今日は楽市楽座について勉強していきます。

戦国時代の末期となる安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉らは経済政策として楽市楽座を行い、商工業者を育成しながら経済の活性化を図ろうとした。

最も、こうした一言での説明は難しくないが、政策の具体的な意図や狙いは分かりづらいでしょう。そこで、今回は楽市楽座について分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から楽市楽座をわかりやすくまとめた。

楽市楽座の「市」と「座」とは

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楽市楽座の「市」

楽市楽座は、商売をするためにかかる税金を免除して、一部の商工業者団体だけが持つ特権を廃止することです。「商売をするためにかかる税金を免除する=楽市」「一部の商工業者団体だけが持つ特権を廃止する=楽座」、すなわち楽市楽座と呼びます。

これによって誰もが自由かつ気軽に商売できるようになり、そうすれば新たな商工業者を育成しつつ経済も活性化することができ、それこそが楽市楽座の狙いでもありました。ちなみに「市」とは市場のことで、鎌倉時代に入った頃から日本では農産物や手工業品が取引されるようになります。

最も、律令制の日本では都の東西に市を置くようになっており、決まった場所以外で市を開くことは禁止、常に管理された状態でした。それでも市は次第に人々の集まる周辺で定期的に開かれるようになっていきます。江戸時代になると競りや入札での競売も行われるようになり、例えば江戸日本橋の魚市場は卸売市場へと発展したのです。

楽市楽座の「座」

次に「座」ですが、座とは朝廷、有力な公家、寺院などから保護された商工業者の団体で、お金を支払う見返りとして商品の販売や営業を独占する権利を与えられていました。商業が発達して各地で定期市が開かれるのが一般的になった頃、各地では様々な特産品が生産されるようになります。

紙、酒、油、陶器、中でも京都の西陣博多の絹織物はその中でも特に有名で、刀や農具を造る鍛冶や鋳物(いもの)も盛んに行われ、高い技術を持つ人々が増えていきました。こうした人々はやがて職人と呼ばれるようになり、そして職人達が同業者の団体となる座を作っていったのです。

座には様々な類の団体があり、人数も数十人程度のものから数百人以上にもなる大規模なものまで、実に多くの種類が存在していたようですね。現代で例えるなら、組合に相当するものと考えるとイメージしやすいのではないでしょうか。また、座には特権がある一方で弊害もあり、いわば一長一短のものだったと言えます。

「座」の弊害と楽市楽座の経済効果

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「座」の弊害

座は、所属する荘園を管理する本所と呼ばれる公家や寺院に、お金を納めて特権を与えられます。このお金は座役とも呼びますね。そして、与えられる特権とはその本所が支配する地域における原材料の調達、製品販売の独占権、関所を通る際の関銭の免除、商売する際の税金の免除などです

まとめると、「商売する商品の独占権を得られ、商売においてかかる費用が免除される」というのが座の特権と言えるでしょう。芸能団体においても、その芸の興行の独占権や税の免除などもあったと言われていますが、代わりに地域内の神事に奉仕しなければならない約束がありました。

ただ、これだけ座の特権があると座に属さない団体にとってはそれが大きな弊害となります。本来の市場の魅力でもある自由な交易ができなくなりますし、価格統制なども行われるようになったため、座に属さない団体からすれば座の特権は有利ではなく不利になる要因だったでしょう。

楽市楽座の経済効果

さて、楽市楽座の意味を今一度確認すると、「商売をするためにかかる税金を免除して、一部の商工業者団体だけが持つ特権を廃止すること」です。この楽市楽座がどのような経済効果をもたらすのか?……それは現代の商売に例えて考えると分かりやすいでしょう。

例えばお店を開くとして、出店料が高ければ当然出店するお店は少なく、そうなれば販売される商品の量も種類も少なくなりますね。しかも特定のお店だけ出店料が無料だとしたら、「なぜあのお店だけ無料で出店できるのか?」と苦情が殺到するでしょう。

しかし、楽市楽座によってお店の出店料がかからず、商売したい人が自由に出店できるようになりますし、特定のお店だけの特権を廃止すれば、新規参入した商人も商売が成り立ちます。そうすれば商業が活性化して国が活気づく……これが楽市楽座の経済効果であり、狙いでもあったのです。

織田信長による楽市楽座

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楽市楽座の始まりは1549年だった

では、ここから実際に政治・経済政策として行った楽市楽座を見ていきましょう。楽市楽座は織田信長の行った政治政策ですが、ただ初めてそれが行われたわけではなく、その始まりは1549年に近江国の大名・六角定頼(ろっかくさだより)が観音寺城の城下町にて楽市令を発布したことだとされています。

しかし、これについては詳細が一切不明であり、ただ記録の上で「楽市」の言葉が記されていました。さらにその後の1566年には、今川氏真(いまがわうじざね)が「富士大宮楽市」を発令しており、これもまた楽市令の事例の一つとされているのです。

最も、六角定頼や今川氏真の楽市令がどのようなもので、またどのような経済効果をもたらしたのかは定かではありません。しかし、1568年に織田信長が行った楽市令は以前行われたこれらの楽市令を参考にしたものだとされており、織田信長が全て考案したわけではないのが事実です。

商業の発展と城下町の繁栄

1568年、織田信長は楽市楽座を行い、城内の人々が自由に取引や商売できるようになった結果、織田信長の狙いどおり城下が賑わって人々が集まるようになります。かつて経済活動を行えたのは一部の限られた人だけであり、それは商品の独占販売権などの特権を持つ商工業者のみでした。

このため、せっかく経済効果をもたらしてもその利益は特定の団体・組織に独占され、織田信長をはじめとした日本各地の大名達はこうした特権……すなわち座の排除を考えます。そして、誰もが自由に取引・商売できるよう楽市楽座を行い、新たな商工業者を育成する環境も整えました。

また、楽市楽座を行うまでは取引・商売の場所が管理の下に指定されていましたが、その規制の緩和も行い、場所問わず商売を行えるようにしたのです。こうして、織田信長の楽市楽座は商業の発展と城下町の繁栄という、経済においてそれは大きな効果をもたらしたのでした。

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楽市楽座の欠点と関所の撤廃

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楽市楽座の欠点

経済政策として成果を得た織田信長の楽市楽座ですが、一方で欠点があったことも事実でしょう。確かに、楽市楽座によって領国内の経済は活性化しましたが、何事にも抜け道があるもので、領主が商人と関係を深め、その商人が領主の御用商人になってしまいます。そして、それによって市場の支配権を得ることができたのです。

まさにこれは抜け道、本来楽市楽座は独占販売権などの特権を持つ座の排除を目的に行われたものですが、領主と御用商人が関連することはこれまでの座に等しく、やはり特定の人が市場の支配権を得る問題が起こってしまいました。このため、新たに商売に参加した商人の中には、依然商売が成り立たなかった例もあったかもしれませんね。

とは言え、楽市楽座による経済効果は大きく、そのため織田信長だけでなく豊臣秀吉やその支配下の大名達にもそれは伝えられ、各城の城下町において楽市楽座が行われるようになりました。つまり、楽市楽座は豊臣秀吉も行っているということになります。

織田信長のさらなる政策・関所の撤廃

織田信長が行った経済政策は楽市楽座だけではありません。流通を活性化させるため不要な関所の撤廃を行い、至る場所において交通の自由化を図りました。これまでは日本の各地に関所が設置してあり、通行の際には通行料を支払わなければなりません。

最も、その通行料は貴重な財源となるのですが、通行料が発生する以上通行を控える人も少なくなく、そのため流通が鈍くなっていたのです。そこで織田信長は流通の活性化を目的として関所を撤廃、これについては楽市楽座と違って織田信長しか行っていない政策になります。

また、同時に道路の整備も命じており、負担もなく交通も便利にすることで人々が行き来しやすく、それもまた経済効果や城下町の繁栄につながったのでしょう。戦国大名ゆえに戦いのみに長けた人物に思われがちですが、実は政治政策においても能力を発揮していたのです。

織田信長の政治能力の高さ

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家柄や血筋を考慮しない実力主義

織田信長の政治能力の高さは、楽市楽座や関所の撤廃以外の部分からも伺えます。例えば、従来家臣の待遇は家柄や血筋が重要視されており、その点を考慮して領地や褒美を与えるのが常識でした。しかし、織田信長の場合はそれとは違い、現代の表現を使うなら「実力主義・成果主義」といったところで評価しています。

いくら家臣として長く仕える者でも能力が低ければ領地が失われ、一方で成果を上げた者には例え身分が低くても充分な褒美を与えました。そのため、織田信長の信頼する家臣は誰もが有能だったとされています。また、兵農分離も織田信長が評価された政策の一つでしょう。

戦国時代、戦いに参加していたのは武士だけではなく農民や百姓も含まれており、実はこれが大きな問題でもありました。そもそも、農民や百姓の仕事は米などの作物を育てて収穫することであり、それができなければ国の収入は失われてしまいます。とは言え、戦いは無視できず、ではどうすれば良いのかという問題です。

武士と農民の役割分担を徹底させた兵農分離

織田信長は大胆にも武士と農民を完全に分け、武士は戦い、農民や百姓は農業だけを行うべきと考えます。そこで行った政策が兵農分離であり、文字どおり武士と農民の役割分担を徹底させたのです。それは農業を安定させるだけでなく、軍事力を高める効果ももたらしました。

何しろ、兵農分離によって武士は農業を一切する必要はなく、全ての時間を訓練に費やせるようになったのですからね。それと同時に、武士はいつでも戦える準備を整えておけたため、織田信長の望んだタイミングで挙兵できるようになりました。この兵農分離は豊臣秀吉も本格的に行っており、江戸時代の幕藩体制における基本階級としても成り立ちました。

さらに、自身の城となる安土城においても斬新な政策が行われています。1579年に完成した安土城は当時一般の人にも公開されており拝観料を支払って城内を案内することもなされていて、いずれも織田信長ならではの斬新かつ合理的な政策がいくつも行われているのです。

織田信長の政治政策として覚えるなら、兵農分離と関所の撤廃も覚えよう

単に楽市楽座を詳しく知るだけなら、市や座の意味、楽市楽座を行う前と行った後の違い、経済効果などを覚えておけば充分でしょう。しかし、織田信長の政治政策として覚えるなら、楽市楽座だけでは知識として不充分です。

兵農分離、関所の撤廃も織田信長の政治政策に含まれますし、特に関所の撤廃は日本の歴史において織田信長しか行っていない政策になります。つまり、織田信長の政治政策として覚えるなら、楽市楽座だけでなく兵農分離や関所の撤廃も覚える必要があるでしょう。

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日本史歴史江戸時代

経済活性化に成功した織田信長の一手!「楽市楽座」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は楽市楽座について勉強していきます。

戦国時代の末期となる安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉らは経済政策として楽市楽座を行い、商工業者を育成しながら経済の活性化を図ろうとした。

最も、こうした一言での説明は難しくないが、政策の具体的な意図や狙いは分かりづらいでしょう。そこで、今回は楽市楽座について分かりやすく日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から楽市楽座をわかりやすくまとめた。

楽市楽座の「市」と「座」とは

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楽市楽座の「市」

楽市楽座は、商売をするためにかかる税金を免除して、一部の商工業者団体だけが持つ特権を廃止することです。「商売をするためにかかる税金を免除する=楽市」「一部の商工業者団体だけが持つ特権を廃止する=楽座」、すなわち楽市楽座と呼びます。

これによって誰もが自由かつ気軽に商売できるようになり、そうすれば新たな商工業者を育成しつつ経済も活性化することができ、それこそが楽市楽座の狙いでもありました。ちなみに「市」とは市場のことで、鎌倉時代に入った頃から日本では農産物や手工業品が取引されるようになります。

最も、律令制の日本では都の東西に市を置くようになっており、決まった場所以外で市を開くことは禁止、常に管理された状態でした。それでも市は次第に人々の集まる周辺で定期的に開かれるようになっていきます。江戸時代になると競りや入札での競売も行われるようになり、例えば江戸日本橋の魚市場は卸売市場へと発展したのです。

楽市楽座の「座」

次に「座」ですが、座とは朝廷、有力な公家、寺院などから保護された商工業者の団体で、お金を支払う見返りとして商品の販売や営業を独占する権利を与えられていました。商業が発達して各地で定期市が開かれるのが一般的になった頃、各地では様々な特産品が生産されるようになります。

紙、酒、油、陶器、中でも京都の西陣博多の絹織物はその中でも特に有名で、刀や農具を造る鍛冶や鋳物(いもの)も盛んに行われ、高い技術を持つ人々が増えていきました。こうした人々はやがて職人と呼ばれるようになり、そして職人達が同業者の団体となる座を作っていったのです。

座には様々な類の団体があり、人数も数十人程度のものから数百人以上にもなる大規模なものまで、実に多くの種類が存在していたようですね。現代で例えるなら、組合に相当するものと考えるとイメージしやすいのではないでしょうか。また、座には特権がある一方で弊害もあり、いわば一長一短のものだったと言えます。

「座」の弊害と楽市楽座の経済効果

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