今日は維新の十傑について勉強していきます。

江戸時代の幕末、日本では倒幕運動が活発化してやがては実現、武家政権が終わり明治政府による天皇中心の政治へと時代は変わっていった。

倒幕から天皇親政体制に向けての改革……それが明治維新であり、中でも特に活躍した志士を維新の十傑と呼ぶ。今回、維新の十傑について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から維新の十傑をわかりやすくまとめた。

維新の十傑・西郷隆盛と大久保利通

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江戸城無血開城の功績が輝く「西郷隆盛」

西郷隆盛は身分の低い生まれながらも島津斉彬に才能を見出され、維新の十傑に数えられるほどの人物になりました。倒幕運動が活発になった頃、徳川慶喜の大政奉還によりあと一歩のところで機会を逃してしまいます。ただ、西郷隆盛はそれでも倒幕を諦めませんでした。

王政復古の大号令と呼ばれるクーデターを起こして徳川慶喜を無力化させ、また戊辰戦争においては新政府軍の責任者としても活躍します。中でも特に評価されたのは江戸城無血開城で、話し合いの末、お互い血を流すことなく幕府に江戸城を開け渡させることに成功しました。

また、倒幕のきっかけとなった薩長同盟にも関係しており、明治政府誕生後は廃藩置県などの政治政策にも尽力しています。ただ、最終的には明治政府と敵対してしまい、西南戦争で薩摩の軍を率いて戦うものの敗北、最期は側近に介錯を求めて死亡しました。維新の十傑に数えられた西郷隆盛でしたが、皮肉にも最後は逆賊となってしまったのです。

徳川慶喜追放の根回しで活躍した「大久保利通」

大久保利通は武士でありながら、政治家としての活躍が目立ちました。幕末では積極的に倒幕運動を勧めており、王政復古の大号令小御所会議において徳川慶喜を追放するための根回しを行っています。最も、武士としての一面も見せており、武力行使による新政府樹立を目指していました。

政治能力の高さが秀でているため薩摩藩への影響力が非常に強く、薩長同盟も大久保利通なしでは実現しなかったでしょう。また、大久保利通は明治政府誕生後も政治で活躍しており、富国強兵をスローガンにしていました。さらに、岩倉使節団の一員として海外にも渡って外交にも尽力します。

しかし、それが西郷隆盛と対立する要因になってしまい、共に倒幕を果たして新政府樹立を実現した西郷隆盛と決別、その後に起こる西南戦争では西郷隆盛と戦うことになるのです。西南戦争では明治政府側に就いて勝利しますが、大久保利通はその翌年に暗殺されてしまい、壮絶な最期を遂げました。

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維新の十傑・木戸孝允と小松帯刀

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明治政府の政治政策に尽力した「木戸孝允」

ペリーの黒船来航は人々に恐怖を与えましたが、木戸孝允にとってはむしろ刺激となり、それがきっかけで本格的に洋式兵術を学んでいます。その力は次第に長州藩に認められるようになり、いつしか他藩との交渉を行うなど長州藩の中心人物になるほど出世しました。

また、同じ長州藩である高杉晋作らと尊王攘夷運動を行っていき、坂本龍馬の仲介を経て薩長同盟の締結も成功させます。同盟締結後は倒幕に向けて大久保利通らと協力、王政復古の大号令にも関わりました。明治政府誕生後は右大臣の岩倉具視に認められ、政治における実質的な最終決定責任者へとなります。

五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、こうした政治政策に尽力した他、岩倉使節団の副使としても活躍したのです。一度は台湾出兵に反対して参議を辞任するものの再度復帰、ただその頃から病気が悪化してしまい、最期は重症化した病気によって病死しました。

大政奉還の成立に貢献した「小松帯刀」

小松帯刀(こまつたてわき)は、歴史の教科書だけを見る限りではとても維新の十傑に数えられる活躍をしたとは思えないでしょう。しかし、小松帯刀は立場的に西郷隆盛や大久保利通の上司にあたる人物で、薩摩藩を代表する政治家でもありました。薩長同盟では坂本龍馬が仲介役に回りますが、ただそれができたのは亀山社中があったためでしょう。

実は坂本龍馬が結成した貿易結社・亀山社中には小松帯刀も関係しており、設立のための援助を行っているのです。また、薩英戦争後の薩摩藩とイギリスの交流においても、英国公使パークスと島津久光を対面させるなどして友好関係の構築に尽力しています。

幕末において活躍した小松帯刀は、討幕の密勅に藩の代表として署名していますし、二条城においては徳川慶喜に対して大政奉還の受諾や将軍職の辞任を迫る姿勢まで見せました。しかし大政奉還の成立後、小松帯刀はまるで全ての役目を果たしたかのように病気となって死亡しています。

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維新の十傑・大村益次郎と前原一誠

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長州藩を近代的な軍隊に成長させた「大村益次郎」

大村益次郎はもしかすると平凡な村の医者として人生を終えていたかもしれません。しかし、数々の出会いが大村益次郎の運命を変えていきました。ペリーの黒船来航によって日本では蘭学の需要が高まりましたが、その際に大村益次郎は蘭学者の二宮敬作の目にとまり、宇和島藩にて兵学や蘭学を教えることになります

また、1858年に木戸孝允と出会ったことで奇兵隊の軍制改革を任せられ、長州藩の兵士の育成や最新武器の購入などを担当していました。このため大村益次郎は戦術に長けており、長州征伐戊辰戦争で自軍を勝利へと導きます。一度は滅亡しかけた長州藩が復活したのは、大村益次郎が長州藩の軍を近代的な軍隊へと成長させたためでしょう。

幕末の戦いに勝利したことで明治維新への道を切り開き、明治政府誕生後は政府の幹部へと任命されました。こうして大村益次郎は近代日本の軍事力を高めるために尽力しますが、仲間との会食中に元長州藩士に襲撃され、その時の傷が原因で命を失ってしまったのです。

長州藩の復活に貢献した「前原一誠」

幕末において過激な攘夷の思想が災いした長州藩、外国からの報復やクーデターなどによって朝敵とみなされるほど窮地に陥ります。滅亡の危機となった長州藩は生き残るためか態度が一変、それまでの過激な武闘派としての面影は一切なくなり、幕府に従う謙虚な姿勢を見せるようになりました。

そんな長州藩の情けない姿に立ち上がったのが前原一誠、高杉晋作が起こした功山寺挙兵にも協力して、元の強い長州藩を取り戻すことに成功します。やがてその方針と倒幕へと転換させ、前原一誠は第二次長州征伐にも参戦して幕府軍を撃破したのです。

さらに戊辰戦争にも参加、北越戦争においては軍を指揮する立場になっています。しかし、明治維新後は木戸孝允と対立した末に帰郷、九州で反乱が起きたのをきっかけに前原一誠も萩で反乱を起こしますがこれは失敗、反乱の鎮圧と同時に前原一誠は処刑されてしまいました。

維新の十傑・広沢真臣と江藤新平

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討幕の密勅を受ける任務を担った「広沢真臣」

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は長州藩士であり、尊攘派として長州藩の藩政改革の計画に参加する活躍を見せました。最も、禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐などの時期は長州藩が追い詰められており、そのため広沢真臣も苦労しています。例えば、藩内で起こった政権闘争では投獄されてしまった経験もあるほどです。

長州藩における広沢真臣の立場を一変させたきっかけは、高杉晋作ら主戦派によるクーデターであり、結果広沢真臣は政務役として藩政に参加するようになりました。さらに、第二次長州征伐では講和交渉の際に幕府側の勝海舟と交渉、さらに坂本龍馬らとも会談して商社示談箇条書も作成しています。

そして、倒幕実現の要となった討幕の密勅の降下にも尽力しており、岩倉具視や大久保利通と一緒に討幕の密勅を受ける任務を担いました。明治政府誕生後は参議などの要職に任命されますが、最期は東京の自宅で襲撃されて死亡、同じ明治の十傑に数えられている大村益次郎や横井小楠も同時期に暗殺されています。

明治時代に司法関係を整備した「江藤新平」

薩摩藩や長州藩の出身者が多い維新の十傑ですが、江藤新平(えとうしんぺい)は肥前藩出身です。ちなみに、資料によっては佐賀藩と記されているかもしれませんが、肥前藩と佐賀藩はイコールであり、そのためどちらの解釈をしても良いでしょう。

尊王攘夷運動に積極的だった江藤新平は、一時は謹慎処分を受けるものの王政復古の大号令の後に復帰します。戊辰戦争において西郷隆盛の功績が光る江戸城無血開城ですが、この時首都を江戸に移すことを提案したのは江戸新平ですし、上野戦争では彰義隊と戦う活躍も見せました。

明治政府誕生後は司法卿として司法関係を厳しく整備、しかし征韓論において明治政府と揉めたため、西郷隆盛と時を同じくして政府を退いています。その後、故郷に戻って反乱を起こすものの大久保利通によって鎮圧され、最期は処刑されて晒し首となったそうです。

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維新の十傑・横井小楠と岩倉具視

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国是七条を書いた「横井小楠」

横井小楠(よこいしょうなん)は肥後藩の出身で、これは江藤新平と同じです。1858年に政治顧問に就任すると殖産貿易に尽力、貿易における情報収集や越前蔵屋敷の建築を行い、物産総会所を設けます。ちなみに、藩からは資金の出し入れを行い、運営は商人に一任するスタイルをとりました。

生糸が高値で取引できると読んだ横井小楠は特に養蚕を奨励、見事その読みが的中して藩の財貨は常に50万両蓄えるまでに至ります。横井小楠で有名なのは幕府への提言書を書いたことで、これが有名な国是七条であり、幕府の岡部長常は横井小楠を招いてその内容について詳しい説明を求めたそうです。

それに対して横井小楠は「各藩の財政難の要因である参勤交代や大名の妻子の江戸居住の緩和・廃止」など、見識高い意見を述べてそこにいた者達を驚かせました。明治政治誕生後は参与として財政担当を任せられますが、明治2年に襲撃を受けて暗殺されてしまいます。

討幕と明治時代の政治改革で名を刻んだ「岩倉具視」

岩倉具視(いわくらともみ)は公家であり、そのため政治の面で活躍します。当初は薩摩藩と同じで公武合体による朝廷と幕府による協力した政治を思想としますが、やがてその思想は変わり、大久保利通や西郷隆盛と交流して共に討幕を目指すようになりました。

公家の立場から王政復古の大号令小御所会議を主導しており、大政奉還を行った徳川慶喜に対して新政権樹立を宣言、こうして徳川慶喜を政治の世界から追い詰めていきます。明治政府誕生後は参与、義定、大納言、右大臣を務めて政治に尽力、版籍奉還廃藩置県などの政治改革を行いました。

さらに岩倉使節団の特命全権大使へと就任、欧米諸国をめぐって不平等条約の改正にも励みます。帰国後は欧米諸国の文化に衝撃を受け、それに習って鉄道会社の設立や富国強兵の政策に力を入れました。最期は病死した岩倉具視ですが、その功績から日本で初の国葬が行われたことは有名です。

維新の三傑の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允を優先して覚えよう!

まず維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允を優先して覚えましょう。また、知名度から考えれば岩倉具視も外せません。最も、それぞれ異なる方面で活躍しているため、ひとりひとり覚えるのは難しいと思います。

人物の暗記だけならズラリと10人覚えるべきですが、何をしたかまで覚えるとすれば、各々の人物をそれぞれ覚えていくよりも、明治維新を覚えていけば自然と維新の十傑の知識になるでしょう。

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日本史明治明治維新歴史

明治維新の英雄たち!「維新の十傑」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は維新の十傑について勉強していきます。

江戸時代の幕末、日本では倒幕運動が活発化してやがては実現、武家政権が終わり明治政府による天皇中心の政治へと時代は変わっていった。

倒幕から天皇親政体制に向けての改革……それが明治維新であり、中でも特に活躍した志士を維新の十傑と呼ぶ。今回、維新の十傑について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から維新の十傑をわかりやすくまとめた。

維新の十傑・西郷隆盛と大久保利通

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江戸城無血開城の功績が輝く「西郷隆盛」

西郷隆盛は身分の低い生まれながらも島津斉彬に才能を見出され、維新の十傑に数えられるほどの人物になりました。倒幕運動が活発になった頃、徳川慶喜の大政奉還によりあと一歩のところで機会を逃してしまいます。ただ、西郷隆盛はそれでも倒幕を諦めませんでした。

王政復古の大号令と呼ばれるクーデターを起こして徳川慶喜を無力化させ、また戊辰戦争においては新政府軍の責任者としても活躍します。中でも特に評価されたのは江戸城無血開城で、話し合いの末、お互い血を流すことなく幕府に江戸城を開け渡させることに成功しました。

また、倒幕のきっかけとなった薩長同盟にも関係しており、明治政府誕生後は廃藩置県などの政治政策にも尽力しています。ただ、最終的には明治政府と敵対してしまい、西南戦争で薩摩の軍を率いて戦うものの敗北、最期は側近に介錯を求めて死亡しました。維新の十傑に数えられた西郷隆盛でしたが、皮肉にも最後は逆賊となってしまったのです。

徳川慶喜追放の根回しで活躍した「大久保利通」

大久保利通は武士でありながら、政治家としての活躍が目立ちました。幕末では積極的に倒幕運動を勧めており、王政復古の大号令小御所会議において徳川慶喜を追放するための根回しを行っています。最も、武士としての一面も見せており、武力行使による新政府樹立を目指していました。

政治能力の高さが秀でているため薩摩藩への影響力が非常に強く、薩長同盟も大久保利通なしでは実現しなかったでしょう。また、大久保利通は明治政府誕生後も政治で活躍しており、富国強兵をスローガンにしていました。さらに、岩倉使節団の一員として海外にも渡って外交にも尽力します。

しかし、それが西郷隆盛と対立する要因になってしまい、共に倒幕を果たして新政府樹立を実現した西郷隆盛と決別、その後に起こる西南戦争では西郷隆盛と戦うことになるのです。西南戦争では明治政府側に就いて勝利しますが、大久保利通はその翌年に暗殺されてしまい、壮絶な最期を遂げました。

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