今回はA・B・ミットフォードを取り上げるぞ。この人もイギリス外交官で幕末の日本で活躍して回想録を残してるんだって。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、イギリス外交官には特に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、A・B・ミットフォードについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ミットフォードは貴族の生まれ

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードは(A・B・ミットフォード)、天保8年(1837年)2月24日ロンドン生まれ。父はヘンリー・リブレー・ミットフォード(H・R・ミットフォード)、母のジョージアナはアッシュバーナム伯爵の娘。

ミットフォードは、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードの曾孫で、父方の祖先は地主階級(ジェントリー)、ノーサンバーランドにあるミットフォード城を所有し、シャルルマーニュ帝までさかのぼれる由緒ある家系。ヴィクトリア時代のちょっと変わった詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンは母方の従兄弟。尚、ミットフォードは後年、父のいとこの後を継いで初代リーズデイル男爵に。

1-2、ミットフォードの子供時代

「ある英国外交官の明治維新」ヒュー・コータッツィ著によれば、ミットフォードの父はイギリス外交官として一時イタリアのフィレンツェに勤務したが結婚で退職。しかしミットフォードが3歳のときの1840年に両親は離婚して母は再婚。

ミットフォード父子は、イギリスより生活費が安いとして1840年から42年までフランクフルト、ミットフォードがイートン・カレッジ入学の46年までパリで生活。
ミットフォードは、イートン・カレッジを1854年に卒業し、奨学金を得てオックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学び、次席優等学位を授与、外務省書記官に任命される推薦枠を手に入れたそう。

サトウやウィリスは外交官試験を受けていましたが、ミットフォードはイギリス外務省のいわゆるキャリア枠で、外務省と外交部門は別組織として、選別試験でなく推薦、また外交官になるためには個人収入が欠かせない条件という時代だったそう。

1-3、ミットフォード、イギリス外務省に入省

ミットフォードは1858年に外務省に入省、ダウニング街のアフリカ(奴隷貿易)局での最初の仕事は、コピーのない時代、ひたすら筆写だったといいうこと。2年後には重要できつい仕事であるフランス局に移り、やはり重要書類を筆写の日々。1863年、ミットフォードはロシアのサンクトペテルブルクのイギリス大使館三等書記官に、半年間交代で勤務。ロンドンに帰任の途中、モスクワに旅行。そしてロンドンに帰任後、トルコ帝国のコンスタンチノープルに公式文書を届ける任務を行ったりしたそう。その反面、ミットフォードは、社交界にも出入りして華やかな生活でエドワード皇太子とも親しくなったということ。

1-4、ミットフォード、中国へ

Algernon Freeman-Mitford (portrait by Samuel Lawrence).jpg
Samuel Lawrence (1817-1884) - Memoirs(英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 Memories (1916) by Lord Redesdale, パブリック・ドメイン, リンクによる

1865年のある日、外務次官がフランス局を訪れ、北京公使館に派遣する人員がいなくてという話を聞いたミットフォードは即座に志願して、2週間も経たない間に出発。北京は夏も冬も厳しい気候だったが、ミットフォードは中国語を学び、東洋美術に関心を持ったということ。

そして一年半後、日本への転任命令が来て日本へ。
尚、日本へ転勤理由について、ミットフォードは当時の北京駐在のイギリス公使だったラザフォード・オールコックの義理の娘エイミー・ラウダーと恋愛関係となったが、オールコックは社会的に不釣合いとの理由で結婚に反対、2人を引き離すためにミットフォードを日本に転勤させた説あり。ミットフォード家は美男美女の家系らしく、若いときのミットフォードはかなりイケメンっぽいし貴族だしもてもてだったかも。

2-1、ミットフォード、幕末の日本に着任

image by PIXTA / 35076155

 慶応3年(1866年)10月、29歳のミットフォードは横浜に到着し、英国公使館の二等書記官として勤務。当時英国公使館は江戸ではなく横浜だったので、ミットフォードも横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ(当時23歳)、ウィリアム・ウィリス医師(当時29歳)と隣り合って住むことに。しかし約1ヶ月後の11月26日、外国人居留地が大火事になり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移転。

ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと2人で公使館近くの門良院に部屋を借りて住んだそう。サトウとミットフォードはかなり長寿でしたが、亡くなるまで親しく付き合ったそう。
サトウによると、ミットフォードは日本語の勉強に没頭して著しい進歩を見せ、1年後には独り立ち出来るまでに。また住居の近くに泉岳寺があったため、ミットフォードはこつこつと書き溜めた話を、明治4年(1871年)に「昔の日本の物語」として出版し、赤穂浪士の物語を西洋に初めて紹介。この本はイギリスでかなり好評を博したということ。

2-2、ミットフォード、サトウと共に大坂へ派遣

慶応2年(1867年)2月、徳川慶喜が将軍に就任し、大坂城で各国公使に謁見することになり、ミットフォードはサトウと共に、その下準備のために大坂に派遣。実際は京都での政治情報の収集で、ミットフォードはこのときに明治維新でお馴染みの人物たちと出会ったということ。

そして4月29日にイギリス公使パークスは将軍慶喜と非公式会見を行い食事までご馳走になり、かなり色々話をしたそう。「英国外交官の見た明治維新」によれば、慶喜は壁にかかった絵を興味深そうに見ているパークス公使に、気に入ったのを一枚差し上げると自ら外したが、一連揃ったものを一枚もらうわけにいかないというと、「そこにあった絵が今はイギリス公使のところにあると思うと嬉しい」と言ったので、ミットフォードはいたく感動したよう。そして正式な謁見は5月2日に。イギリス外交団は大坂に約5週間滞在し、日本の実情に触れた後、サトウとワーグマンは陸路東海道珍道中、ミットフォードは海路江戸に。

\次のページで「2-3、ミットフォードとサトウ、箱館、加賀から大坂など飛び回る」を解説!/

2-3、ミットフォードとサトウ、箱館、加賀から大坂など飛び回る

「英国外交官の見た明治維新」によれば、この頃、ミットフォードに転勤の話が持ち上がったが、最も興味深い時期にこの国を離れるのは不本意で、重要な政治的事件を見逃すことになると本国に書いて送ったそう。

そして、安政の条約では新潟が開港予定地だったが、貿易港としては適さないため代替地として七尾が候補となり、ミットフォードはパークスやサトウと共に、箱館、新潟を経て、8月7日に七尾に到着。

その後パークスは長崎経由で海路大坂へ向かったが、ミットフォードとサトウは8月10日から8月22日にかけ、内陸部を通って大坂まで旅し、加賀の侍は薩摩や土佐の侍のように猛々しくなく、長州の指導者のように抜け目のない策略家でもなくのんびりしている、のろまなのは裕福だからかもと感じたり、石山寺では文字通り、門前祓いを食わされたりしたということ。そして長崎で英国イカルス号の水兵殺害事件の報告を受けたパークスは、土佐藩の関与が疑われたので、阿波経由で土佐に向かうことになったが、ミットフォードは阿波でパークスやサトウと別れて江戸に。

2-4、兵庫港開港準備に神戸へ行き、大坂で鳥羽伏見の戦いを間近で体験

 慶応4年(1868年)1月1日予定の兵庫開港の準備でミットフォードとサトウは大坂に12月3日に到着、パークスも24日に到着して兵庫は無事に開港。

そして慶応4年(1868年)1月3日の王政復古の大号令後、1月6日に慶喜は京都を離れ大坂城に。8日にパークスはミットフォード、サトウを伴って強引に慶喜に拝謁したが、1月28日に鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は敗北、1月31日には慶喜は大坂城を脱出。前日の30日には幕府は各国外交団に保護は不可能と通達したので外交団は兵庫へと移動、ミットフォードは護衛隊を引き連れて騎馬で兵庫へ。

2-5、ミットフォード、神戸事件に遭遇、切腹に立ち会い記述も

2月4日、ミットフォードらは備前岡山藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇。この事件についてミットフォードは、備前岡山兵の射撃が下手だったが殺意のある襲撃とみなしたということ。尚、この事件の責任で滝善三郎が切腹の場に、ミットフォードとサトウが立会い、自著「昔の日本の物語」の付録にこの様子を記述。
3月5日に外交団は大坂に戻ったが、7日に山内容堂の治療のためウィリスが再度京都に派遣されることとなり、ミットフォードも同行。土佐藩の屋敷に入ったが、8日、土佐藩の兵士がフランス水兵を殺害する事件(堺事件)が発生。土佐藩士たちは殿様の治療を行うイギリス人には敵意を見せず、しかし堺事件の話でもちきりで異様な雰囲気はしたそう。

病床の容堂はウィリスの治療で持ち直し、ミットフォードに事件について誠実な謝罪、その後の対応などもきちんと話したということ。その後も両名は土佐藩邸に留まり、12日に大坂に。

2-6、ミットフォード、パークス襲撃事件で活躍

3月23日、パークス一行は明治天皇への謁見のために京都に向かったが、ここで2人の攘夷派が一行を襲撃。1人は同行の土佐の中井弘蔵と後藤象二郎が斬殺、もう1人はミットフォードが捕らえたということ。この日の謁見は中止され、3月26日に延期に。この際パークス以外のイギリス公使館員では、本国でヴィクトリア女王に拝謁の経験がある貴族のミットフォードのみが謁見を許されたが、本人は功績のあるサトウらが謁見されないと不満を述懐。

3月29日、パークスらは江戸に戻ったが、ミットフォードは1人で大坂に残留組。 来日して1年半程度で1人で業務をこなせるほど日本語が上達していたということ。ミットフォードは8月に江戸に戻り、江戸は東京と改称、明治への改元も。

\次のページで「2-7、エディンバラ公来日の接待も」を解説!/

ミットフォードが語る、パークス対ロッシュ
サトウやミットフォードの上司であるハリー・パークス公使は、かなり有能な人でしたが、清国で雇われた叩き上げで、東洋人は高圧的に怒鳴れば言うことを聞くと信じていて、実際、清国ではそれが通ったが、公使館の部下たちにも自殺者が何人も出るほど怒鳴り倒す人物でした。

中国人と違い日本人には怒鳴っちゃダメとサトウらが言い聞かせたりしたことも多く、サトウの回想録では後藤象二郎に、パークス公使はあんなに怒鳴っちゃいかんぜよと言われ、サトウが「私からとても言えないので、あなたから公使に言ってください」というシーンもあるほど。

こういう性格のパークス公使は、駐日フランス公使レオン・ロッシェとライバル同士で火花を散らしていたのですが、「英国外交官の見た幕末維新」には、ある日,パークスは突然,私の部屋に旋風のようにやってきたが、いつもの興奮したときの癖で、彼の明るい赤い髪の毛は根元から逆立っていた。「ロッシュのやつめが、私になんて言ったと思う?将軍の軍隊の訓練のためにフランス本国から陸軍教官団を呼ぶつもりだというんだ。構うことはない。絶対に彼に対抗してみせる。こちらは海軍教官団を呼ぼう」ということで、その後の明治になって以後、日本の陸軍は最初はフランス式で後にドイツ式となり、海軍はイギリス式に。どこの国でも海軍と陸軍とかはライバル意識が強いものですが、日本は特にその傾向が強かった遠因はパークス対ロッシェというわけかも。

2-7、エディンバラ公来日の接待も

明治2年(1869年)9月4日、ヴィクトリア女王の次男のエディンバラ公アルフレート王子が来日したが、ミットフォードはエディンバラ公の宿舎となった浜離宮に約1ヶ月住みこみで準備。エディンバラ公が天皇に謁見した際には、通訳を。その後はオーストリア外交使節一行をサポート。

明治3年(1870年)1月1日に日本を離任する際、疲れ切ったミットフォードは、大男のウィリスに船に担ぎ込んでもらったということ。

尚、ついでに言えば明治14年(1881年)10月には、海軍軍艦での世界周遊の途中でヴィクトリア女王の孫でエドワード7世の息子たちであるアルバート・ヴィクター王子と弟のジョージ王子(ジョージ5世)が来日、当時流行していたタトゥーを入れたという話も。

3、帰国後のミットフォード、貴族の後を継ぐ

「ある英国外交官の明治維新」によれば、1870年に帰国し一年の賜暇を与えられたミットフォードは、エドワード皇太子が創設した社交クラブのマルボロ―クラブの会員に推薦され、エドワード皇太子と親しくなり、バルモラル城に招待されてヴィクトリア女王の夕食会に招かれたりと社交生活を。

翌年、外務大臣が北京公使館にミットフォードを派遣しようとしたが、外務次官がミットフォードは健康が回復したかわからないうえに、皇太子が目をかけているからだめかもと助言したそう。そしてミットフォードはその後、サンクトペテルブルクへの勤務を命じられたが、これを断って休職、1873年に正式に外務省を辞職。その後、友人の「アラビアンナイト」の翻訳者でダマスカス領事リチャード・バートンとダマスカスへ旅行したり、イタリアへガリバルディを訪ねたりと旅行に出かけ、1874年にアメリカ経由で再来日もしたということ。

ミットフォードは1872年には財務省工務局 に副長官として入局し、1874年から1886年まで公共事業省の長官を務め、国内王室不動産や在外公館の営繕の指揮を執ることに。この間、ロンドン塔の修復、ハイド・パークの造園などに関わったということ。

1874年、ミットフォードはエアリー伯爵の3女クレメンティナ・ガートルード・ヘレンと結婚。5人の息子と4人の娘が誕生。5男の名はアーネスト。

1886年、父の従兄弟のリーズデイル伯爵ジョン・フリーマン=ミットフォードが後継ぎなしで亡くなったことで、ミットフォードはその遺産とフリーマンの名前も引き継ぐことに。1880年12月、外務卿で旧知の井上馨の指示で、首都官庁集中計画にふさわしい建築家を探していた駐英公使園田孝吉はミットフォードを訪ねて、建築家の推薦を相談。1887年には英国行政委員会のメンバーに。1892年~1895年、 ストラフォード・オン・エイヴォン選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を、1902年、連合王国貴族爵位リーズデイル男爵に叙され、貴族院議員に

4-1、ミットフォード、ガーター勲章使節で再来日

Prince Arthur of Connaught Offering the Order of the Garter to the Emperor Meiji.jpg
unknown Japanese artist - British Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治35年(1902年)に日英同盟が締結、また明治36年(1904年)の日露戦争での日本の勝利を讃えるために、明治39年(1906年)2月、エドワード7世の弟であるコンノート公アーサー王子が、明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日、ミットフォードは首席随行員として再来日。

ミットフォードが知っている明治維新で活躍した元勲たちはほとんどが亡くなっていたが、徳川慶喜公爵と再会して話しかけると思い出して、名前が変わったと驚かれたとか、井上馨侯爵に勲章を授与するために訪問して時間を忘れて思い出話をしたとか、大名行列の再現されたときには、あなたは本物を見たけど同じでしょうかと聞かれたりしたそう。そして昔の御簾の中の存在だったことを知っているだけに、国賓のために新橋の駅で明治天皇が出迎えられたのになにより驚愕したということ。

4-2、ミットフォード、旧友たちのお墓詣りにも

image by PIXTA / 6650336

一行は約1か月日本に滞在し、東京だけでなく京都や神戸、鹿児島も訪問、広島では江田島の海軍兵学校なども見学、ミットフォードはあと1か月遅ければ桜が満開なのに、雨が多くて日本の印象が悪くならないかといいつつ、40年前とすっかり変わった日本の昔を懐かしみ、後藤象二郎や岩倉具視や木戸孝允、西郷隆盛、パークス襲撃事件で守ってくれた中井弘蔵のお墓参りにも。また、ミットフォードは勲一等旭日大綬章を授章。

尚、ガーター勲章はイギリス最高の勲章で、外国人ではイギリスと同盟のある国の元首が授与されるのですが、第二次世界大戦ではく奪後、再び昭和天皇に授与されたが、一度はく奪され再授与された唯一の例だそう。

4-3、ミットフォードの晩年

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Hideo Izumida - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ミットフォードはグロスターシャー州バッツフォードの屋敷を相続して、主屋をヴィクトリアン・ゴシック調に改造したり、庭園に大好きな紅葉や竹を植えて禅宗風に作り直したということ。1916年8月17日、79歳で死去。

5-1、ミットフォードの逸話

ミットフォードは日本でも隠し子がいたという話がありますが、ちょっとした逸話をご紹介しますね。

5-2、ミットフォードの醜聞

ミットフォードは、エドワード皇太子、後のエドワード7世と親友だったとか、上流階級の人間で政府関係者でもあったミットフォードの名前はヴィクトリア女王の伝記にも登場し、他のことを調べていても登場。

そのなかでは、有名なウィンストン・チャーチル夫人のクレメンタイン・オギルヴィ・スペンサー=チャーチルについての話もあり。チャーチル夫人はミットフォード夫人の姉の娘であるのですが、チャーチル夫人の母は法的には父ヘンリー・モンタギュー・ホージアーと、母レディ・ブランチ・ホージアーでデイヴィッド・オギルヴィ( 第10代エアリー伯爵の長女)の間に生まれたとされているが、母がかなり素行に問題がある人だったようで、実父が誰なのか議論されているということ(イギリスの貴族では時々ある話ですが)。色々な実父説の中に、母の姉の夫であるミットフォードがチャーチル夫人の実父ではと推測する伝記作家も。

5-3、孫娘たちがミットフォード姉妹として有名

イギリスで、20世紀前半の上流階級のアイコン的存在として有名なミットフォード姉妹は、A・B・ミットフォードの次男でリーズデイル卿を継いだデービッドの娘たち6人姉妹のこと。それぞれ作家、ファシスト、コミュニスト、公爵夫人など多彩な波乱万丈の人生を送り社交界をにぎわせたということで、イギリスでは姉妹に関する数多くの書籍が出版され、多数の映像化も。

姉妹の名前は、ナンシー、パメラ、ダイアナ、ユニティ、ジェシカ、デボラ。またパメラの下にトーマス。
ヒュー・コータッツィ著の「英国外交官の明治維新」では、祖父ミットフォードの回想録を孫娘ジェシカは自著の序文で「うんざりするほど膨大な自叙伝」と感想を。

サトウ、ウィリス、ミットフォードは幕末のイギリス三銃士のよう

A・B・ミットフォードは、幕末に来日し、アーネスト・サトウらと共に活躍した有能なイギリス外交官のひとり。文筆家でもあるので回顧録などで幕末の様子を書き残し、小泉八雲以前に日本の昔話を本にまとめたりも。

そして約40年ぶりに、明治天皇へのガーター勲章授与のために首席随行員で再来日、明治天皇以下の華々しい歓迎を受け3年余りとはいえ激動の時代を体験した場所も再訪して懐かしんだことを詳しく残し、お墓参りもした義理堅い方。

それにしてもこのガーター勲章授与の来日は、日英同盟で日本でも結構盛り上がっていたようなので、こういうときにアーネスト・サトウが駐日大使であればよかったのにと、わずか5年前にサトウは駐日公使を退任したのはいまさらながら残念。でも、そういうところが萩原延寿氏によれば「華やかなアマ」と「地道なプロ」の趣があるふたりらしいような気も。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

サトウと共に幕末に活躍した「ミットフォード」このイギリス外交官について歴女がわかりやすく解説

今回はA・B・ミットフォードを取り上げるぞ。この人もイギリス外交官で幕末の日本で活躍して回想録を残してるんだって。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、イギリス外交官には特に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、A・B・ミットフォードについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ミットフォードは貴族の生まれ

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードは(A・B・ミットフォード)、天保8年(1837年)2月24日ロンドン生まれ。父はヘンリー・リブレー・ミットフォード(H・R・ミットフォード)、母のジョージアナはアッシュバーナム伯爵の娘。

ミットフォードは、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードの曾孫で、父方の祖先は地主階級(ジェントリー)、ノーサンバーランドにあるミットフォード城を所有し、シャルルマーニュ帝までさかのぼれる由緒ある家系。ヴィクトリア時代のちょっと変わった詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンは母方の従兄弟。尚、ミットフォードは後年、父のいとこの後を継いで初代リーズデイル男爵に。

1-2、ミットフォードの子供時代

「ある英国外交官の明治維新」ヒュー・コータッツィ著によれば、ミットフォードの父はイギリス外交官として一時イタリアのフィレンツェに勤務したが結婚で退職。しかしミットフォードが3歳のときの1840年に両親は離婚して母は再婚。

ミットフォード父子は、イギリスより生活費が安いとして1840年から42年までフランクフルト、ミットフォードがイートン・カレッジ入学の46年までパリで生活。
ミットフォードは、イートン・カレッジを1854年に卒業し、奨学金を得てオックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学び、次席優等学位を授与、外務省書記官に任命される推薦枠を手に入れたそう。

サトウやウィリスは外交官試験を受けていましたが、ミットフォードはイギリス外務省のいわゆるキャリア枠で、外務省と外交部門は別組織として、選別試験でなく推薦、また外交官になるためには個人収入が欠かせない条件という時代だったそう。

1-3、ミットフォード、イギリス外務省に入省

ミットフォードは1858年に外務省に入省、ダウニング街のアフリカ(奴隷貿易)局での最初の仕事は、コピーのない時代、ひたすら筆写だったといいうこと。2年後には重要できつい仕事であるフランス局に移り、やはり重要書類を筆写の日々。1863年、ミットフォードはロシアのサンクトペテルブルクのイギリス大使館三等書記官に、半年間交代で勤務。ロンドンに帰任の途中、モスクワに旅行。そしてロンドンに帰任後、トルコ帝国のコンスタンチノープルに公式文書を届ける任務を行ったりしたそう。その反面、ミットフォードは、社交界にも出入りして華やかな生活でエドワード皇太子とも親しくなったということ。

1-4、ミットフォード、中国へ

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Samuel Lawrence (1817-1884) – Memoirs(英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 Memories (1916) by Lord Redesdale, パブリック・ドメイン, リンクによる

1865年のある日、外務次官がフランス局を訪れ、北京公使館に派遣する人員がいなくてという話を聞いたミットフォードは即座に志願して、2週間も経たない間に出発。北京は夏も冬も厳しい気候だったが、ミットフォードは中国語を学び、東洋美術に関心を持ったということ。

そして一年半後、日本への転任命令が来て日本へ。
尚、日本へ転勤理由について、ミットフォードは当時の北京駐在のイギリス公使だったラザフォード・オールコックの義理の娘エイミー・ラウダーと恋愛関係となったが、オールコックは社会的に不釣合いとの理由で結婚に反対、2人を引き離すためにミットフォードを日本に転勤させた説あり。ミットフォード家は美男美女の家系らしく、若いときのミットフォードはかなりイケメンっぽいし貴族だしもてもてだったかも。

2-1、ミットフォード、幕末の日本に着任

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 慶応3年(1866年)10月、29歳のミットフォードは横浜に到着し、英国公使館の二等書記官として勤務。当時英国公使館は江戸ではなく横浜だったので、ミットフォードも横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ(当時23歳)、ウィリアム・ウィリス医師(当時29歳)と隣り合って住むことに。しかし約1ヶ月後の11月26日、外国人居留地が大火事になり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移転。

ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと2人で公使館近くの門良院に部屋を借りて住んだそう。サトウとミットフォードはかなり長寿でしたが、亡くなるまで親しく付き合ったそう。
サトウによると、ミットフォードは日本語の勉強に没頭して著しい進歩を見せ、1年後には独り立ち出来るまでに。また住居の近くに泉岳寺があったため、ミットフォードはこつこつと書き溜めた話を、明治4年(1871年)に「昔の日本の物語」として出版し、赤穂浪士の物語を西洋に初めて紹介。この本はイギリスでかなり好評を博したということ。

2-2、ミットフォード、サトウと共に大坂へ派遣

慶応2年(1867年)2月、徳川慶喜が将軍に就任し、大坂城で各国公使に謁見することになり、ミットフォードはサトウと共に、その下準備のために大坂に派遣。実際は京都での政治情報の収集で、ミットフォードはこのときに明治維新でお馴染みの人物たちと出会ったということ。

そして4月29日にイギリス公使パークスは将軍慶喜と非公式会見を行い食事までご馳走になり、かなり色々話をしたそう。「英国外交官の見た明治維新」によれば、慶喜は壁にかかった絵を興味深そうに見ているパークス公使に、気に入ったのを一枚差し上げると自ら外したが、一連揃ったものを一枚もらうわけにいかないというと、「そこにあった絵が今はイギリス公使のところにあると思うと嬉しい」と言ったので、ミットフォードはいたく感動したよう。そして正式な謁見は5月2日に。イギリス外交団は大坂に約5週間滞在し、日本の実情に触れた後、サトウとワーグマンは陸路東海道珍道中、ミットフォードは海路江戸に。

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