白河法皇の復帰と本格的な院政の始まり
出家した白河法皇は元々仏教を深く信仰しており、出家を機会に多くの寺や仏像を建てました。特に有名なのは現在の京都市左京区に建てられた法勝寺で、法勝寺は6人の天皇が建てたとされる六勝寺の中でも最初に建てられた寺です。六勝時はいずれも寺の名前に「勝」が含まれているのが特徴ですね。
また、白河法皇はいつの間にか出家して法皇になっていますが、これにはきっかけがありました。白河法皇は仏教を深く信仰していましたが、大切にしていた皇女・媞子内親王を1096年に病気で失ってしまい、それを機会に出家して法名を融観として法皇となったのです。
さて、強訴が頻繁に起こる中で白河法皇の政治復帰が望まれるようになり、白河法皇もまたそれに応えて復帰、政治の権限を握るようになった白河法皇はここから本格的な院政を行います。ただ、そうなると気になるのは独り立ちした堀河天皇の心中ですが、この当時堀河天皇は政治への興味を失っており、完全に白河天皇に任せてしまいました。
治天の君
政治の権限を握った白河法皇は本格的に院政を開始、天皇の父である白河法皇は天皇以上の権限を持ったことから、治天の君と呼ばれます。白河法皇は政治を行うにあたって側近を置くようにしますが、これは律令制で定められた官僚とは全く別の新しい側近でした。
その新たな側近とは院近臣と呼ばれるもので、大きな特徴として一般の人々でも任命さえされれば就くことができたのです。官僚になりたくてもなれない人々からすればそれは大きなチャンスであり、そのため白河天皇に接近して賄賂を贈り、院近臣の見返りを求める者が後を絶ちませんでした。
賄賂を手にした白河法皇は莫大な財産を手に入れ、また自身の思うがままに人材を採用する権力も手に入れます。さらに権力を高めようとする白河法皇は貴族や寺社の荘園に注目し、寄進地系荘園の仕組みを利用してより一層の財産と権力を手にしたのです。
40年間続けた院政
財力と権力を満たした白河法皇は、院宣や院庁下文と呼ばれる命令書を出して政治を行いました。これらの命令は絶対であり、権限を比較しても天皇の命令よりも従う必要があるもので、例え天皇の意見が異なっても院庁下文の命令に背くことはできず、全てにおいて優先されたのです。
もはやそれは政治ではなく支配に等しく、白河法皇は日本の絶対的な支配者……まるで神のような存在になりました。一方、天皇の存在感は白河法皇の前に霞んでしまい、以前は権限を持っていた藤原家も力を失ってしまいます。まさに、治天の君の名にふさわしい白河法皇でした。
政治に興味を失ったとされる堀河天皇はやがて鳥羽天皇に譲位しますが、譲位してからも白河法皇は院政を継続、鳥羽天皇が譲位した崇徳天皇の代までおよそ40年間に渡って院政を行ったのです。最も、院政を行ったことでその間の後継者問題は一切起こりませんでした。
\次のページで「白河法皇の死去と院政の行方」を解説!/




