今日は楠木正成(くすのきまさしげ)について勉強していきます。

鎌倉幕府滅亡と言えば、その中心人物は後醍醐天皇や足利尊氏を想像するでしょうが、楠木正成もまた忘れてはならない人物です。

共に戦った仲間とやがて敵対し、最後には敗れてこの世を去る……そんな彼の生きざまはまるで映画や小説のようです。そこで、今回は楠木正成について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から楠木正成をわかりやすくまとめた。

鎌倉時代末期の日本

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元寇が招いた鎌倉幕府への不満

楠木正成の一生を振り返ってみるものの、実は出身地も誕生した年も明らかになっておらず、かろうじて推測されているのが「母が橘遠保の末裔・橘盛仲の娘」、「父が河内国の土豪・楠木正遠」という点です。最も、あくまで推測ですから事実というより一説として捉えた方が良いでしょう。

そんな謎多き人物である楠木正成の名前が登場したのは鎌倉時代後期の頃、源氏が開いた鎌倉幕府もその頃は執権・北条氏が権限を握っていました。1221年の承久の乱で朝廷に勝利して以降、北条氏は執権政治を行って日本の全国を支配するまでに至ります。

しかし、多くの武士が幕府に大きな不満を抱く事件が起き、それが1274年の文永の役と1281年の弘安の役……すなわち元寇です。当時日本の戦いは勝者が敗者の領地を奪うのが常識で、それで御恩と奉公を成立させていました。ところが、元寇で戦った相手はモンゴル帝国、領地を奪うことはできず、御恩と奉公が成立しない戦いになってしまったのです。

悪党を征伐する楠木正成

元寇は日本を守るための戦いであり、領地やお金を奪う戦いではありません。つまり、武士は命を懸けて戦っても一銭の利益にもならず、むしろ戦いに費用がかかることで貧困に喘ぐようになりました。そのため、武士は幕府に対して次第に反発するようになっていきます。

この状況に危機感を持った幕府は、徳政令による借金免除を打ち出して武士の不満を解消しようとしました。ただ、今度はお金を貸した商人からの不満を招き、やがて強盗や略奪を行うようになる彼らは悪党と呼ばれるようになります。そんな悪党を征伐していたのが、幕府に従う武士・楠木正成でした。

1322年、楠木正成は幕府の命令で北条氏に反発する悪党征伐を行います。大和国の名族である越智氏は反乱を起こしており、北条氏はこれを鎮めようとしますが失敗、そこで北条氏は楠木正成に越智氏征伐を命令、楠木正成は見事その命令を果たして越智氏を打ち破ったのです

後醍醐天皇の倒幕計画

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\次のページで「幕府も恐れる楠木正成の軍事力」を解説!/

幕府も恐れる楠木正成の軍事力

北条氏が送った軍でも征伐できなかった越智氏を征伐した楠木正成、それは幕府にとって頼れる存在である一方、怖れる存在でもありました。「次々と反乱が起こる中、楠木正成ほどの武士が反乱を起こしたとしたら?」……北条氏は心の中でそんな不安を抱えていたのです。

そんな中、これまで幕府に権力を握られていた朝廷に動きがあり、幕府を倒してかつてのように天皇中心を国家を作ろうと計画する人物がいました。その人物とは後醍醐天皇で、皇位継承にまで関わろうとしてくる幕府に我慢ならず、密かに討幕計画を立てていたのです

こうして起きた1324年の正中の変、ただ密かに進めてきた討幕計画は幕府に洩れてしまって倒幕は失敗に終わります。側近の日野資朝の処刑によって事態は収まったかのように思われましたが、処分されることのなかった後醍醐天皇は未だ討幕を諦めていませんでした

反旗を翻した楠木正成

1331年の元弘の変、再び討幕計画を立てる後醍醐天皇でしたが、またも計画が幕府に洩れてしまいます。二度もの討幕計画発覚が許されるはずがなく、処罰を怖れた後醍醐天皇は逃亡しますが、ここで後醍醐天皇が味方に引き入れようと目をつけたのが楠木正成でした。

そこで使者を送って楠木正成を説得、一方の楠木正成はこれに感激したとされており、なぜなら天皇から直接依頼されるなど一生の名誉に等しいことだったからです。いくら幕府が日本を支配していても、人々にとって天皇が神の存在であることは変わりなかったのでしょう。

楠木正成は後醍醐天皇のために挙兵、当の後醍醐天皇は捕まって島流しにされてしまいますが、自分の力を求めてきた後醍醐天皇の「打倒幕府」の意志を胸に戦い続けます。そんな楠木正成の早速の本領発揮となったのは1331年の赤坂城の戦いでした。

鎌倉幕府の滅亡と新時代の始まり

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楠木正成の本領発揮

1331年の赤坂城の戦い、わずか数百人の兵力しかない楠木正成でしたが、幕府は合戦と戦術に長けた彼の強さを充分知っていたため、数万規模の兵力で赤坂城の楠木正成征伐を目指します。案の定、楠木正成は大木を投げ落とすなどの奇策で幕府軍を翻弄、これだけの兵力差がありながら楠木正成を倒すことができません。

経過すること数ヶ月、さすがにこれ以上の籠城は不利と悟った楠木正成は、自ら赤坂城に火を放ちました。こうして赤坂城を奪った幕府、焼けた城からは多くの焼死体が発見され、楠木正成の軍は自害したと判断します。しかしそれは全て楠木正成の策……実は楠木正成は生きており、まんまと赤坂城からの脱出に成功していたのです

行方不明になっていた楠木正成が突如現れたのは1332年のことでした。因縁の赤坂城を襲撃、城を任されていた湯浅氏を降伏させると和泉国・河内国も制圧して瞬く間に巨大な勢力へとなります。当然幕府も征伐のため挙兵しますが、楠木正成に敗北して退却を余儀なくされました。

後醍醐天皇の生還と鎌倉幕府の滅亡

いくら楠木正成が強いとは言え、所詮身分は一介の御家人、一人の武将であり、そんな楠木正成に敗北したことは幕府の軍事力の低さを示す根拠として充分でした。そのため幕府に不満を持つ者が次々と立ち上がり、日本の各地で倒幕を支持する反乱が次々と起こるようになります。

後に鎌倉幕府を滅亡させて英雄となった新田義貞もその一人で、新田義貞は関東にて反乱を起こしていました。また、島流しにされた後醍醐天皇も自力で島を脱出、その征伐に向かった足利尊氏も土壇場で後醍醐天皇の味方についてしまい、幕府は絶体絶命の窮地に晒されます。

もはや幕府に反乱を鎮める力はなく、足利尊氏が六波羅探題を滅ぼすと新田義貞も鎌倉へと侵攻、1333年に幕府を滅亡させて鎌倉時代は終わりを迎えたのです。そして京都へ戻ってきた後醍醐天皇、こうして武家政権の時代は一旦終わり、後醍醐天皇による天皇中心の政治の時代が訪れたのでした。

建武の新政と足利尊氏の裏切り

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建武の新政の失敗

1333年、後醍醐天皇による建武の新政が開始され、信頼ある楠木正成は多くの領地を与えられた上に重役につくこともできました。楠木正成にとっては尊敬する後醍醐天皇による政治の始まりでしたが、ただその評判はすこぶる悪く、後醍醐天皇の政治能力の低さが露呈してしまいます。

鎌倉幕府を滅亡させた武士への評価は低く、一方で自分に関連した公家だけに褒美を与え、次々と打ち出される政治政策も非現実的なものばかりでした。そんな建武の新政に反感を抱く者はたちまち増えていき、鎌倉幕府滅亡に貢献した足利尊氏もその一人だったのです。

1335年の中先代の乱、北条氏の残党が鎌倉を制圧する反乱が起こりますが、鎌倉には足利尊氏のがいました。そのため足利尊氏は弟救出のため後醍醐天皇に無断で鎌倉へと向かい、これが後醍醐天皇を怒らせてしまいます。しかし、足利尊氏もまた後醍醐天皇の元に戻る気はなく、後醍醐天皇と対立関係になってしまいました。

足利尊氏の脅威

足利尊氏の突然の裏切り、これを許すまじとした後醍醐天皇は足利尊氏征伐を命令、楠木正成もまたこの命令を受けた一人です。1336年、足利尊氏との戦いになると楠木正成は勝利、敗れた足利尊氏は九州へと逃げていきますが、楠木正成の心は決して穏やかではありませんでした。

と言うのも、楠木正成は足利尊氏の強さを理解しており、今一度味方に就けないことにはこちらが敗北してしまうと考えていたのです。もちろんそれを後醍醐天皇に進言しますが相手にされず、しかも楠木正成の考えたとおり、足利尊氏が巨大な勢力を引き連れて京都に侵攻してくる事態となりました。

10万人にも及ぶ軍勢となった足利尊氏の軍の侵攻を阻止すべく、征伐を命じられたのは新田義貞と楠木正成でした。しかし、さすがの楠木正成もどういう見方をしても足利尊氏の軍に勝利する策は見出せず、後醍醐天皇に一時的に隠れることを提案しました。

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楠木正成の最期

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桜井の別れ

楠木正成が提案した策は次のようなものでした。「後醍醐天皇が比叡山に隠れ、足利尊氏の軍を一旦京都に侵攻させる。そして北から新田義貞の軍、南から楠木正成の軍が攻め込んで挟み撃ちにする」……この策に対して、天皇が山に隠れるのは恥だと楠木正成は非難されてしまいます。

一方、兵庫では新田義貞が退却したとの情報が入っており、後醍醐天皇は新田義貞と共に兵庫で足利尊氏を迎え撃てと指示しました。足利尊氏との圧倒的な兵力の差を考えても、真正面から戦う策では負け戦は決定的でしょう。それでも、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた楠木正成はこれに従いました。

1336年5月、兵庫に向かう楠木正成は死を覚悟しており、息子の楠木正行に対して「おまえの顔を見るのも今日が最後だろう」と述べ、戦場への同行を望む息子を桜井の宿から河内へと帰したます。これは桜井の別れと呼ばれ、古典文学「太平記」にて逸話としてそのあらましが記述されていますよ。

楠木正成の最期・湊川の戦い

1336年7月、湊川の戦いが楠木正成の最期の舞台となります。新田義貞の軍と合流した楠木正成の軍、連合軍として足利尊氏の軍に挑むものの、戦いの中でそれぞれの軍は巧みに引き離されてしまいました。戦うこと6時間、幾度となく突撃を繰り返した楠木正成の軍ももはや限界、兵は80人ほどまで減ってしまいます。

とうとう追い詰められた楠木正成、村の民家へと逃げ込むとそこで自害、楠木正成を信頼する仲間も同じく自害して、こうして楠木正成はいかにも彼らしく戦場で人生の幕を降ろしたのです。時代はこの後、足利尊氏に反発した後醍醐天皇が自ら朝廷を作る南北朝時代を迎えます。

楠木正成と共に戦ってきた新田義貞は湊川の戦いでは生き残りますが、新田義貞もまた後醍醐天皇を最後まで支持しており、南北朝時代の藤島の戦いにて戦死しました。楠木正成が期待した建武の新政は、結局わずか3年で終わり、足利尊氏によって再び武家政権が始まることになったのです。

楠木正成が活躍した赤坂城の戦いと湊川の戦いをまず覚えよう

楠木正成は合戦と戦術に長けた武士であり、武士であるからにはやはり戦いの功績を覚えるべきでしょう。楠木正成が活躍した戦いは赤坂城の戦いと湊川の戦い、この2つの戦いはしっかりと覚えてくださいね。

また、桜井の別れの逸話も楠木正成の一生において欠かせません。こう挙げると覚えることが多く思えますが、ひとつひとつは決して難しくないため、時代の流れに沿って一生を辿っていけばそれほど苦労しないでしょう。

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日本史歴史鎌倉時代

鎌倉幕府を滅亡させた主役の一人「楠木正成」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は楠木正成(くすのきまさしげ)について勉強していきます。

鎌倉幕府滅亡と言えば、その中心人物は後醍醐天皇や足利尊氏を想像するでしょうが、楠木正成もまた忘れてはならない人物です。

共に戦った仲間とやがて敵対し、最後には敗れてこの世を去る……そんな彼の生きざまはまるで映画や小説のようです。そこで、今回は楠木正成について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から楠木正成をわかりやすくまとめた。

鎌倉時代末期の日本

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元寇が招いた鎌倉幕府への不満

楠木正成の一生を振り返ってみるものの、実は出身地も誕生した年も明らかになっておらず、かろうじて推測されているのが「母が橘遠保の末裔・橘盛仲の娘」、「父が河内国の土豪・楠木正遠」という点です。最も、あくまで推測ですから事実というより一説として捉えた方が良いでしょう。

そんな謎多き人物である楠木正成の名前が登場したのは鎌倉時代後期の頃、源氏が開いた鎌倉幕府もその頃は執権・北条氏が権限を握っていました。1221年の承久の乱で朝廷に勝利して以降、北条氏は執権政治を行って日本の全国を支配するまでに至ります。

しかし、多くの武士が幕府に大きな不満を抱く事件が起き、それが1274年の文永の役と1281年の弘安の役……すなわち元寇です。当時日本の戦いは勝者が敗者の領地を奪うのが常識で、それで御恩と奉公を成立させていました。ところが、元寇で戦った相手はモンゴル帝国、領地を奪うことはできず、御恩と奉公が成立しない戦いになってしまったのです。

悪党を征伐する楠木正成

元寇は日本を守るための戦いであり、領地やお金を奪う戦いではありません。つまり、武士は命を懸けて戦っても一銭の利益にもならず、むしろ戦いに費用がかかることで貧困に喘ぐようになりました。そのため、武士は幕府に対して次第に反発するようになっていきます。

この状況に危機感を持った幕府は、徳政令による借金免除を打ち出して武士の不満を解消しようとしました。ただ、今度はお金を貸した商人からの不満を招き、やがて強盗や略奪を行うようになる彼らは悪党と呼ばれるようになります。そんな悪党を征伐していたのが、幕府に従う武士・楠木正成でした。

1322年、楠木正成は幕府の命令で北条氏に反発する悪党征伐を行います。大和国の名族である越智氏は反乱を起こしており、北条氏はこれを鎮めようとしますが失敗、そこで北条氏は楠木正成に越智氏征伐を命令、楠木正成は見事その命令を果たして越智氏を打ち破ったのです

後醍醐天皇の倒幕計画

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