幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

サトウと共に幕末に活躍した「ミットフォード」このイギリス外交官について歴女がわかりやすく解説

2-3、ミットフォードとサトウ、箱館、加賀から大坂など飛び回る

「英国外交官の見た明治維新」によれば、この頃、ミットフォードに転勤の話が持ち上がったが、最も興味深い時期にこの国を離れるのは不本意で、重要な政治的事件を見逃すことになると本国に書いて送ったそう。

そして、安政の条約では新潟が開港予定地だったが、貿易港としては適さないため代替地として七尾が候補となり、ミットフォードはパークスやサトウと共に、箱館、新潟を経て、8月7日に七尾に到着。

その後パークスは長崎経由で海路大坂へ向かったが、ミットフォードとサトウは8月10日から8月22日にかけ、内陸部を通って大坂まで旅し、加賀の侍は薩摩や土佐の侍のように猛々しくなく、長州の指導者のように抜け目のない策略家でもなくのんびりしている、のろまなのは裕福だからかもと感じたり、石山寺では文字通り、門前祓いを食わされたりしたということ。そして長崎で英国イカルス号の水兵殺害事件の報告を受けたパークスは、土佐藩の関与が疑われたので、阿波経由で土佐に向かうことになったが、ミットフォードは阿波でパークスやサトウと別れて江戸に。

2-4、兵庫港開港準備に神戸へ行き、大坂で鳥羽伏見の戦いを間近で体験

 慶応4年(1868年)1月1日予定の兵庫開港の準備でミットフォードとサトウは大坂に12月3日に到着、パークスも24日に到着して兵庫は無事に開港。

そして慶応4年(1868年)1月3日の王政復古の大号令後、1月6日に慶喜は京都を離れ大坂城に。8日にパークスはミットフォード、サトウを伴って強引に慶喜に拝謁したが、1月28日に鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は敗北、1月31日には慶喜は大坂城を脱出。前日の30日には幕府は各国外交団に保護は不可能と通達したので外交団は兵庫へと移動、ミットフォードは護衛隊を引き連れて騎馬で兵庫へ。

2-5、ミットフォード、神戸事件に遭遇、切腹に立ち会い記述も

2月4日、ミットフォードらは備前岡山藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇。この事件についてミットフォードは、備前岡山兵の射撃が下手だったが殺意のある襲撃とみなしたということ。尚、この事件の責任で滝善三郎が切腹の場に、ミットフォードとサトウが立会い、自著「昔の日本の物語」の付録にこの様子を記述。
3月5日に外交団は大坂に戻ったが、7日に山内容堂の治療のためウィリスが再度京都に派遣されることとなり、ミットフォードも同行。土佐藩の屋敷に入ったが、8日、土佐藩の兵士がフランス水兵を殺害する事件(堺事件)が発生。土佐藩士たちは殿様の治療を行うイギリス人には敵意を見せず、しかし堺事件の話でもちきりで異様な雰囲気はしたそう。

病床の容堂はウィリスの治療で持ち直し、ミットフォードに事件について誠実な謝罪、その後の対応などもきちんと話したということ。その後も両名は土佐藩邸に留まり、12日に大坂に。

2-6、ミットフォード、パークス襲撃事件で活躍

3月23日、パークス一行は明治天皇への謁見のために京都に向かったが、ここで2人の攘夷派が一行を襲撃。1人は同行の土佐の中井弘蔵と後藤象二郎が斬殺、もう1人はミットフォードが捕らえたということ。この日の謁見は中止され、3月26日に延期に。この際パークス以外のイギリス公使館員では、本国でヴィクトリア女王に拝謁の経験がある貴族のミットフォードのみが謁見を許されたが、本人は功績のあるサトウらが謁見されないと不満を述懐。

3月29日、パークスらは江戸に戻ったが、ミットフォードは1人で大坂に残留組。 来日して1年半程度で1人で業務をこなせるほど日本語が上達していたということ。ミットフォードは8月に江戸に戻り、江戸は東京と改称、明治への改元も。

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