
明治政府の政治政策に尽力した「木戸孝允」
ペリーの黒船来航は人々に恐怖を与えましたが、木戸孝允にとってはむしろ刺激となり、それがきっかけで本格的に洋式兵術を学んでいます。その力は次第に長州藩に認められるようになり、いつしか他藩との交渉を行うなど長州藩の中心人物になるほど出世しました。
また、同じ長州藩である高杉晋作らと尊王攘夷運動を行っていき、坂本龍馬の仲介を経て薩長同盟の締結も成功させます。同盟締結後は倒幕に向けて大久保利通らと協力、王政復古の大号令にも関わりました。明治政府誕生後は右大臣の岩倉具視に認められ、政治における実質的な最終決定責任者へとなります。
五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、こうした政治政策に尽力した他、岩倉使節団の副使としても活躍したのです。一度は台湾出兵に反対して参議を辞任するものの再度復帰、ただその頃から病気が悪化してしまい、最期は重症化した病気によって病死しました。
こちらの記事もおすすめ

逃げの小五郎と言われた「木戸孝允(桂小五郎)」維新三傑の一人を歴女がわかりやすく解説
大政奉還の成立に貢献した「小松帯刀」
小松帯刀(こまつたてわき)は、歴史の教科書だけを見る限りではとても維新の十傑に数えられる活躍をしたとは思えないでしょう。しかし、小松帯刀は立場的に西郷隆盛や大久保利通の上司にあたる人物で、薩摩藩を代表する政治家でもありました。薩長同盟では坂本龍馬が仲介役に回りますが、ただそれができたのは亀山社中があったためでしょう。
実は坂本龍馬が結成した貿易結社・亀山社中には小松帯刀も関係しており、設立のための援助を行っているのです。また、薩英戦争後の薩摩藩とイギリスの交流においても、英国公使パークスと島津久光を対面させるなどして友好関係の構築に尽力しています。
幕末において活躍した小松帯刀は、討幕の密勅に藩の代表として署名していますし、二条城においては徳川慶喜に対して大政奉還の受諾や将軍職の辞任を迫る姿勢まで見せました。しかし大政奉還の成立後、小松帯刀はまるで全ての役目を果たしたかのように病気となって死亡しています。
こちらの記事もおすすめ

幕末に活躍した「小松帯刀」薩摩藩の若き家老について歴女がわかりやすく解説
\次のページで「維新の十傑・大村益次郎と前原一誠」を解説!/