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明治維新の英雄たち!「維新の十傑」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

維新の十傑・大村益次郎と前原一誠

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長州藩を近代的な軍隊に成長させた「大村益次郎」

大村益次郎はもしかすると平凡な村の医者として人生を終えていたかもしれません。しかし、数々の出会いが大村益次郎の運命を変えていきました。ペリーの黒船来航によって日本では蘭学の需要が高まりましたが、その際に大村益次郎は蘭学者の二宮敬作の目にとまり、宇和島藩にて兵学や蘭学を教えることになります

また、1858年に木戸孝允と出会ったことで奇兵隊の軍制改革を任せられ、長州藩の兵士の育成や最新武器の購入などを担当していました。このため大村益次郎は戦術に長けており、長州征伐戊辰戦争で自軍を勝利へと導きます。一度は滅亡しかけた長州藩が復活したのは、大村益次郎が長州藩の軍を近代的な軍隊へと成長させたためでしょう。

幕末の戦いに勝利したことで明治維新への道を切り開き、明治政府誕生後は政府の幹部へと任命されました。こうして大村益次郎は近代日本の軍事力を高めるために尽力しますが、仲間との会食中に元長州藩士に襲撃され、その時の傷が原因で命を失ってしまったのです。

長州藩の復活に貢献した「前原一誠」

幕末において過激な攘夷の思想が災いした長州藩、外国からの報復やクーデターなどによって朝敵とみなされるほど窮地に陥ります。滅亡の危機となった長州藩は生き残るためか態度が一変、それまでの過激な武闘派としての面影は一切なくなり、幕府に従う謙虚な姿勢を見せるようになりました。

そんな長州藩の情けない姿に立ち上がったのが前原一誠、高杉晋作が起こした功山寺挙兵にも協力して、元の強い長州藩を取り戻すことに成功します。やがてその方針と倒幕へと転換させ、前原一誠は第二次長州征伐にも参戦して幕府軍を撃破したのです。

さらに戊辰戦争にも参加、北越戦争においては軍を指揮する立場になっています。しかし、明治維新後は木戸孝允と対立した末に帰郷、九州で反乱が起きたのをきっかけに前原一誠も萩で反乱を起こしますがこれは失敗、反乱の鎮圧と同時に前原一誠は処刑されてしまいました。

維新の十傑・広沢真臣と江藤新平

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討幕の密勅を受ける任務を担った「広沢真臣」

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は長州藩士であり、尊攘派として長州藩の藩政改革の計画に参加する活躍を見せました。最も、禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐などの時期は長州藩が追い詰められており、そのため広沢真臣も苦労しています。例えば、藩内で起こった政権闘争では投獄されてしまった経験もあるほどです。

長州藩における広沢真臣の立場を一変させたきっかけは、高杉晋作ら主戦派によるクーデターであり、結果広沢真臣は政務役として藩政に参加するようになりました。さらに、第二次長州征伐では講和交渉の際に幕府側の勝海舟と交渉、さらに坂本龍馬らとも会談して商社示談箇条書も作成しています。

そして、倒幕実現の要となった討幕の密勅の降下にも尽力しており、岩倉具視や大久保利通と一緒に討幕の密勅を受ける任務を担いました。明治政府誕生後は参議などの要職に任命されますが、最期は東京の自宅で襲撃されて死亡、同じ明治の十傑に数えられている大村益次郎や横井小楠も同時期に暗殺されています。

明治時代に司法関係を整備した「江藤新平」

薩摩藩や長州藩の出身者が多い維新の十傑ですが、江藤新平(えとうしんぺい)は肥前藩出身です。ちなみに、資料によっては佐賀藩と記されているかもしれませんが、肥前藩と佐賀藩はイコールであり、そのためどちらの解釈をしても良いでしょう。

尊王攘夷運動に積極的だった江藤新平は、一時は謹慎処分を受けるものの王政復古の大号令の後に復帰します。戊辰戦争において西郷隆盛の功績が光る江戸城無血開城ですが、この時首都を江戸に移すことを提案したのは江戸新平ですし、上野戦争では彰義隊と戦う活躍も見せました。

明治政府誕生後は司法卿として司法関係を厳しく整備、しかし征韓論において明治政府と揉めたため、西郷隆盛と時を同じくして政府を退いています。その後、故郷に戻って反乱を起こすものの大久保利通によって鎮圧され、最期は処刑されて晒し首となったそうです。

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