世界史

ハノーヴァー朝の始祖「ジョージ1世」とは?歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今回は18世紀のイギリスの国王、ジョージ1世についてだ。

ジョージ1世はもともとはドイツのハノーヴァー選帝侯だったんだが、王位継承法でイギリスの国王となった人物だ。なぜドイツの選帝侯がイギリス国王に選ばれることになったのか?そしてジョージ1世と言えば、その妃ゾフィア・ドロテアにした酷い仕打ちは有名だろう。一体どんなことをしたのか?

それじゃあ、ジョージ1世について歴女のまぁこと一緒にみていくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家、ブルボン家、ロマノフ家やイギリスの王家など名門一族にまつわる関連書を愛読中!今回は現在のウィンザー朝の始祖であるハノーヴァー朝の初代のジョージ1世について解説していく。

1 ジョージ1世と妃ゾフィア・ドロテア

image by iStockphoto

この章では、ドイツの選帝侯だったジョージと彼の妃ゾフィア・ドロテアについて。この2人の結婚はお互いの父同士(2人は兄弟でした)は、一方は持参金目当て、もう一方は名誉のために2人の結婚を決めることに。しかし父親同士以外はこの結婚は快く思っていなかったそう。どんないきさつがあり2人は結婚したのか?その後ジョージはドロテアにどんな酷い仕打ちをしたのか見ていきましょう。

1-1 誕生

ジョージ1世(ドイツ名ゲオルク・ルートヴィヒ)は1660年にドイツのハノーヴァーで生まれました。ジョージの父は、ハノーヴァー選帝侯。母はゾフィー・フォン・デア・ファルツ。ちなみにゾフィーの祖父はイギリスの王家、ステュアート朝の初代王ジェームズ1世の孫娘に当たる人物でした。この母の血筋が後のジョージの運命を変えることに。

1-2 ジョージの母ゾフィーと花嫁ドロテアの因縁の関係

ジョージ1世と言えば、彼の妃ゾフィア・ドロテアが有名。しかしジョージとゾフィアの関係については、彼の母ゾフィにまでさかのぼります。

ゾフィー・フォン・デア・プファルツは一時チャールズ2世と縁談の話が出た人物。しかしこの話は流れることに。当時の結婚は政略結婚であり、お互いの利害が一致しなければ白紙になることに。ところがゾフィーの婚約者が決まったのは彼女が30歳頃。当時では考えられないくらい遅い結婚となることに。これにはゾフィーが天然痘に罹っていたことが原因という説も。26歳の時に従兄であるゲオルク・ヴィルヘルムと婚約が成立。ところがゲオルクは有名な遊び人で、結婚によって縛られる人生を嫌って婚約破棄。その代わり、末の弟エルネスト・アウグストにハノーヴァー公位と婚約者ゾフィーを譲ることに。

1-3 貴賤結婚したかつての婚約者

こうしてゾフィーはハノーヴァー公となったエルネスト・アウグストと結婚。彼女は30歳でジョージを出産し、その後も次々に子どもを成すことに。ゾフィは夫や子どもたちに教養を身に付けさせようと奮闘しますが、挫折することに。

しかしある出来事が起こることに。ゾフィーとの婚約を破談したゲオルク・ヴィルヘルムでしたが、なんと貴賤結婚をすることに。相手はフランスから亡命してきたユグノー教徒で平民出身のエレオノーラ。そしてエレオノーラはとても美人だったそう。2人の間には、エレオノーラによく似た美しい女の子、ゾフィア・ドロテアが生まれることに。ゾフィーにしてみれば、自分との結婚を破談にした男が貴賤結婚したとなれば、プライドが傷ついたことでしょうね。

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ちなみに当時の貴賤結婚では、妻や二人の間に生まれた子も財産は相続することができなかったんだ。そのため庶子扱いされていたゾフィア・ドロテアだったが、その後母エレオノールが伯爵の地位を与えられて貴族となったんだ。

1-4 ゾフィア・ドロテアの不幸な結婚生活

両親の貴賤結婚で誕生したゾフィア・ドロテア。本来ならば庶子扱いを受け、間違っても貴族のもとへ嫁ぐことは許されていませんでした。しかし1676年に母エレオノールがヴィルヘルムスブルク伯爵という称号を授かり、両親は正式に結婚。こうしてドロテアも貴族となり、ジョージとの結婚が決まりました。ちなみにこの結婚は姑ゾフィーと花嫁ドロテアは反対でしたが、父親同士で決めてしまったそう。当然この結婚はドロテアにとって不幸なものに。2人の子どもを授かりましたが、次第に夫婦仲が悪化しました。ハノーヴァー家の宮廷では義理の父の愛人のスパイに囲まれて暮らしていたそう。考えるだけで息が詰まりそうな生活だったことが伺えますね。

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もともとドロテアはジョージのことを醜くて陰気な人物として嫌ってたんだ。だが彼女が16歳の誕生日を迎えた時にこの縁談を知ってショックを受けたそうだ。一方ジョージは貴族となったとはいえ、もとは庶子に過ぎないドロテアのことをバカにしていたそう。そして姑ゾフィーは自分を捨てた婚約者の娘、しかも元庶子だった人物を花嫁として迎えなければならなくなり、両者の関係はよくなかったんだ。

1-5 ドロテアのスキャンダル

そんな時にかつての幼馴染でありハノーヴァー家の傭兵隊長に就いたケーニヒスマルク伯と再会することに。美青年となった彼といつしか不倫関係となり、2人は駆け落ちを考えるように。ところがこれが失敗し、2人の関係と駆け落ちしようとした事実が知られます。ジョージは彼女を部屋に監禁。ケーニヒスマルク伯は殺害されたそう。伯の殺害の証拠を隠すため、遺体は古い下水道溝へ捨てられました。更に生石灰をかけて念入りに証拠隠滅を図ったそう。

公式な発表では彼は行方不明ということになってましたが、その後ハノーヴァー宮廷の修理をした職人が遺骨を発見。身につけていた指輪から伯ということが判明しました。一方のドロテアはジョージによってアールデン城に30年以上にもわたって幽閉されることに。

2 なぜジョージ1世はイギリス国王となったのか

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James Thornhill (1675-1734) – P.M. History. Januar 2006, S. 24., パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、ここまでジョージ1世とゾフィア・ドロテアについて見てきました。しかしなぜドイツの1貴族に過ぎなかったジョージがイギリス王として迎えられることになったのでしょうか。その経緯について解説していきますね。

2-1 アン女王の崩御

1714年、イギリスのアン女王が崩御しました。アン女王と言えば、スコットランドとイングランドを合同させてグレートブリテンという連合王国を築いた人物ですよね。そして子どもに恵まれなかったことでも有名。アンは、生涯で18回も妊娠(中には想像妊娠もあるため、正確な数は不明)し、無事に生まれたのはわずか5人。そしてどの子も夭逝し、一番長生きだったウィリアムも11歳で亡くなってしまいました。こうしてステュアート朝が断絶することに。

2-2 王位継承法による選出

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ヘラルト・ファン・ホントホルスト – Ashdown House, Berkshire, London and South East, National Trust, パブリック・ドメイン, リンクによる

ステュアート朝は断朝することになりましたが、後継者は決まっていました。王位継承法によって、ステュアート家の血を引くプロテスタントの者が継承者となることに。これにより、ドイツのハノーヴァー選帝侯に嫁いでいたゾフィーが選ばれることに。ところが、アン女王が亡くなる2か月前にゾフィーは病死。そのため、ゾフィーの長男であるジョージがイギリスの王冠を被ることになったのです。

2-3 ジョージ1世、イギリスの地へ

こうしてゲオルク改め、ジョージ1世がイギリス国王として即位。しかし意外なことにイギリスへ渡るのに乗り気ではなかったそう。もしかすると、ジョージの大叔父(チャールズ1世)がピューリタン革命で処刑されたことや名誉革命によってジェームズ2世が国を追われたことから、イギリスという国を警戒していたのかもしれませんね。

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なぜゲオルクの名がイギリスではジョージとなるのか?それは、ゲオル(George)という名はイギリス読みにするとジョージだったからだ。こうしてジョージ1世は54歳という当時では高齢で即位することになったんだ。しかしジョージ1世の評判はあまりよくなかったようだ。どんな人物だったのか見ていこう。

2-4 不美人を愛したジョージ

ジョージ1世はドイツから家族や臣下以外にも連れてきた人物がいました。それは愛妾2人。彼女たちは一方はガリガリに痩せていたため、ドイツでは案山子、イギリスではメイポールと呼ばれることに。もう一人はとても太っていたためと陰口を言われました。なんとジョージはこの2人を連れて、周囲が驚く顔を見るのが好きだったそう。かなり悪趣味な人物ですね。ちなみに妃のゾフィア・ドロテアはドイツのアールデン城に幽閉されたまま、王妃としてイギリスの地を踏むことはありませんでした。

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ジョージは美人な妃ゾフィア・ドロテアを憎み、離婚を承諾するフリをして彼女を幽閉していたんだ。その一方で対照的な体格の2人の愛妾を連れて周囲が驚く様子を楽しんでいたから、イギリス国内ではかなり人気がなかったらしい。

2-5 君臨すれども統治せず

さて、当時としては高齢で即位したジョージ1世。彼は英語を話すことができず、またイギリス国内の政治情勢を把握してませんでした。そのため、ハノーヴァーから連れてきた側近に頼る政治を行うことに。ところがこれを批判されてからは有力な閣僚たちに政治を任せるようになりました。

ジョージ1世が閣議にも参加しないようになると、1721年から約20年にわたって政治家のロバート・ウォルポールが活躍。ジョージは政治はウォルポールらに任せ、1年のほとんどをドイツのハノーヴァーで過ごしたそう。こうしてイギリスでは国王は「君臨すれども統治せず」というスタイルが確立することに。ウォルポールは経済政策を重視し、土地税を大きく下げる政策を行いました。そして不足分は商業や貿易での振興を図って補うことに成功。また対外的には平和政策を取ったため、安定した時代を築き上げました。

3 ジョージ1世の死後

さて、1714年にイギリス王として即位したジョージでしたが、即位後13年目で亡くなることに。67歳でした。君臨すれども統治せずというスタイルでイギリスを治めたジョージでしたが、彼の死後のイギリスはどうなったのでしょうか。それでは見ていきましょう。

3-1 イギリス国王夫妻の相次ぐ死

ジョージ1世の手によって32年間もの間ドイツのアールデン城へ幽閉されていたゾフィアでしたが、亡くなることに。60歳でした。彼女が亡くなった際にこんなエピソードが。ゾフィアは亡くなる直前に遺書を書き、それを側近に託してジョージの馬車へ投げ込むように頼んだそう。そして側近がジョージの馬車に近づき遺書を投げ入れると、それを読んだジョージがショックで亡くなったというもの。実際には他人に対してどこまでも冷酷であり、自身に危険が及ぶと怖気づくような男がショックで死んだとは考えられません。おそらくゾフィの無念を嘆いたイギリス国民が信じたかったエピソードだったのではないでしょうか。ちなみにジョージ1世はゾフィの死から1年後の1727年にこの世を去ることに。

3-2 息子ジョージ2世が即位

1727年にジョージ1世の息子、ジョージ2世が即位することに。彼は父よりかはましでしたが、片言の英語しか話せなかったそう。また父によく似て軍人気質であり、愛人を多く持ち、息子とは険悪の仲だったそう。政治面ではジョージに代わって頭脳明晰なキャロライン妃がウォルポールと共に担っていました。そのため、イギリス国民からは威張っていても統治するのはキャロライン妃と揶揄されていたそう。

有能な妃だったキャロラインですが、王妃となって10年後に死去。ヘルニアの手術の失敗がもとで54歳の生涯でした。死の床で彼女はジョージに対し、自分が死んだ後再婚してもよいと言ったそう。これに対し彼は再婚しないと伝え、妃の死後は再婚しませんでした。

妃の死後、好戦的な性格だったジョージ2世はウォルポールの反対を退けて戦争に参戦することに。1740年にはオーストリア継承戦争にマリア・テレジアの味方として関与しました。彼はイギリス王として最後に出陣した王としても知られることに。ところが国内人気はなく、30年以上にもわたり国王だったにも関わらず影の薄い存在でした。

3-3 ジョージ2世妃キャロライン

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前の章で登場したキャロライン妃についてもう少し詳しく見ていきましょう。彼女はジョージ1世の母ゾフィーに見初められ、孫のジョージ(後のジョージ2世)と1705年に結婚することに。キャロライン妃はドイツのブランデン・アーンズバック侯の1人娘でした。そして1714年、舅のジョージがイギリスへ渡英した際に、ジョージ2世と1000人以上の廷臣らと共に同行。ちなみに彼女は夫ジョージ2世と違って将来イギリスへ渡って王妃となることを見越していたため、英語をマスターしていたそう。才色兼備の人物でした。

当然外見に関するコンプレックスを抱えているジョージ1世の標的となり、彼女は王室の宝石を取り上げられ、1世の戴冠式には借り物の宝石を身につけることになったそう。またジョージ1世は息子に対しての嫌がらせもしていたため、2人は団結したそう。

「君臨すれども統治せず」のスタイルを作ったジョージ1世

ジョージ1世はもともとはドイツ北部の1貴族に過ぎない人物でした。ところが母ゾフィーがイギリス王家ステュアート家の血を引いていたことから、イギリス王となることに。

彼自身は他者に対する思いやりに欠けた人物で、多くの愛人を抱えていた自分のことは棚に上げて王妃ゾフィア・ドロテアの不倫を責め、アールデン城へ30年以上にもわたって幽閉することに。愛していないにも関わらず、自分から離れようとする妃への執着心が伺えますね。

そしてハノーヴァー家の家族仲も最悪なものとなることに。母との思い出を一切取り上げられた息子ジョージ2世は父と反目し、義理の娘キャロラインに対しては妻と同様に嫌がらせをしていたジョージ1世。

イギリス国王としては、英語を話せずイギリスの実情についても知ろうせず、1年の大半をドイツのハノーヴァーで過ごしていたジョージ。そのため、イギリスでは「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立していくことになりました。

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