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サトウと共に幕末に活躍した「ミットフォード」このイギリス外交官について歴女がわかりやすく解説

ミットフォードが語る、パークス対ロッシュ
サトウやミットフォードの上司であるハリー・パークス公使は、かなり有能な人でしたが、清国で雇われた叩き上げで、東洋人は高圧的に怒鳴れば言うことを聞くと信じていて、実際、清国ではそれが通ったが、公使館の部下たちにも自殺者が何人も出るほど怒鳴り倒す人物でした。

中国人と違い日本人には怒鳴っちゃダメとサトウらが言い聞かせたりしたことも多く、サトウの回想録では後藤象二郎に、パークス公使はあんなに怒鳴っちゃいかんぜよと言われ、サトウが「私からとても言えないので、あなたから公使に言ってください」というシーンもあるほど。

こういう性格のパークス公使は、駐日フランス公使レオン・ロッシェとライバル同士で火花を散らしていたのですが、「英国外交官の見た幕末維新」には、ある日,パークスは突然,私の部屋に旋風のようにやってきたが、いつもの興奮したときの癖で、彼の明るい赤い髪の毛は根元から逆立っていた。「ロッシュのやつめが、私になんて言ったと思う?将軍の軍隊の訓練のためにフランス本国から陸軍教官団を呼ぶつもりだというんだ。構うことはない。絶対に彼に対抗してみせる。こちらは海軍教官団を呼ぼう」ということで、その後の明治になって以後、日本の陸軍は最初はフランス式で後にドイツ式となり、海軍はイギリス式に。どこの国でも海軍と陸軍とかはライバル意識が強いものですが、日本は特にその傾向が強かった遠因はパークス対ロッシェというわけかも。

2-7、エディンバラ公来日の接待も

明治2年(1869年)9月4日、ヴィクトリア女王の次男のエディンバラ公アルフレート王子が来日したが、ミットフォードはエディンバラ公の宿舎となった浜離宮に約1ヶ月住みこみで準備。エディンバラ公が天皇に謁見した際には、通訳を。その後はオーストリア外交使節一行をサポート。

明治3年(1870年)1月1日に日本を離任する際、疲れ切ったミットフォードは、大男のウィリスに船に担ぎ込んでもらったということ。

尚、ついでに言えば明治14年(1881年)10月には、海軍軍艦での世界周遊の途中でヴィクトリア女王の孫でエドワード7世の息子たちであるアルバート・ヴィクター王子と弟のジョージ王子(ジョージ5世)が来日、当時流行していたタトゥーを入れたという話も。

3、帰国後のミットフォード、貴族の後を継ぐ

「ある英国外交官の明治維新」によれば、1870年に帰国し一年の賜暇を与えられたミットフォードは、エドワード皇太子が創設した社交クラブのマルボロ―クラブの会員に推薦され、エドワード皇太子と親しくなり、バルモラル城に招待されてヴィクトリア女王の夕食会に招かれたりと社交生活を。

翌年、外務大臣が北京公使館にミットフォードを派遣しようとしたが、外務次官がミットフォードは健康が回復したかわからないうえに、皇太子が目をかけているからだめかもと助言したそう。そしてミットフォードはその後、サンクトペテルブルクへの勤務を命じられたが、これを断って休職、1873年に正式に外務省を辞職。その後、友人の「アラビアンナイト」の翻訳者でダマスカス領事リチャード・バートンとダマスカスへ旅行したり、イタリアへガリバルディを訪ねたりと旅行に出かけ、1874年にアメリカ経由で再来日もしたということ。

ミットフォードは1872年には財務省工務局 に副長官として入局し、1874年から1886年まで公共事業省の長官を務め、国内王室不動産や在外公館の営繕の指揮を執ることに。この間、ロンドン塔の修復、ハイド・パークの造園などに関わったということ。

1874年、ミットフォードはエアリー伯爵の3女クレメンティナ・ガートルード・ヘレンと結婚。5人の息子と4人の娘が誕生。5男の名はアーネスト。

1886年、父の従兄弟のリーズデイル伯爵ジョン・フリーマン=ミットフォードが後継ぎなしで亡くなったことで、ミットフォードはその遺産とフリーマンの名前も引き継ぐことに。1880年12月、外務卿で旧知の井上馨の指示で、首都官庁集中計画にふさわしい建築家を探していた駐英公使園田孝吉はミットフォードを訪ねて、建築家の推薦を相談。1887年には英国行政委員会のメンバーに。1892年~1895年、 ストラフォード・オン・エイヴォン選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を、1902年、連合王国貴族爵位リーズデイル男爵に叙され、貴族院議員に

4-1、ミットフォード、ガーター勲章使節で再来日

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unknown Japanese artist – British Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治35年(1902年)に日英同盟が締結、また明治36年(1904年)の日露戦争での日本の勝利を讃えるために、明治39年(1906年)2月、エドワード7世の弟であるコンノート公アーサー王子が、明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日、ミットフォードは首席随行員として再来日。

ミットフォードが知っている明治維新で活躍した元勲たちはほとんどが亡くなっていたが、徳川慶喜公爵と再会して話しかけると思い出して、名前が変わったと驚かれたとか、井上馨侯爵に勲章を授与するために訪問して時間を忘れて思い出話をしたとか、大名行列の再現されたときには、あなたは本物を見たけど同じでしょうかと聞かれたりしたそう。そして昔の御簾の中の存在だったことを知っているだけに、国賓のために新橋の駅で明治天皇が出迎えられたのになにより驚愕したということ。

4-2、ミットフォード、旧友たちのお墓詣りにも

image by PIXTA / 6650336

一行は約1か月日本に滞在し、東京だけでなく京都や神戸、鹿児島も訪問、広島では江田島の海軍兵学校なども見学、ミットフォードはあと1か月遅ければ桜が満開なのに、雨が多くて日本の印象が悪くならないかといいつつ、40年前とすっかり変わった日本の昔を懐かしみ、後藤象二郎や岩倉具視や木戸孝允、西郷隆盛、パークス襲撃事件で守ってくれた中井弘蔵のお墓参りにも。また、ミットフォードは勲一等旭日大綬章を授章。

尚、ガーター勲章はイギリス最高の勲章で、外国人ではイギリスと同盟のある国の元首が授与されるのですが、第二次世界大戦ではく奪後、再び昭和天皇に授与されたが、一度はく奪され再授与された唯一の例だそう。

4-3、ミットフォードの晩年

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Hideo Izumida投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ミットフォードはグロスターシャー州バッツフォードの屋敷を相続して、主屋をヴィクトリアン・ゴシック調に改造したり、庭園に大好きな紅葉や竹を植えて禅宗風に作り直したということ。1916年8月17日、79歳で死去。

5-1、ミットフォードの逸話

ミットフォードは日本でも隠し子がいたという話がありますが、ちょっとした逸話をご紹介しますね。

5-2、ミットフォードの醜聞

ミットフォードは、エドワード皇太子、後のエドワード7世と親友だったとか、上流階級の人間で政府関係者でもあったミットフォードの名前はヴィクトリア女王の伝記にも登場し、他のことを調べていても登場。

そのなかでは、有名なウィンストン・チャーチル夫人のクレメンタイン・オギルヴィ・スペンサー=チャーチルについての話もあり。チャーチル夫人はミットフォード夫人の姉の娘であるのですが、チャーチル夫人の母は法的には父ヘンリー・モンタギュー・ホージアーと、母レディ・ブランチ・ホージアーでデイヴィッド・オギルヴィ( 第10代エアリー伯爵の長女)の間に生まれたとされているが、母がかなり素行に問題がある人だったようで、実父が誰なのか議論されているということ(イギリスの貴族では時々ある話ですが)。色々な実父説の中に、母の姉の夫であるミットフォードがチャーチル夫人の実父ではと推測する伝記作家も。

5-3、孫娘たちがミットフォード姉妹として有名

イギリスで、20世紀前半の上流階級のアイコン的存在として有名なミットフォード姉妹は、A・B・ミットフォードの次男でリーズデイル卿を継いだデービッドの娘たち6人姉妹のこと。それぞれ作家、ファシスト、コミュニスト、公爵夫人など多彩な波乱万丈の人生を送り社交界をにぎわせたということで、イギリスでは姉妹に関する数多くの書籍が出版され、多数の映像化も。

姉妹の名前は、ナンシー、パメラ、ダイアナ、ユニティ、ジェシカ、デボラ。またパメラの下にトーマス。
ヒュー・コータッツィ著の「英国外交官の明治維新」では、祖父ミットフォードの回想録を孫娘ジェシカは自著の序文で「うんざりするほど膨大な自叙伝」と感想を。

サトウ、ウィリス、ミットフォードは幕末のイギリス三銃士のよう

A・B・ミットフォードは、幕末に来日し、アーネスト・サトウらと共に活躍した有能なイギリス外交官のひとり。文筆家でもあるので回顧録などで幕末の様子を書き残し、小泉八雲以前に日本の昔話を本にまとめたりも。

そして約40年ぶりに、明治天皇へのガーター勲章授与のために首席随行員で再来日、明治天皇以下の華々しい歓迎を受け3年余りとはいえ激動の時代を体験した場所も再訪して懐かしんだことを詳しく残し、お墓参りもした義理堅い方。

それにしてもこのガーター勲章授与の来日は、日英同盟で日本でも結構盛り上がっていたようなので、こういうときにアーネスト・サトウが駐日大使であればよかったのにと、わずか5年前にサトウは駐日公使を退任したのはいまさらながら残念。でも、そういうところが萩原延寿氏によれば「華やかなアマ」と「地道なプロ」の趣があるふたりらしいような気も。

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