今日はフランスの王家、ヴァロワ家最後の君主アンリ3世についてです。

アンリ3世は悪女として有名なメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスの3男として生まれた人物。彼の兄たちの治世でフランス国内ではユグノー戦争が勃発。そして国内が宗教戦争で荒れた時代に、有力な貴族ギーズ家のアンリ、ブルボン家のアンリらと三つ巴の戦いを繰り広げた人物です。

今回は歴女のまぁこと一緒にアンリ3世の生涯を解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。中でもヨーロッパの王家の関連書を愛読中!今回はフランスの王家、ヴァロワ朝の君主アンリ3世について解説していく。

1 アンリ3世とは?

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アンリ3世は、フランス王の父アンリ2世とメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスの3男として誕生。彼には2人の兄がおり、父アンリが亡くなると長男フランソワ、次男のシャルルが王位を継ぐことに。アンリ3世は73年にポーランド王に選ばれることになりましたが、シャルルが病死したためフランス王として即位することに。ここではアンリや彼の家族について触れていきます。

1-1 誕生

アンリは1551年にアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの3男として誕生。彼にはフランソワとシャルルという2人の兄がいました。父アンリ2世の死後は、フランソワとシャルルが次々に即位。しかし病弱だった2人は相次いで亡くなったため、王冠がアンリのもとにやって来ることに。アンリの幼少期には芸術や読書を愛していたそう。またスポーツではフェンシングをしており、その腕前はなかなかという評判でした。

1-2 アンリの家族

アンリ3世の家族はとても有名な人物たちが多いですよね。父アンリ2世はヴァロワ朝10代目の国王。そして2世の妃でアンリらの母はフィレンツェの名門家出身のカトリーヌ・ド・メディシス。後年彼女はアンリ2世が事故死した後に政治を牛耳ることに。カトリーヌは人の子どもを産み、そのうち7人が成人し、息子はアンリを含め4人いたそう。長男のフランソワは体が弱く、アンリ2世が亡くなった後に即位しますがわずか1年で死去。ちなみに5歳からフランソワの婚約者としてフランス宮廷で過ごした人物にメアリ・ステュアートがいますね。同じく病弱だった次男シャルルはアンリが健やかに成長していく様子に嫉妬していたそう

1-3 仲が悪かった両親

さてアンリ2世とカトリーヌと言えば、ディアーヌを思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。ディアーヌとは、アンリ2世の教育係をしていた未亡人の貴族女性。驚くべきことに年齢はアンリの母よりも上でしたがずっと美しかったと言われています。

ちなみにアンリとカトリーヌの結婚に対して反対意見が出た際に、ディアーヌが2人の結婚の後押しをしたことが知られています。フランソワ1世がもともとこの2人の結婚を決めましたが、フランス宮廷内では反対意見が。そんな時にディアーヌがカトリーヌは遠縁の親戚であることを示し、アンリの妃としてふさわしいと説得したそう。アンリの愛妾となったのは1538年頃とされていますが、幼少期からディアーヌを慕っていたことが知られています。愛妾だけでなく、アンリにとって信頼できる盟友でもあり、政治に関するアドバイスもしていたディアーヌ。一方のカトリーヌは10人も子どもを産んだのにほとんど顧みられることはなかったそう。

1-4 父アンリ2世の事故死

Tournament between Henry II and Lorges.jpg
16th century German print, anonymous - "Catherine de Medicis et Henri III" Historia, パブリック・ドメイン, リンクによる

これまで蔑ろにされていたカトリーヌ・ド・メディシスでしたが、夫のアンリ2世が槍試合で事故死すると政権を握ることに。父アンリの後を継いだのが、長男フランソワ。彼はフランソワ2世として即位することに。ところが彼は生まれつき体が弱かったのです。フランソワの体調と政治経験不足から、カトリーヌは摂政として政治を牛耳りました。しかしフランソワが急死してしまうことに。これによって次の王位はわずか10歳だった次男シャルルのもとへ。

\次のページで「2 ユグノー戦争へ」を解説!/

2 ユグノー戦争へ

ヴァロワ家にとってアンリ2世の事故死や次に継いだフランソワ2世の病死など不幸な出来事が重なります。しかし次に継いだシャルルの治世では、国内の宗教対立が大問題となることに。それでは見ていきましょう。

2-1 ユグノーとカトリックの対立

シャルル9世が即位した時も、この幼い王を支える摂政として母のカトリーヌが就くことに。当時のフランス国内は宗教対立が起きていました。これはユグノー戦争と呼ばれることに。

ところでユグノーとはどういう意味でしょうか。ユグノーとは、カルヴァン派の新教のことで、プロテスタントとも呼ばれる人々のこと。それに対して旧来の信仰をしている人々はカトリック。両派は互いに敵対し、1562年から途中休戦も挟みながら30年以上にもわたって繰り広げられた宗教戦争となることに。

2-2 マルゴとユグノー教徒ブルボン家アンリの結婚

カトリック教徒とプロテスタントの対立が激しさを増す中、カトリーヌは両者の調停を図るためある策に出ます。それは娘のマルグリットナヴァル王アンリの結婚式。カトリックであるマルグリットとプロテスタントのアンリが結婚すれば、事態を収束するだろうという思惑があったのです。

2-3 サンバルテルミの虐殺

Francois Dubois 001.jpg
François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1572年の8月。カトリーヌの娘とナヴァル王でブルボン家のアンリの結婚式がパリで開かれることに。この式ではフランス国内から有力なプロテスタントたちが集まって2人を祝福。そんなさなかでした。なんと突然カトリック教徒らがプロテスタントらを襲撃。これはサンバルテルミの虐殺と呼ばれ、パリでは4000人もの犠牲者が出て、パリを流れるセーヌ河は赤い血で染まったそう。この虐殺が引き金となり、フランス全土にまで波及し数万人もの人々が命を落としました

ちなみにこのサンバルテルミの虐殺には、カトリーヌ・ド・メディシスが関わったと言われており、プロテスタントの台頭を恐れた彼女がカトリックの有力なギーズ公と一緒に企てたのではないかとささやかれています。

\次のページで「2-4 母に溺愛されたアンリ」を解説!/

2-4 母に溺愛されたアンリ

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匿名, after Étienne Dumonstier (1540-1603) - http://www.photo.rmn.fr/LowRes2/TR1/5ZF5VT/92-000217.jpg (improved version), パブリック・ドメイン, リンクによる

サンバルテルミの虐殺から2年。今度はシャルルが亡くなることに。サンバルテルミの虐殺が起こった翌年にアンリはポーランド王に選出。しかしアンリは兄シャルルの後を継ぐためにフランス王の冠を被ることに。一説によると、2人の兄の死は溺愛していたアンリが王位に就くためにカトリーヌが毒殺したのではないかと言われています。

しかしここで問題が。アンリにはルイーズ・ド・ロレーヌ⁼ヴォーデモンという妃がいましたが、彼は女性には関心を抱かなかったのです。しかもきれいな美男子を周りに侍らしていたそう。アンリが亡くなった時の後継者として4男のアランソワ公が指名されていましたが、1584年に彼は死去。このままだとアンリに子どもが生まれなかった場合の後継者は、プロテスタントのブルボン家アンリとなることに。こうしてアンリは後継者問題を抱えることになったのです。

2-5 いつしか3アンリの戦いとなることに

サンバルテルミの虐殺を頂点に、血で血を洗うことになったユグノー戦争。この戦争がいつしか3人の有力なアンリの争いとなることに。1人目は、ヴァロワ朝でフランス国王のアンリ3世。もう1人は当時絶大な人気を誇っていたカトリック派の主張ギーズ公アンリ。そしてプロテスタントでナヴァル王のブルボン家アンリ

アンリ3世は当初プロテスタントやカトリックに対して寛容な態度を示すことに。ところがプロテスタント側が首都へ進軍すると、アンリは恐怖を感じるように。こうしてアンリはプロテスタント側に譲歩してポーリュ和約を結びました。しかしこれに対してカトリック側が反発。ギーズ公アンリを中心にフランス全土で同盟を結び、国王アンリと対立する事態へ。

2-6 ギーズ公を暗殺したアンリ

1588年にギーズ公アンリは国王アンリを失脚させようと、「バリケードの日」と呼ばれるクーデターを行うことに。ギーズ公側とアンリ3世側が激しく戦いますが、アンリ3世は次々にパリの主要部を失うことに。この敗北によってギーズ公側から一方的な要求をのまざるを得なくなりました。ギーズ公アンリは王位継承権から異端諸侯を排除することを国王アンリに認めさせることに。

しかしこれはアンリ3世にとってかなりの屈辱。アンリはギーズ公を恨み、彼を暗殺することを決意します。12月にギーズ公は国王アンリに呼ばれ、王の居室へ向かうことに。しかし国王の居室で待っていた国王の親衛隊らによってめった刺しにされ、絶命しました。

2-7 自身も修道士に暗殺される

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Frans Hogenberg - This image comes from Gallica Digital Library and is available under the digital ID btv1b8400864r/f1, パブリック・ドメイン, リンクによる

しかしギーズ公を暗殺したアンリ3世でしたが、1589年に彼もまた暗殺されることに。この年の夏の朝早くに、アンリ3世のもとへドミニコ会の修道士、ジャック・クレマンが親書を持って訪れました。アンリはパリから暗殺者がやって来ることを警告されていたため、一瞬彼を通すことをためらったそう。しかし修道士だったため、通すことに。そしてクレマンは2人で話がしたいと言い、人払いがされた後に袖に隠していた短剣を取り出してアンリの下腹を刺しました。アンリの悲鳴を聞いた侍従らによってクレマンはその場で殺害され、遺体は窓から投げ捨てられたそう。一方アンリはすぐに手当てされましたが、2日間苦しんだ後に命を落としました。これによって260年続いたヴァロワ朝が断絶することに。

3 ブルボン家アンリが継承

ヴァロワ朝の最期の君主アンリ3世はやって来た修道士の手によって暗殺され、260年にわたってフランスを支配したヴァロワ朝が終焉を迎えることになりました。そして彼の後を継いだのは、ブルボン家のアンリでした。さて3アンリの戦いで冠を手にしたブルボン家のアンリでしたが、その後はどうなったのでしょうか。それでは見ていきましょう。

3-1 ブルボン家アンリが即位

ユグノー戦争からいつしか3アンリの戦いとなったフランス。そしてギース公、ヴァロワ家のアンリが倒れたことで、冠を手にしたブルボン家のアンリ。しかし彼のその後は決して順風満帆なスタートとは言えない状況でした。1589年にブルボン王朝を開いたアンリ4世でしたが、プロテスタントのアンリを国王と認めたのはフランス国民のわずか2割程度。フランスはカトリック国だったため、その多くがカトリック教徒。当然彼らはアンリ4世を認めませんでした。アンリは国王にも関わらず当初は首都パリへ入城することも叶わず。またカトリック勢力はアンリの叔父を新たな王としたため、一時は2人の王がいる状況に。アンリ4世は地道に武力によって制圧していくことになりました。

3-2 ナントの勅令を出し、ユグノー戦争を収束!

さて、やっとフランス国内を平定したアンリ4世でしたが、今度はスペイン王フェリペ2世が立ちはだかります。フェリペは自他ともに認めるカトリックの守護者隣国のフランスがカトリックからプロテスタント国になることを危惧したのです。こうしてフェリペはフランスに介入することに。フェリペ2世の3人目の妻エリザベート・ド・ヴァロワはカトリーヌ・ド・メディシスの娘だったことを理由に自身の娘をフランス女王にと言ってくることに。これに対し、イングランドの援助を受けて撃退したアンリ。しかし国内を安定するには改宗するしかないと考えるように。こうしてアンリはプロテスタントからカトリックへ改宗。そしてナントの王令を出し、プロテスタントの信仰の自由を認めてユグノー戦争を終結させました

ヴァロワ朝ラストの君主、アンリ3世

3男にも関わらずフランス王となったアンリ3世。しかし難しい局面で冠を被ることになり、国王でありながら存在感を示せずに苦しむことに。野心を隠そうとしないギーズ公を恨み、彼を暗殺することを企てた彼でしたが、最後は自身も暗殺されるとはなんという皮肉でしょうか。アンリは同性愛者だったため、王妃との間にはついに子どもが生まれず。こうしてアンリ3世の死によって260年続いたヴァロワ朝は幕を閉じました。

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ギーズ公を暗殺したヴァロワ朝の最後の君主「アンリ3世」の生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

今日はフランスの王家、ヴァロワ家最後の君主アンリ3世についてです。

アンリ3世は悪女として有名なメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスの3男として生まれた人物。彼の兄たちの治世でフランス国内ではユグノー戦争が勃発。そして国内が宗教戦争で荒れた時代に、有力な貴族ギーズ家のアンリ、ブルボン家のアンリらと三つ巴の戦いを繰り広げた人物です。

今回は歴女のまぁこと一緒にアンリ3世の生涯を解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。中でもヨーロッパの王家の関連書を愛読中!今回はフランスの王家、ヴァロワ朝の君主アンリ3世について解説していく。

1 アンリ3世とは?

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アンリ3世は、フランス王の父アンリ2世とメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスの3男として誕生。彼には2人の兄がおり、父アンリが亡くなると長男フランソワ、次男のシャルルが王位を継ぐことに。アンリ3世は73年にポーランド王に選ばれることになりましたが、シャルルが病死したためフランス王として即位することに。ここではアンリや彼の家族について触れていきます。

1-1 誕生

アンリは1551年にアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの3男として誕生。彼にはフランソワとシャルルという2人の兄がいました。父アンリ2世の死後は、フランソワとシャルルが次々に即位。しかし病弱だった2人は相次いで亡くなったため、王冠がアンリのもとにやって来ることに。アンリの幼少期には芸術や読書を愛していたそう。またスポーツではフェンシングをしており、その腕前はなかなかという評判でした。

1-2 アンリの家族

アンリ3世の家族はとても有名な人物たちが多いですよね。父アンリ2世はヴァロワ朝10代目の国王。そして2世の妃でアンリらの母はフィレンツェの名門家出身のカトリーヌ・ド・メディシス。後年彼女はアンリ2世が事故死した後に政治を牛耳ることに。カトリーヌは人の子どもを産み、そのうち7人が成人し、息子はアンリを含め4人いたそう。長男のフランソワは体が弱く、アンリ2世が亡くなった後に即位しますがわずか1年で死去。ちなみに5歳からフランソワの婚約者としてフランス宮廷で過ごした人物にメアリ・ステュアートがいますね。同じく病弱だった次男シャルルはアンリが健やかに成長していく様子に嫉妬していたそう

1-3 仲が悪かった両親

さてアンリ2世とカトリーヌと言えば、ディアーヌを思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。ディアーヌとは、アンリ2世の教育係をしていた未亡人の貴族女性。驚くべきことに年齢はアンリの母よりも上でしたがずっと美しかったと言われています。

ちなみにアンリとカトリーヌの結婚に対して反対意見が出た際に、ディアーヌが2人の結婚の後押しをしたことが知られています。フランソワ1世がもともとこの2人の結婚を決めましたが、フランス宮廷内では反対意見が。そんな時にディアーヌがカトリーヌは遠縁の親戚であることを示し、アンリの妃としてふさわしいと説得したそう。アンリの愛妾となったのは1538年頃とされていますが、幼少期からディアーヌを慕っていたことが知られています。愛妾だけでなく、アンリにとって信頼できる盟友でもあり、政治に関するアドバイスもしていたディアーヌ。一方のカトリーヌは10人も子どもを産んだのにほとんど顧みられることはなかったそう。

1-4 父アンリ2世の事故死

Tournament between Henry II and Lorges.jpg
16th century German print, anonymous – “Catherine de Medicis et Henri III” Historia, パブリック・ドメイン, リンクによる

これまで蔑ろにされていたカトリーヌ・ド・メディシスでしたが、夫のアンリ2世が槍試合で事故死すると政権を握ることに。父アンリの後を継いだのが、長男フランソワ。彼はフランソワ2世として即位することに。ところが彼は生まれつき体が弱かったのです。フランソワの体調と政治経験不足から、カトリーヌは摂政として政治を牛耳りました。しかしフランソワが急死してしまうことに。これによって次の王位はわずか10歳だった次男シャルルのもとへ。

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