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サトウと共に幕末に活躍した「ミットフォード」このイギリス外交官について歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回はA・B・ミットフォードを取り上げるぞ。この人もイギリス外交官で幕末の日本で活躍して回想録を残してるんだって。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、イギリス外交官には特に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、A・B・ミットフォードについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ミットフォードは貴族の生まれ

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードは(A・B・ミットフォード)、天保8年(1837年)2月24日ロンドン生まれ。父はヘンリー・リブレー・ミットフォード(H・R・ミットフォード)、母のジョージアナはアッシュバーナム伯爵の娘。

ミットフォードは、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードの曾孫で、父方の祖先は地主階級(ジェントリー)、ノーサンバーランドにあるミットフォード城を所有し、シャルルマーニュ帝までさかのぼれる由緒ある家系。ヴィクトリア時代のちょっと変わった詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンは母方の従兄弟。尚、ミットフォードは後年、父のいとこの後を継いで初代リーズデイル男爵に。

1-2、ミットフォードの子供時代

「ある英国外交官の明治維新」ヒュー・コータッツィ著によれば、ミットフォードの父はイギリス外交官として一時イタリアのフィレンツェに勤務したが結婚で退職。しかしミットフォードが3歳のときの1840年に両親は離婚して母は再婚。

ミットフォード父子は、イギリスより生活費が安いとして1840年から42年までフランクフルト、ミットフォードがイートン・カレッジ入学の46年までパリで生活。
ミットフォードは、イートン・カレッジを1854年に卒業し、奨学金を得てオックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学び、次席優等学位を授与、外務省書記官に任命される推薦枠を手に入れたそう。

サトウやウィリスは外交官試験を受けていましたが、ミットフォードはイギリス外務省のいわゆるキャリア枠で、外務省と外交部門は別組織として、選別試験でなく推薦、また外交官になるためには個人収入が欠かせない条件という時代だったそう。

1-3、ミットフォード、イギリス外務省に入省

ミットフォードは1858年に外務省に入省、ダウニング街のアフリカ(奴隷貿易)局での最初の仕事は、コピーのない時代、ひたすら筆写だったといいうこと。2年後には重要できつい仕事であるフランス局に移り、やはり重要書類を筆写の日々。1863年、ミットフォードはロシアのサンクトペテルブルクのイギリス大使館三等書記官に、半年間交代で勤務。ロンドンに帰任の途中、モスクワに旅行。そしてロンドンに帰任後、トルコ帝国のコンスタンチノープルに公式文書を届ける任務を行ったりしたそう。その反面、ミットフォードは、社交界にも出入りして華やかな生活でエドワード皇太子とも親しくなったということ。

1-4、ミットフォード、中国へ

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Samuel Lawrence (1817-1884) – Memoirs(英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 Memories (1916) by Lord Redesdale, パブリック・ドメイン, リンクによる

1865年のある日、外務次官がフランス局を訪れ、北京公使館に派遣する人員がいなくてという話を聞いたミットフォードは即座に志願して、2週間も経たない間に出発。北京は夏も冬も厳しい気候だったが、ミットフォードは中国語を学び、東洋美術に関心を持ったということ。

そして一年半後、日本への転任命令が来て日本へ。
尚、日本へ転勤理由について、ミットフォードは当時の北京駐在のイギリス公使だったラザフォード・オールコックの義理の娘エイミー・ラウダーと恋愛関係となったが、オールコックは社会的に不釣合いとの理由で結婚に反対、2人を引き離すためにミットフォードを日本に転勤させた説あり。ミットフォード家は美男美女の家系らしく、若いときのミットフォードはかなりイケメンっぽいし貴族だしもてもてだったかも。

2-1、ミットフォード、幕末の日本に着任

image by PIXTA / 35076155

 慶応3年(1866年)10月、29歳のミットフォードは横浜に到着し、英国公使館の二等書記官として勤務。当時英国公使館は江戸ではなく横浜だったので、ミットフォードも横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ(当時23歳)、ウィリアム・ウィリス医師(当時29歳)と隣り合って住むことに。しかし約1ヶ月後の11月26日、外国人居留地が大火事になり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移転。

ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと2人で公使館近くの門良院に部屋を借りて住んだそう。サトウとミットフォードはかなり長寿でしたが、亡くなるまで親しく付き合ったそう。
サトウによると、ミットフォードは日本語の勉強に没頭して著しい進歩を見せ、1年後には独り立ち出来るまでに。また住居の近くに泉岳寺があったため、ミットフォードはこつこつと書き溜めた話を、明治4年(1871年)に「昔の日本の物語」として出版し、赤穂浪士の物語を西洋に初めて紹介。この本はイギリスでかなり好評を博したということ。

2-2、ミットフォード、サトウと共に大坂へ派遣

慶応2年(1867年)2月、徳川慶喜が将軍に就任し、大坂城で各国公使に謁見することになり、ミットフォードはサトウと共に、その下準備のために大坂に派遣。実際は京都での政治情報の収集で、ミットフォードはこのときに明治維新でお馴染みの人物たちと出会ったということ。

そして4月29日にイギリス公使パークスは将軍慶喜と非公式会見を行い食事までご馳走になり、かなり色々話をしたそう。「英国外交官の見た明治維新」によれば、慶喜は壁にかかった絵を興味深そうに見ているパークス公使に、気に入ったのを一枚差し上げると自ら外したが、一連揃ったものを一枚もらうわけにいかないというと、「そこにあった絵が今はイギリス公使のところにあると思うと嬉しい」と言ったので、ミットフォードはいたく感動したよう。そして正式な謁見は5月2日に。イギリス外交団は大坂に約5週間滞在し、日本の実情に触れた後、サトウとワーグマンは陸路東海道珍道中、ミットフォードは海路江戸に。

\次のページで「2-3、ミットフォードとサトウ、箱館、加賀から大坂など飛び回る」を解説!/

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