチで鉄工場主の長男として、1828年2月24日に誕生。父は銀行員から脱サラで鉄工場を営んだということで、父方の祖父は牧師、母方の祖父は郵便局長兼文具商という中産階級の出身。この頃のイギリスはヴィクトリア女王の前のウィリアム4世の時代。

1-2、パークス、孤児となり、従姉を頼って中国へ

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パークスは、4歳で母を病気で、5歳で父を馬車の事故で亡くした後、2人の姉と共にバーミンガムの退役海軍将校の叔父に引き取られて寄宿学校に。パークスの生まれたのはワーテルローの戦いでイギリスがナポレオンに勝利して13年後、パークスも退役海軍士官の叔父から、イギリス海軍のネルソン提督の話を聞かされて育ったということ。

しかし9歳のときに叔父も死亡、10歳からはキング・エドワード・グラマースクールで学んでいたが、1841年、13歳のとき、宣教師のカール・ギュツラフに嫁いだ従妹と中国で暮らしていた姉たちを頼って清のマカオに赴き、中国語の勉強をするかたわらで、翌年から英国全権ヘンリー・ポティンジャー(のちの初代香港総督)の秘書で通訳のジョン・モリソンのもとで働いたそう。

というわけで、若きパークスは1840年から42年までのアヘン戦争を目撃し、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印にも立ち会ったということ。

カール・ギュツラフ
中国で活躍したドイツ人宣教師で、聖書を日本語に翻訳した人物。ギュツラフの訳は現存する最古の日本語訳聖書。ギュツラフは朝鮮、台湾、日本にも関心を持ち、1832年から1833年にかけて鎖国中の日本に入国を試みたが実現せず。1832年8月に、琉球王国の那覇に寄港、臨海寺の近くに上陸し、集まった民衆と役人に、漢訳聖書を配布、琉球王尚氏に漢訳聖書を贈呈後、中国に戻り3人の日本人漂流漁民を引き取って日本語を学び、ヨハネによる福音書の翻訳とヨハネの手紙3通を翻訳してシンガポールで出版。そして1837年7月、ギュツラフとサミュエル・ウィリアムズ宣教師らはモリソン号に乗り、日本人漂流漁民の音吉ら3人と、薩摩の漂流民4人の7人を送り届ける目的で日本上陸を試みたが、異国船打払令により幕府側が砲撃をしたのでやむを得ず引き換した、モリソン号事件の当事者

2-1、パークス、イギリス領事館に現地採用

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1843年、パークスは15歳で広東のイギリス領事館に採用されて、翌年には廈門(アモイ)の領事館通訳になり、この頃から領事だったラザフォード・オールコックのもとで働くことに。そして11年後の1854年、パークスは26歳で廈門(アモイ)領事に就任。1855年には全権委員として英・シャム(タイ)条約締結。1856年、広東領事としてアロー号事件に介入。

1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻のときは、全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務め、若きパークスは、鎖国主義の清国官憲に対して権謀と威嚇の外交を展開、和平会談の準備交渉のために通州に赴いたとき、態度を硬化させた清国軍に捕えられて鎖でつながれてそのまま10月まで北京で投獄されたが、清国の脅したりなだめたりにも態度をガンとして変えなかったそう。

パークスは現地採用ながら中国在住が長く中国語も堪能なため、日本公使に転任したオールコックに認められて、1864年には36歳で上海領事に出世。

2-2、パークス、駐日イギリス公使として赴任

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パブリック・ドメイン, リンク

元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件では、イギリス公使オールコックは下関攻撃に対する主導的な役割を果たして成功をおさめたのですが、この頃は電信がインドまでしかなく許可を得るのに3か月以上もかかるため、この攻撃はオールコックがイギリス政府に許可を取らず。

そして攻撃成功後にイギリス政府から攻撃不可の通知が来てしまったことなどで、オールコックはこの事件の責任を取って駐日イギリス公使を解任され、慶応元年(1865年)、37歳のパークスがオールコックの後任公使として横浜に着任。

2-3、パークス、精力的に活躍

パークスは兵庫開港に向けて幕府との交渉を開始。当時は将軍など幕閣の大半が第一次長州征伐で江戸におらず、パークスはフランス、オランダとともに連合艦隊(アメリカは代理公使)を兵庫沖に派遣、威圧的な態度で幕府、朝廷と交渉を。その結果、孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認めたものの、都に近すぎと兵庫開港は不許可に。

慶応2年(1866年)、パークスは、アメリカ、フランス、オランダとともに幕府と改税約書に調印。その後、長崎のトマス・グラバーの仲介で鹿児島を訪問し、薩摩藩主島津茂久(島津忠義)、その父島津久光、西郷隆盛や寺島宗則と会見。第二次長州征伐直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文ら、小倉で幕府老中小笠原長行と会談、調停をはかるが失敗。その後は船で宇和島藩を訪問して前藩主伊達宗城父子と会見。年末には大火事のあった横浜から公使館を江戸の泉岳寺前に移転。

2-4、パークス、富士山登頂や慶喜、容堂とも会見を

慶応3年(1867年)パークスは江戸での米価高騰の米騒動を目撃したことで、幕府に勧めて外国米の輸入販売を許可する布告を。また大坂で将軍慶喜に謁見、慶喜はまだ勅許を得る前ながら期限どおりに兵庫開港を確約。パークスは慶喜について、「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と絶賛。その後は敦賀を視察した後に、大坂から海路で江戸へ帰り、イギリス海軍教官受け入れ準備のために軍艦奉行の勝海舟と交渉。パークスはその後、軍艦で箱館から日本海を南下、開港に向けての最適な港を探すために、新潟、佐渡、七尾を視察、長崎を経由して大坂へ。

そして長崎で起こったイカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件について聞き込み、幕府にイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及し、土佐藩の関与が疑われたために徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉、前藩主の山内容堂とも会見。そして再び兵庫開港、大坂開市に備えて大坂へ行ったが、王政復古の大号令が出された後に京都を離れて大坂城に入った徳川慶喜らに謁見。

2-5、パークス公使一行、明治天皇への謁見途中で襲撃に遭遇

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From a drawing by Jules Brunet, Artillery Captain of the French Military Mission in Japan - "Le Monde Illustre", June 13th, 1868., パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し幕府軍は敗北、慶喜らが大坂城脱出。前日には幕府から各国外交団の保護不可能との通達でパークスらは兵庫へ移動したが、備前岡山藩兵による神戸事件が勃発、現場にいたパークスは馬で走り、アメリカ海兵隊、フランス水兵とともにイギリス警備隊を率いて備前藩兵と交戦。そして事件後、兵庫に派遣された新政府の東久世通禧と会談、新政府の開国和親、条約遵守の方針を確認、神戸事件についても滝善三郎の切腹で解決に。

パークスは公使団を説得、戊辰戦争への局外中立を宣言。そして新政府の正当性の宣言のため、各国外交団への明治天皇の謁見が行われることに。また続いて土佐藩兵によるフランス水兵殺害の堺事件が勃発したが、事件は加害者の切腹で解決に。

パークスは京都に入り、三条実美、岩倉具視などに会って明治天皇にも謁見するはずが、京都御所に向かうパークス一行を2名の暴漢が襲撃、襲撃者は護衛の後藤象二郎らに撃退され、パークスは無事。パークスは随行のミットフォードに「外交的大事件だね」とコメントしたが、幕府と違い新政府の対応がしっかりしていたこと、とらえた犯人の処罰も行われることになって解決、3日後に改めて明治天皇と謁見。

パークスは新政府の東征軍が江戸に接近しつつあるなか、横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方で慶喜処分案や江戸無血開城に影響を。その後、大坂で明治天皇に謁見し新政府への信任状を奉呈、諸外国ではイギリスが最初に新政府を承認したということ。

2-6、パークス、江戸城無血開城、将軍慶喜助命にも尽力

最後の将軍慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静ら主なメンバーをだまして連れて大坂城から逃亡、船で江戸へ逃げかえった後、勝海舟にあとの処置を丸投げ。勝はナポレオンのロシア進攻でのロシア側のモスクワ大火をモデルに、江戸市中を火の海に慶喜は外国船で亡命させるという計画も持ち、西郷隆盛と会談。最終的に江戸城無血開城、将軍慶喜謹慎助命、幕臣の静岡移住が決定。

もともと西郷は慶喜助命に反対の強硬派で、勝との会談の前に東征軍参謀の木梨精一郎をパークスの元へ派遣し、官軍が江戸に進軍した際、横浜に駐屯しているイギリス軍やフランス軍を動かさないようにパークスに依頼。しかしパークスは無抵抗の慶喜を攻撃するのは万国公法に反すると、例によって激昂、あのナポレオン戦争を引き起こしたナポレオン・ボナパルトですら流刑となって処刑されなかったではないか、という話を持ち出したという説もあり、居留地の外国人を保護する上でも兵を動かすなというのには同意できんと拒絶したそう。西郷隆盛はアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとナポレオンを尊敬し、敬称を付けて呼んでいたし、それ以上に1000人のイギリス兵、その倍以上のフランス兵を敵にまわすのは困ると江戸の街の攻撃を考え直すきっかけにも。

2-7、パークス、外交団のリーダー的存在として新政府と交渉

明治2年(1869年)、パークスは、輔相だった(ほそう、慶応4 (1868年) 閏4月 21日付の政体書で設けられた七官の行政官の首座、明治2年(1869年)7月に廃止)岩倉具視らと会談、フランス、オランダとともに箱館を拠点とした榎本武揚の旧幕軍を交戦団体と認めない立場で、アメリカ、イタリア、プロイセンと対立。岩倉と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題についてなど、外交、内政について話し合いも。

明治4年(1871年)、外務卿の岩倉具視らと会見、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処するための御親兵設置、廃藩置県について話し合い、横浜駐留のイギリス軍の大幅削減を本国に提案して採用に。

その後、パークスは賜暇のためにアメリカ経由でイギリスへ帰国し、アダムズが代理公使に。パークスは賜暇休暇中、イギリス本国で対日外交について政府に、岩倉使節団のイギリス訪問にあたり、日本に帰任直前のアストンを通訳として確保、日本の皇室用馬車寄贈、横浜駐留のイギリス軍隊の撤退時期の検討、廃藩置県についての意見を述べ、東京麹町への恒久的イギリス公使館設置、公使館員および領事館員の待遇改善、日清修好条規についてなどの意見書を提出したそう。

2-8、明治以後のパークス

イギリスで休暇中のパークスは、明治5年(1872年)、岩倉使節団としてイギリスを訪問した大使岩倉具視や駐イギリス公使寺島宗則と会見。条約改正問題の話し合いをしたり、イギリスでの日本人留学生の教育、またイギリス式を取り入れた日本海軍の育成に関して尽力。

当時の外相グランヴィル伯と岩倉、寺島の条約改正予備交渉に同席し、日本でのキリスト教の信仰の自由化、外国人の内地旅行自由化、治外法権撤廃、横浜駐屯のイギリス軍の撤退、それに下関戦争の賠償金などについて協議も。パークスは明治6年(1873年)日本に帰任、明治政府に対して西洋文明の導入を推進、日本の近代化と日英交流に多大な貢献をして、日本アジア協会の会長に就任も。また条約改正問題では外務卿の寺島宗則と対立したそう。

\次のページで「2-9、その後のパークス」を解説!/

2-9、その後のパークス

明治16年(1883年)7月、駐日イギリス公使を18年務めた後、清国公使に昇進して離日。1884年からは駐韓公使を兼ねたが、1885年、北京でマラリアのため、57歳で死去。

3-1、パークスの逸話

パークスの日本公使としての在職期間は18年で、歴代の駐日イギリス公使、大使の中では最長記録。ただし通算の日本滞在期間はアーネスト・サトウの25年が最長。またパークスは、夫人とウィリスたちと共に富士山に登頂したこともあるなど、色々な逸話があります。

3-2、パークス、若い公使館員に日本研究を奨励

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パークスは、部下に対してものすごく厳しく、神経が参った自殺者が2人ほど出たくらいだったが、反面、若い公使館員たちに、公使館の実務を午前中で終えて午後は日本についての研究、学習を奨励したので、サトウやウィリアム・ジョージ・アストンのような優れた日本学者が続々と誕生し、これは後々まで駐日イギリス大使館の伝統になっているよう。ミットフォードも「昔の日本の物語」などを書いて赤穂浪士を欧州に初紹介。

また、明治2年(1869年)にはパークスと公使館員が調査した「日本紙調査報告」を作成して本国に報告したが、412種類もの和紙が収集された大変貴重なコレクションは、現在ヴィクトリア&アルバート博物館、キューガーデンズに保管されていて、1994年に「海を渡った江戸の和紙」展で日本に里帰り展示されたということ。

3-3、パークス、癇癪もちで有名

パークスは外交官としては有能だが、相手に言うことを聞かせようとするためにしばしば怒号を発する癖あり。部下のサトウやミットフォードは、パークスは長年中国で威嚇的な態度で従わせて成功したので、同じアジアの日本でもそれが通用すると思っているのだろうが、日本人は怒鳴りつけて従わせようとしてもだめだと、いくら言っても聞いてくれないと頭を抱えていたといいうこと。

サトウは通訳として、パークスの激しい罵倒する言葉を通訳するのが苦痛だったということで、「一外交官の見た明治維新」では、後藤象二郎と会見したとき、パークスの前回の暴言に付いて後藤に苦言を呈されたので、自分の代わりにパークスに言ってくれと頼んだほどで、次回の会見の最後に後藤はパークスにちょっと説教したが、後藤は物分かりの良い人物としてパークスは気に入っていたので一応は怒鳴らずに事なきを得たという話も。

3-4、フランス公使ロッシュをライバル視

部下のミットフォードによれば、ふたりの女のように嫉妬しあった仲と揶揄されたほどで、「英国外交官の見た幕末維新」にも、パークスがロッシュが幕府のためにフランスから陸軍の教官を招聘することになったので、自分はイギリス海軍の教官を呼ぶんだと対抗心を燃やすシーンが登場。

実際にこの通りになり、明治後、日本の陸軍はその後ドイツ式に変換したが、太平洋戦争終戦まで日本の海軍はイギリス式で、広島の江田島海軍兵学校には、イギリス海軍から贈られたネルソン提督の遺髪がご神体のように飾ってあったそう。

尚、ロッシュはパークスのような有能な部下たちに恵まれず、幕府に入れ込み過ぎたせいで幕府が倒れた後は日本公使を辞任、パークスはライバルに勝利したということ。

3-5、叩き上げで教養がないが、有能な実務家

パークスは若くして中国に渡り、働きながら中国語を会得して現地採用の外交官として実務をこなしたので、ノンキャリア中のノンキャリアとして異例の出世を遂げた優秀な外交官ですが、イギリス人と言えば、スノッブな会話にも文章にもあらわれてしかるべきの教養がなかったのですね。

サトウの回想録にも、パークス自身がこのことをよくわかっていて、暇を見てはむさぼるように読書をしていると書いていますが、同時に「疲れを知らない精励家で、その職務に全く没頭し、局囲の事情に正しく目を配って倦むことを知らなかった」と評し、また「日本は1868年の革命の際に、パークスが別の側に立っていたり、他の公使仲間と一緒に単純な行動に与していたならば、王政復古の途上にいかんともなしがたい障害が起こって、あのように早く内乱が終息することは不可能だったろう。日本はパークスのおかげを被っており、日本はこれに報いてもいないし、パークスの努力を認めてもいない」と回想録に。

また伊藤博文も、「パークスぐらい聡明勇断で職務に忠実な人にはまだ会うたことがない」と述懐。

幕末、明治維新では無視できない存在感を持ったイギリス公使だった

ハリー・パークスは、若くして中国へ渡り現地採用された叩き上げの外交官で、期待されて鳴り物入りで日本に着任した外交官でした。

自身も骨身を惜しまず活動、また部下たちにも同じように要求するという厳しい面をもち、何かというと怒鳴りつけて意に従わせようとするのが玉にきずでしたが、有能なサトウ、ウィリス、ミットフォードらの部下に恵まれ、彼らの有能さを認めて自由に情報収集をさせて意見を聞き入れたおかげで、表面中立を保ちつつも、はやくから薩摩や長州が幕府を倒して新政府樹立するのを見通して友好関係を結ぶことができ、ライバルで幕府に入れ込み過ぎて自滅したフランス公使ロッシュにも勝利したのは、やはりパークスが有能な上司だったからでしょう。

明治後は、新政府はわしが作ったといわんばかりに、教師のように上から怒鳴りつつ近代化を指導し、元勲たちをげんなりさせたそうですが、江戸城無血開城にも影響力を及ぼしたといわれるパークスの功績は、有能な若手イギリス外交官たちの活動と共に明治維新の時代を語るときには忘れてはいけないことでは。

" /> 幕末に活躍した凄腕イギリス公使「ハリー・パークス」について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

幕末に活躍した凄腕イギリス公使「ハリー・パークス」について歴女がわかりやすく解説

今回はハリー・パークスを取り上げるぞ。この人はアーネスト・サトウの上司として幕末に活躍したんですね。

その辺のところを明治維新のイギリス外交官に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、特にイギリス外交官には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ハリー・パークスについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ハリー・パークスはアッパーミドル階級の生まれ

サー・ハリー・スミス・パークス(公使になるとサーの称号が授与される)は、イングランドのウェスト・ミッドランズのブロックスウィッチで鉄工場主の長男として、1828年2月24日に誕生。父は銀行員から脱サラで鉄工場を営んだということで、父方の祖父は牧師、母方の祖父は郵便局長兼文具商という中産階級の出身。この頃のイギリスはヴィクトリア女王の前のウィリアム4世の時代。

1-2、パークス、孤児となり、従姉を頼って中国へ

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パークスは、4歳で母を病気で、5歳で父を馬車の事故で亡くした後、2人の姉と共にバーミンガムの退役海軍将校の叔父に引き取られて寄宿学校に。パークスの生まれたのはワーテルローの戦いでイギリスがナポレオンに勝利して13年後、パークスも退役海軍士官の叔父から、イギリス海軍のネルソン提督の話を聞かされて育ったということ。

しかし9歳のときに叔父も死亡、10歳からはキング・エドワード・グラマースクールで学んでいたが、1841年、13歳のとき、宣教師のカール・ギュツラフに嫁いだ従妹と中国で暮らしていた姉たちを頼って清のマカオに赴き、中国語の勉強をするかたわらで、翌年から英国全権ヘンリー・ポティンジャー(のちの初代香港総督)の秘書で通訳のジョン・モリソンのもとで働いたそう。

というわけで、若きパークスは1840年から42年までのアヘン戦争を目撃し、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印にも立ち会ったということ。

カール・ギュツラフ
中国で活躍したドイツ人宣教師で、聖書を日本語に翻訳した人物。ギュツラフの訳は現存する最古の日本語訳聖書。ギュツラフは朝鮮、台湾、日本にも関心を持ち、1832年から1833年にかけて鎖国中の日本に入国を試みたが実現せず。1832年8月に、琉球王国の那覇に寄港、臨海寺の近くに上陸し、集まった民衆と役人に、漢訳聖書を配布、琉球王尚氏に漢訳聖書を贈呈後、中国に戻り3人の日本人漂流漁民を引き取って日本語を学び、ヨハネによる福音書の翻訳とヨハネの手紙3通を翻訳してシンガポールで出版。そして1837年7月、ギュツラフとサミュエル・ウィリアムズ宣教師らはモリソン号に乗り、日本人漂流漁民の音吉ら3人と、薩摩の漂流民4人の7人を送り届ける目的で日本上陸を試みたが、異国船打払令により幕府側が砲撃をしたのでやむを得ず引き換した、モリソン号事件の当事者

2-1、パークス、イギリス領事館に現地採用

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1843年、パークスは15歳で広東のイギリス領事館に採用されて、翌年には廈門(アモイ)の領事館通訳になり、この頃から領事だったラザフォード・オールコックのもとで働くことに。そして11年後の1854年、パークスは26歳で廈門(アモイ)領事に就任。1855年には全権委員として英・シャム(タイ)条約締結。1856年、広東領事としてアロー号事件に介入。

1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻のときは、全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務め、若きパークスは、鎖国主義の清国官憲に対して権謀と威嚇の外交を展開、和平会談の準備交渉のために通州に赴いたとき、態度を硬化させた清国軍に捕えられて鎖でつながれてそのまま10月まで北京で投獄されたが、清国の脅したりなだめたりにも態度をガンとして変えなかったそう。

パークスは現地採用ながら中国在住が長く中国語も堪能なため、日本公使に転任したオールコックに認められて、1864年には36歳で上海領事に出世。

2-2、パークス、駐日イギリス公使として赴任

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元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件では、イギリス公使オールコックは下関攻撃に対する主導的な役割を果たして成功をおさめたのですが、この頃は電信がインドまでしかなく許可を得るのに3か月以上もかかるため、この攻撃はオールコックがイギリス政府に許可を取らず。

そして攻撃成功後にイギリス政府から攻撃不可の通知が来てしまったことなどで、オールコックはこの事件の責任を取って駐日イギリス公使を解任され、慶応元年(1865年)、37歳のパークスがオールコックの後任公使として横浜に着任。

2-3、パークス、精力的に活躍

パークスは兵庫開港に向けて幕府との交渉を開始。当時は将軍など幕閣の大半が第一次長州征伐で江戸におらず、パークスはフランス、オランダとともに連合艦隊(アメリカは代理公使)を兵庫沖に派遣、威圧的な態度で幕府、朝廷と交渉を。その結果、孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認めたものの、都に近すぎと兵庫開港は不許可に。

慶応2年(1866年)、パークスは、アメリカ、フランス、オランダとともに幕府と改税約書に調印。その後、長崎のトマス・グラバーの仲介で鹿児島を訪問し、薩摩藩主島津茂久(島津忠義)、その父島津久光、西郷隆盛や寺島宗則と会見。第二次長州征伐直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文ら、小倉で幕府老中小笠原長行と会談、調停をはかるが失敗。その後は船で宇和島藩を訪問して前藩主伊達宗城父子と会見。年末には大火事のあった横浜から公使館を江戸の泉岳寺前に移転。

2-4、パークス、富士山登頂や慶喜、容堂とも会見を

慶応3年(1867年)パークスは江戸での米価高騰の米騒動を目撃したことで、幕府に勧めて外国米の輸入販売を許可する布告を。また大坂で将軍慶喜に謁見、慶喜はまだ勅許を得る前ながら期限どおりに兵庫開港を確約。パークスは慶喜について、「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と絶賛。その後は敦賀を視察した後に、大坂から海路で江戸へ帰り、イギリス海軍教官受け入れ準備のために軍艦奉行の勝海舟と交渉。パークスはその後、軍艦で箱館から日本海を南下、開港に向けての最適な港を探すために、新潟、佐渡、七尾を視察、長崎を経由して大坂へ。

そして長崎で起こったイカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件について聞き込み、幕府にイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及し、土佐藩の関与が疑われたために徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉、前藩主の山内容堂とも会見。そして再び兵庫開港、大坂開市に備えて大坂へ行ったが、王政復古の大号令が出された後に京都を離れて大坂城に入った徳川慶喜らに謁見。

2-5、パークス公使一行、明治天皇への謁見途中で襲撃に遭遇

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From a drawing by Jules Brunet, Artillery Captain of the French Military Mission in Japan – “Le Monde Illustre”, June 13th, 1868., パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し幕府軍は敗北、慶喜らが大坂城脱出。前日には幕府から各国外交団の保護不可能との通達でパークスらは兵庫へ移動したが、備前岡山藩兵による神戸事件が勃発、現場にいたパークスは馬で走り、アメリカ海兵隊、フランス水兵とともにイギリス警備隊を率いて備前藩兵と交戦。そして事件後、兵庫に派遣された新政府の東久世通禧と会談、新政府の開国和親、条約遵守の方針を確認、神戸事件についても滝善三郎の切腹で解決に。

パークスは公使団を説得、戊辰戦争への局外中立を宣言。そして新政府の正当性の宣言のため、各国外交団への明治天皇の謁見が行われることに。また続いて土佐藩兵によるフランス水兵殺害の堺事件が勃発したが、事件は加害者の切腹で解決に。

パークスは京都に入り、三条実美、岩倉具視などに会って明治天皇にも謁見するはずが、京都御所に向かうパークス一行を2名の暴漢が襲撃、襲撃者は護衛の後藤象二郎らに撃退され、パークスは無事。パークスは随行のミットフォードに「外交的大事件だね」とコメントしたが、幕府と違い新政府の対応がしっかりしていたこと、とらえた犯人の処罰も行われることになって解決、3日後に改めて明治天皇と謁見。

パークスは新政府の東征軍が江戸に接近しつつあるなか、横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方で慶喜処分案や江戸無血開城に影響を。その後、大坂で明治天皇に謁見し新政府への信任状を奉呈、諸外国ではイギリスが最初に新政府を承認したということ。

2-6、パークス、江戸城無血開城、将軍慶喜助命にも尽力

最後の将軍慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静ら主なメンバーをだまして連れて大坂城から逃亡、船で江戸へ逃げかえった後、勝海舟にあとの処置を丸投げ。勝はナポレオンのロシア進攻でのロシア側のモスクワ大火をモデルに、江戸市中を火の海に慶喜は外国船で亡命させるという計画も持ち、西郷隆盛と会談。最終的に江戸城無血開城、将軍慶喜謹慎助命、幕臣の静岡移住が決定。

もともと西郷は慶喜助命に反対の強硬派で、勝との会談の前に東征軍参謀の木梨精一郎をパークスの元へ派遣し、官軍が江戸に進軍した際、横浜に駐屯しているイギリス軍やフランス軍を動かさないようにパークスに依頼。しかしパークスは無抵抗の慶喜を攻撃するのは万国公法に反すると、例によって激昂、あのナポレオン戦争を引き起こしたナポレオン・ボナパルトですら流刑となって処刑されなかったではないか、という話を持ち出したという説もあり、居留地の外国人を保護する上でも兵を動かすなというのには同意できんと拒絶したそう。西郷隆盛はアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとナポレオンを尊敬し、敬称を付けて呼んでいたし、それ以上に1000人のイギリス兵、その倍以上のフランス兵を敵にまわすのは困ると江戸の街の攻撃を考え直すきっかけにも。

2-7、パークス、外交団のリーダー的存在として新政府と交渉

明治2年(1869年)、パークスは、輔相だった(ほそう、慶応4 (1868年) 閏4月 21日付の政体書で設けられた七官の行政官の首座、明治2年(1869年)7月に廃止)岩倉具視らと会談、フランス、オランダとともに箱館を拠点とした榎本武揚の旧幕軍を交戦団体と認めない立場で、アメリカ、イタリア、プロイセンと対立。岩倉と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題についてなど、外交、内政について話し合いも。

明治4年(1871年)、外務卿の岩倉具視らと会見、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処するための御親兵設置、廃藩置県について話し合い、横浜駐留のイギリス軍の大幅削減を本国に提案して採用に。

その後、パークスは賜暇のためにアメリカ経由でイギリスへ帰国し、アダムズが代理公使に。パークスは賜暇休暇中、イギリス本国で対日外交について政府に、岩倉使節団のイギリス訪問にあたり、日本に帰任直前のアストンを通訳として確保、日本の皇室用馬車寄贈、横浜駐留のイギリス軍隊の撤退時期の検討、廃藩置県についての意見を述べ、東京麹町への恒久的イギリス公使館設置、公使館員および領事館員の待遇改善、日清修好条規についてなどの意見書を提出したそう。

2-8、明治以後のパークス

イギリスで休暇中のパークスは、明治5年(1872年)、岩倉使節団としてイギリスを訪問した大使岩倉具視や駐イギリス公使寺島宗則と会見。条約改正問題の話し合いをしたり、イギリスでの日本人留学生の教育、またイギリス式を取り入れた日本海軍の育成に関して尽力。

当時の外相グランヴィル伯と岩倉、寺島の条約改正予備交渉に同席し、日本でのキリスト教の信仰の自由化、外国人の内地旅行自由化、治外法権撤廃、横浜駐屯のイギリス軍の撤退、それに下関戦争の賠償金などについて協議も。パークスは明治6年(1873年)日本に帰任、明治政府に対して西洋文明の導入を推進、日本の近代化と日英交流に多大な貢献をして、日本アジア協会の会長に就任も。また条約改正問題では外務卿の寺島宗則と対立したそう。

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