
3 ジョージ1世の死後
さて、1714年にイギリス王として即位したジョージでしたが、即位後13年目で亡くなることに。67歳でした。君臨すれども統治せずというスタイルでイギリスを治めたジョージでしたが、彼の死後のイギリスはどうなったのでしょうか。それでは見ていきましょう。
3-1 イギリス国王夫妻の相次ぐ死
ジョージ1世の手によって32年間もの間ドイツのアールデン城へ幽閉されていたゾフィアでしたが、亡くなることに。60歳でした。彼女が亡くなった際にこんなエピソードが。ゾフィアは亡くなる直前に遺書を書き、それを側近に託してジョージの馬車へ投げ込むように頼んだそう。そして側近がジョージの馬車に近づき遺書を投げ入れると、それを読んだジョージがショックで亡くなったというもの。実際には他人に対してどこまでも冷酷であり、自身に危険が及ぶと怖気づくような男がショックで死んだとは考えられません。おそらくゾフィの無念を嘆いたイギリス国民が信じたかったエピソードだったのではないでしょうか。ちなみにジョージ1世はゾフィの死から1年後の1727年にこの世を去ることに。
3-2 息子ジョージ2世が即位
1727年にジョージ1世の息子、ジョージ2世が即位することに。彼は父よりかはましでしたが、片言の英語しか話せなかったそう。また父によく似て軍人気質であり、愛人を多く持ち、息子とは険悪の仲だったそう。政治面ではジョージに代わって頭脳明晰なキャロライン妃がウォルポールと共に担っていました。そのため、イギリス国民からは威張っていても統治するのはキャロライン妃と揶揄されていたそう。
有能な妃だったキャロラインですが、王妃となって10年後に死去。ヘルニアの手術の失敗がもとで54歳の生涯でした。死の床で彼女はジョージに対し、自分が死んだ後再婚してもよいと言ったそう。これに対し彼は再婚しないと伝え、妃の死後は再婚しませんでした。
妃の死後、好戦的な性格だったジョージ2世はウォルポールの反対を退けて戦争に参戦することに。1740年にはオーストリア継承戦争にマリア・テレジアの味方として関与しました。彼はイギリス王として最後に出陣した王としても知られることに。ところが国内人気はなく、30年以上にもわたり国王だったにも関わらず影の薄い存在でした。
こちらの記事もおすすめ

「オーストリア継承戦争」をハプスブルク家大好き歴女が5分で解説! – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
3-3 ジョージ2世妃キャロライン
ゴドフリー・ネラー – one or more third parties have made copyright claims against Wikimedia Commons in relation to the work from which this is sourced or a purely mechanical reproduction thereof. This may be due to recognition of the “sweat of the brow” doctrine, allowing works to be eligible for protection through skill and labour, and not purely by originality as is the case in the United States (where this website is hosted). These claims may or may not be valid in all jurisdictions. As such, use of this image in the jurisdiction of the claimant or other countries may be regarded as copyright infringement. Please see Commons:When to use the PD-Art tag for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる
前の章で登場したキャロライン妃についてもう少し詳しく見ていきましょう。彼女はジョージ1世の母ゾフィーに見初められ、孫のジョージ(後のジョージ2世)と1705年に結婚することに。キャロライン妃はドイツのブランデン・アーンズバック侯の1人娘でした。そして1714年、舅のジョージがイギリスへ渡英した際に、ジョージ2世と1000人以上の廷臣らと共に同行。ちなみに彼女は夫ジョージ2世と違って将来イギリスへ渡って王妃となることを見越していたため、英語をマスターしていたそう。才色兼備の人物でした。
当然外見に関するコンプレックスを抱えているジョージ1世の標的となり、彼女は王室の宝石を取り上げられ、1世の戴冠式には借り物の宝石を身につけることになったそう。またジョージ1世は息子に対しての嫌がらせもしていたため、2人は団結したそう。
「君臨すれども統治せず」のスタイルを作ったジョージ1世
ジョージ1世はもともとはドイツ北部の1貴族に過ぎない人物でした。ところが母ゾフィーがイギリス王家ステュアート家の血を引いていたことから、イギリス王となることに。
彼自身は他者に対する思いやりに欠けた人物で、多くの愛人を抱えていた自分のことは棚に上げて王妃ゾフィア・ドロテアの不倫を責め、アールデン城へ30年以上にもわたって幽閉することに。愛していないにも関わらず、自分から離れようとする妃への執着心が伺えますね。
そしてハノーヴァー家の家族仲も最悪なものとなることに。母との思い出を一切取り上げられた息子ジョージ2世は父と反目し、義理の娘キャロラインに対しては妻と同様に嫌がらせをしていたジョージ1世。
イギリス国王としては、英語を話せずイギリスの実情についても知ろうせず、1年の大半をドイツのハノーヴァーで過ごしていたジョージ。そのため、イギリスでは「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立していくことになりました。