平安時代日本史歴史

院政の象徴!「白河天皇」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

院政の始まりと朝廷の不安

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白河上皇の院政の始まり

白河天皇は堀河天皇へと譲位した時点で上皇になりますから、ここでもそれに合わせて白河上皇と呼んでいきます。新たに天皇となった堀河天皇は当時まだ8歳、皇子とは言えまともに政治が行えるはずはなく、そう考えると白河上皇はやはり政治を続けるつもりで院政を行ったのでしょう

さて、1086年に開始された院政ですが、当時白河上皇は藤原師実を摂政にして協力する形で院政を行っており、形態としては摂関政治とあまり変わりません。最も、白河上皇と藤原師実の間に対立はなかったため、藤原家と協力するとは言え、政治自体はスムーズに行えたとされています。

しかし1094年、藤原師実が摂政の職を息子・藤原師通に譲ったことをきっかけに平和な関係が崩れていくのです。堀河天皇は既に元服していたため、藤原師通は関白になりますが、成長した堀河天皇は立派に政治を行っており、白河上皇の院政がなくても充分独り立ちできる能力を身につけていました。

頼りない関白・藤原忠実

立派に成長した堀河天皇は独り立ちを望み、藤原師通もまたそれを支持しましたが、その状況を良しとしなかったのが白河上皇でした。何しろ、白河上皇は現状院政によって自ら政治を行っており、堀河天皇が独り立ちしてしまえばそれもできなくなってしまうでしょう。

こうした理由から白河上皇と藤原師通は対立関係に発展しかけますが、ただ衝突するまでには至らず、なぜなら藤原師通が急死してしまったからです。ただ、またここで深刻な問題が起こってしまいました。それは、藤原師通が死去によって関白の職に藤原師通の息子・藤原忠実がついたことです。

藤原忠実の政治能力は決して高くなく、しかも当時朝廷ではよりによって深刻な問題をいくつも抱えていました。ただでさえ対応が困難な問題が山積みとなっており、それを政治能力の低い藤原忠実が関白としてまともに解決できるとは到底思えません。

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ここは一つ補足だ。摂政・藤原師通を引き継いだ藤原忠実は、同じ摂政ではなく関白についている。これは天皇の年齢が関係しており、関白は成人した天皇を補佐する役職であり、堀河天皇は元服していたため藤原忠実は摂政ではなく関白になるのだ。

出家した白河法皇の政治への復帰

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有力な寺院の強訴に困る朝廷

藤原忠実が関白についた際、朝廷が頭を悩ませていたのは各地で勃発する土地を巡る争いです。東大寺や興福寺などの有力な寺院は、神や仏を後ろ盾にして朝廷に対して強引に要求を訴えてきました。これは強訴と呼ばれるもので、朝廷はこの対応に大変困っていたのです。

なぜなら、天皇もまた神や仏を深く信仰していたからで、それらを盾にした寺院への対応は、例え理不尽な要求であったとしても無視できませんでした。未熟な藤原忠実ではこの問題に対処できず、そうなると求められるのは言わば「デキる人物」……そこで名が挙がったのが白河上皇です。

最も、この時の白河上皇は政治から離れて出家しており、上皇ではなく法皇へとなっていました。一方、藤原忠実は自身の政治能力のなさを痛感してしまい、関白の地位は残していたものの政治の実権を失い、最後には隠居生活を送るようになってしまいました。

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