初めて院政を行った人物として名高い白河天皇、そのため白河天皇について理解するには院政も理解しなければならないでしょう。
院政が始まる直前まで時代を遡り、院政を知ると同時に白河天皇について覚えていこう。そこで、今回は白河天皇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から白河天皇をわかりやすくまとめた。
権力を失う藤原家、権力を取り戻す天皇
白河天皇が即位する以前、日本は藤原北家が権力を握っており、摂関政治によってその地位は天皇を超えるほどのものになっていました。ただ、摂関政治は代々藤原家の娘を天皇に嫁がせてこそ成立するものであり、娘が生まれなかったことでこれまでの流れが変わります。
この時、天皇に即位したのは後三条天皇で、藤原家の血筋の薄い人物が天皇へとなったのです。この瞬間に藤原家の摂関政治は弱まり、この機を逃すまいとしたのか、後三条天皇は重要な役割の任命に藤原家ではなく村上源氏を採用、藤原家を政治の世界から遠ざけていきました。
さらに、延久の荘園整理令を発令して不正に手に入れた荘園を厳しく取り締まり没収、藤原家の荘園を次々と没収してみせます。これで藤原家は全盛期の権力を完全に失う形となり、再び天皇の権力を取り戻す後三条天皇、そしてそのタイミングを待っていたかのように1072年に白河天皇へと譲位したのです。
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白河天皇が譲位した真意
さて、後三条天皇は白河天皇に譲位するとその直後に死去してしまいます。一方、即位した白河天皇は当時まだ18歳でしたが、自ら政治を行っていき、即位してから14年後の1086年……自身が32歳の時に堀河天皇へ譲位しました。最も、白河天皇が譲位したのは政治に興味を失ったためでも病気になったためでもありません。
むしろ、白河天皇は今後も政治を続けていきたい気持ちは強く、一方で皇位継承の争いも避けたくあり、そこで白河天皇が考えたのが院政でした。院政とは、天皇を譲位して上皇になった者が天皇に代わって政治を行う政治形態であり、そのため白河天皇は早々と堀河天皇へと譲位したのです。
院政では、上皇になることで次の天皇を指名するため、皇位継承で揉めることはなく、また血が途絶えるのを防ぐ効果がありました。さらに上皇になると天皇に代わって政治を行うことになるため、譲位した後も依然政治を続けることができたのです。これが日本で初めての院政でした。
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