日本史

鎌倉幕府・源頼朝の代表的な政治政策「守護地頭」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は守護地頭について勉強していくぞ。鎌倉幕府成立の年は以前まで1192年とされていたが、1185年に改定され、これは1185年に源頼朝が政治政策を行っていたからだ。

それはつまり源頼朝が政治の主導権を握っていることを意味しており、そのため1185年に鎌倉幕府が成立したと改定された。その政治政策にあたる守護地頭について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から守護地頭をわかりやすくまとめた。

守護と地頭の役割

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守護の役割は現代の警察のイメージ

守護地頭とは、源頼朝が開いた鎌倉幕府が地方の多くの国に設置した役職です。1185年に設置されたこの守護地頭は源頼朝の代表的な政治政策であり、そのため「守護地頭の設置=鎌倉幕府の成立」とも受け取れることから、鎌倉幕府成立の年が1192年から1185年へと改定されました

守護地頭とひとくくりで表されていますがその役割は異なり、守護の役割は主に罪人の逮捕や鎌倉の警備、地頭の役割は主に荘園の管理や年貢の取り立てです。まず守護に注目すると、警備が役割なのは御家人も同様ですから、敢えてそれが守護の役割に含まれているのは、守護が御家人の頂点に立つ存在だからだと考えられますね。

また、地方に住む御家人の中には幕府に反発する者も時に現れたため、守護は御家人の管理と監視を行って、このような御家人を逮捕するのも守護の役割となっていました。ちなみに、鎌倉の警備は大番催促とも呼ばれており、大番とは京都や鎌倉の警備を意味する言葉です。

地頭の役割は現代の税務署のイメージ

次に地頭ですが、地頭は荘園や公領を管理するため国よりも細かい単位で設置されており、主な役割は年貢の徴収や治安維持になります。年貢を納めることは庶民の義務でしたから、それを徴収する地頭は庶民からすればリーダー的存在にうつっていたでしょう。

最も、土地の管理と聞くと地頭の役割は一見地味に思えますし、確かに設置当初は領民の所有する土地などしか管理していませんでした。しかし幕府の影響力拡大のためか、やがては寺院や貴族の所有する荘園、朝廷の管理下になる土地など、いわゆる公領の管理まで行うようになったのです。

また、領民が罪を犯した場合は逮捕させる権限も持っており、領民同士のトラブルが発生した場合は裁判を行う裁判官を務めるなどもしています。現代で例えるなら、地頭は市長と税務署員と軍の司令官の役割の全てを受け持っていたことになりますね。

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現代の仕事で例えるなら、守護は警察で地頭は税務署とイメージすると分かりやすいだろう。守護も地頭も御家人の中から選ばれ、当初は直接的な上下関係はなかった。しかし、時代が進むと地頭は守護に仕えるようになる。

平氏政権の誕生と滅亡

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平氏と源氏の戦いと決着

以前は天皇が政治の主導権を握る時代でしたが、1156年の保元の乱をきっかけにそれを変えたのが平清盛です。平清盛は日本で初めて武家政権を開き、武士ではこれも初めてとなる太政大臣に就任、1179年には院政を行っていた後白河法皇を幽閉して権力を完全に奪ってしまいました

最も、そんな平清盛に朝廷は当然不満を抱きますが、武士である平清盛には武力・兵力という強力な武器があり、そのため不満には思っても反発する行動までは起こせません。しかし、平清盛に不満を抱いたのは朝廷だけでなく、平氏以外の武士もまた同じ不満を抱いていたのです。

武家政権で権力を握るのは平氏の中でも平清盛を筆頭にした平家、また平氏も力をつけていたため、平氏以外の武士からすればやはりこの状況は面白くなく、「打倒平氏」を掲げる声が広まっていきます。そして1180年にとうとう行動を起こしたのが源氏、源頼朝は5年も続いた治承・寿永の乱の末、壇ノ浦の戦いにてとうとう平氏に勝利したのです。

源頼朝を怖れる後白河法皇

ここで先に、平家と平氏の区別について補足しておきます。「平」は姓であり、平氏は名字としてそう名乗っていました。つまり平氏とは「平」の姓の一族なのですが、その中でも朝廷に仕えた者を平家と呼んでおり、例えば平清盛は平家になりますね。

壇ノ浦で戦いで滅亡したのは平家ですから、「平」の姓を持つ平氏全てが滅亡したわけではありません。さて、平氏に勝利した源氏のトップである源頼朝、後白河法皇はそんな源頼朝を怖れます。何しろ、平家を滅亡させる力があるわけですから、朝廷がそんな源頼朝を怖れるのも無理はないでしょう。

そこで後白河法皇は源頼朝の弟・源義経を味方へと取り込んで兄である源頼朝の討伐を指示、しかし源義経はこれに失敗して逃亡、怒った源頼朝はその怒りの矛先を自身の討伐を指示した後白河法皇へと向け、後白河法皇の住む京都に向けて挙兵するのでした。

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守護地頭を設置したのは源頼朝であり、そのため源頼朝が政権を握るまで遡ってみせた。源平合戦に勝利した源頼朝、そんな源頼朝を怖れた後白河法皇は源頼朝の討伐に失敗、怒った源頼朝は京都に向けて挙兵して後白河法皇の元へと向かう。

守護地頭の設置と鎌倉幕府の成立

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源頼朝の巧みな口実

源頼朝は頭の切れる人間です。後白河法皇に詰め寄った源頼朝は、まず自身を狙った弟・源義経を討伐するための命令を出すことを要求しました。法皇の命令となれば誰にも邪魔されずに討伐できるわけですし、命を狙われた身としては源頼朝のこの要求は当然かもしれません。

ここで源頼朝が頭の良さを見せたのが、逃亡した源義経を探すため全国への守護と地頭の設置を認めるよう要求したことです。いくら討伐命令が出ても、源義経が姿をくらましている以上はまず探さなければならず、そのために全国に家臣を設置して探すのは至って自然な行為ですからね。

しかしそれはあくまで口実、源頼朝は既に全国を支配する野望を持っており、各地の支配力を高めるために守護と地頭を設置しようとしたのが本音でした。もちろんそんな本心を打ち明けるわけにはいかず、要するに「源義経の捜索」を口実に守護と地頭の設置を実現しようとしたのです。

守護地頭の設置と任命権の許可

平氏政権を打ち破って朝廷に権利に取り戻させたこと、法皇が源義経に源頼朝の討伐を命令したこと、あらゆることで源頼朝は朝廷に対して貸しがあります。そのため後白河法皇も源頼朝の要求に逆らえず、そのため守護と地頭の設置は認められ、さらに守護と地頭における任命権まで認められました。

こうして守護と地頭の設置を行う源頼朝、それは1185年のことであり、源頼朝にとっての政治政策開始となることから、この年……すなわち1185年に鎌倉幕府が成立したと考えるようになったのです。ちなみに、逃亡した源義経は頼った藤原氏に裏切られ、最期には自害しています。

守護は各国に1人、地頭は荘園や公領に1人配置され、守護は大犯三カ条に基づいた職務をこなしました。大犯三カ条の内容は「御家人の大番催促」、「謀反人の追捕」、「殺害人の追捕」であり、つまり上の項目でも説明した守護の役割に該当するものです。

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