白河法皇の死去と院政の衰退
白河法皇は崇徳天皇の代まで院政を行って死去しますが、院政は消えたわけではありません。白河法皇の死去後は鳥羽上皇が院政を行いますが、その鳥羽上皇も1156年に死去、しかしここで院政が衰退するきっかけとなる保元の乱が起こります。
保元の乱は言わば朝廷内の争いであり、対立したのは崇徳上皇と後白河天皇です。ちなみに後白河天皇は白河天皇とは全くの別人、このケースは他にもあるため分かりやすく解説しておきましょう。天皇の名前に「後」がつく場合、その天皇は名前に「後」がつかない天皇を尊敬している意味合いを持っています。
つまり、後白河天皇は白河天皇を尊敬して同じような天皇になりたいと願っており、後醍醐天皇は醍醐天皇を尊敬して同じようになりたいと願っていたわけです。さて、保元の乱は朝廷内……すなわち公家の内部抗争なのですが、この解決にあたって朝廷は武力を持つ武士の力を借りました。
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武士の時代の到来
公家の内部抗争に介入する武士、保元の乱では皇室だけでなく藤原家も対立して、さらに源氏と平氏も加わった戦いに発展します。後白河天皇につく武士達と崇徳上皇につく武士達、この戦いに勝利したのは後白河天皇側で、味方していた平清盛が名を上げるきっかけになりました。
勝利した後白河天皇は上皇になって院政を継続しようとするものの、平清盛が台頭する平家の力が強くなることで院政の力は徐々に弱まっていきます。そして訪れる武士の時代、平清盛が日本で初めての武家政権を築き、武士と朝廷は完全に立場が逆転してしまいました。
もちろん、天皇は日本で最も尊敬すべき存在として代々続いていきます。しかし、権力の問題から例え上皇になっても院政を行う意味が失われてしまい、遥か先の明治時代にて皇室典範が制定されたことで院政は完全に廃止されたのです。
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白河天皇を覚えるなら院政を覚えよう!
白河天皇を覚えるには、院政を覚えることです。なぜなら「白河天皇=院政」と言っても過言ではなく、院政を理解しなければ白河天皇の政治は理解できないですし、上皇、法皇へと変わる理由も分かりませんからね。
また、法勝寺の建立、治天の君と呼ばれたこと、院近臣の設置、院宣・院庁下文の命令書なども重要です。ただしこれらは院政開始から辿っていけば分かることで、その意味でもやはり院政を覚えることが理解につながります。


