世界史

「パン・アフリカ会議」が目指したものは?植民地主義との闘いの過程を元大学教員が解説

よぉ、桜木建二だ。「パン・アフリカ会議」とは、ヨーロッパ諸国による植民地化による支配を脱し、人種差別の撤廃と平等な世界を作ることを目標に開催された会議だ。「パン・アフリカ会議」が開催される背景には、アメリカ合衆国における奴隷制度やアフリカ大陸の植民地化など、数多くの問題が重なり合っている。

それじゃ、「パン・アフリカ会議」ではどのような問題が話し合われ、どのような課題を解決できたのか、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

hikosuke

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。人種差別の歴史をみていくとき「パン・アフリカ会議」を避けて通ることはできない。「パン・アフリカ会議」は、人種差別の撤廃や世界の平和のあり方を話し合うために開催された。その中心者であるW.E.Bデュボイスの活動に注目しながら「パン・アフリカ会議」について解説する。

「パン・アフリカ会議」はパン・アフリカ主義を発信することが目的

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1900年から始まった「パン・アフリカ会議」の主な目的は、パン・アフリカ主義を世界に発信すること。奴隷貿易などを通じて世界各国に散らばっているアフリカルーツの人々をまとめる役割を担いました。

パン・アフリカ主義は黒人のアイデンティティー運動

「パン・アフリカ会議」の軸となるパン・アフリカ主義は、アフリカ系の黒人のアイデンティティー運動の総称。長らくアフリカに住んでいる々は、ヨーロッパの白人の「奴隷」という位置づけを余儀なくされていました。奴隷制度があった時代は人間として扱われず、奴隷解放のあとも、いろいろな面で平等に扱われてきませんでした。

しかしながら、アフリカ系の黒人の労働力などの貢献があったから欧米諸国は経済的に豊かになったと考えられるようになります。また、戦争が勃発した際、黒人兵士たちは白人兵士と同じように兵役につき、国家の料理に貢献したことも血主張されるように。高いレベルの教育を受けた黒人知識人を中心に、アイデンティティー運動が展開されるようになります。

奴隷制度により離散したアフリカ人の連携を主張

パン・アフリカ主義の基本的な主張は「奴隷制度により世界各国に離散したアフリカ人は連携するべき」というもの。奴隷貿易を通じて連行されたアフリカ人の行先は、アメリカ合衆国のみならずヨーロッパ諸国にも及びます。もちろん、アフリカ大陸に住んでいる人々も同じルーツ。しかし、同じルーツにある人々が関わり合いをもつ機会は皆無でした。

アメリカ合衆国では、奴隷解放後のアフリカ系の黒人は、手に職を付けて合衆国のメンバーとしての「同化」を目指すべきとする考えを持つ人もいました。それに対して、黒人には黒人の歴史と文化があることを誇りに思い、その独自性を主張する方が大切という声も目立ち始めます。それが「パン・アフリカ会議」の開催につながりました。

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パン・アフリカ主義があらわれた背景として、大学等で高度な教育を受けた黒人知識人が増えてきたことが挙げられる。彼らはアフリカの歴史を学ぶことで、自分たちが置かれている立場に疑問を感じるようになった。

「パン・アフリカ会議」の背景にあるのは奴隷制度の歴史

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By Henry P. Moore – Library of Congress (Image page), Public Domain, Link

「パン・アフリカ会議」が開催された背景として、忘れてはならないのが奴隷制度の歴史です。アメリカ合衆国では、南北戦争後に奴隷制度は廃止されました。しかし、奴隷制度を思い出させるような事件が何かと起こります。たとえば公共施設の利用。白人と黒人の入り口を分ける、黒人出入り禁止とする施設は20世紀に入っても数多く存在していました。

「パン・アフリカ会議」の開催者たちは、奴隷制度が完全に払しょくできていない状況に疑問を感じ、アフリカ系の黒人が自ら主張する場を設ける必要性を感じ始めます。そこで会議に問題意識を共有している関係者を集め、黒人がどのような問題に直面しているのかを議論。解決のっ必要性を訴えるようになりました。

W.E.B.デュボイスはアフリカ系アメリカ人がかかえるジレンマを分析

「パン・アフリカ会議」が開催された当初の中心人物がW.E.B.デュボイス。黒人専用のフィクス大学を卒業したあとハーバード大学に入学。そのまま大学院に進学して博士号を取得したエリート黒人研究者です。W.E.B.デュボイスは、ハイチ系アメリカ人でしたが、アフリカ系アメリカ人の公民権運動を主導する役割を担いました。

W.E.B.デュボイスの有名な研究のひとつが、アフリカ系アメリカ人がかかえるジレンマについての研究。アフリカ系アメリカ人は「アフリカ」と「アメリカ」の二つの国の狭間におかれた存在。二つの国のあいだで、その精神はたえず葛藤している状態にあることを、社会学の理論を応用しながら解き明かしました。

全米黒人地位向上協会を創設して公民権運動をけん引

彼はアフリカ人の歴史を研究するだけではなく、運動のリーダーとして先頭に立ってさまざまな権利を主張します。1909年に全米黒人地位向上協会を創立。デュボイスは自身が編纂者となった会報である『クライシス』を通じてアフリカ系アメリカ人が抱える問題をさまざまに発信、黒人問題を世界各国で共有する流れを作り出しました。

デュボイスは考え方の相違などから、1930年代に全米黒人地位向上協会を去ります。しかし、このときのデュボイスの活動は、その後にアフリカ系アメリカ人が「法的な平等」を獲得していくなかで大きな役割を果たることになりました。そのためデュボイスは、アフリカ系アメリカ人の地向上に貢献したと、今でも敬意を表されています。

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W.E.B.デュボイスは晩年、クワメ・エンクルマ大統領に招待されてガーナに滞在するようになる。さらにそのままガーナ国籍を取得し、なんとアメリカ市民権を放棄するに至った。彼自身、出生や立場などから、いろいろなジレンマに苦しんでいたのかもしれない。

D.W.Bデュボイスを中心とする「パン・アフリカ会議」は計5回

「パン・アフリカ会議」が活発に行われたのは計5回。とくにD.W.B デュボイスが中心に企画されました。1900年にロンドンに開催された会議をもとに、1919年に第1回、1921年に第2回と実績を重ねていきます。

第1回パンアフリカ会議ではパスポート発行拒否による不参加も

第1回のパン・アフリカ会議が開催されたのは1919年2月。会議を組織したのは、D.W.B デュボイスとフランスにあるアメリカ領事館で働いていたウィリアムヘンリーハント米国領事の妻であるアイダギブスハントでした。

会議の参加者は57人を予定していましたが、アメリカとイギリスの政府がパスポートの発行を拒否、少数の参加者にとどまります。会議の目的は、当時パリで開催されたベルサイユ和平会議に要求を請願すること。アフリカにある旧植民地や、今後の自主的な統治のあり方について、どのように要求を伝えるのかが話し合われました。

第2回パンアフリカ会議では参加者の幅が広がり始める

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By Mundaneum – Mundaneum, Public Domain, Link

1921年の第2回パン・アフリカ会議は、8月と9月にかけてロンドン、ブリュッセル、パリにて開催されました。このときは、欧米のみならずアフリカからの参加者もおり、さらにはインドの革命家も加わるという幅の広さ。第1回のパン・アフリカ会議とくらべると、かなりにぎわいを見せたようです。

アフリカ系の人々を奴隷化することにより無知な状態にしたこと、現在は文明化されていることを認めること、これらが第2回の会議で確認されました。また、アフリカなどの植民地における白人の自治を認めることも議論。平等な権利を主張しすぎることは危険できると反対する参加者もいました。

アフリカ人の利益の追求が確認された第3回パンアフリカ会議

1923年にロンドンとリスボンで開催されたのが第3回パン・アフリカ会議。アフリカの発展は、ヨーロッパ人の利益のためではなく、アフリカ人の利益のためにあることが確認されました。また、南アフリカなどにおけるわずかの数の白人による支配を廃止することも提案。アメリカにおける黒人差別に関わる法律を廃止することも議題にあがりました。

第4回パンアフリカ会議はニューヨークで開催

1927年に開催されたのが第4回パン・アフリカ会議。開催地はアメリカのニューヨーク市でした。このときの議論は、第3回の会議の内容の決議のみが行われます。

第5回パンアフリカ会議からメンバーのアフリカ化が進む

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第5回パン・アフリカ会議は1945年にイギリスのマンチェスターで開催されました。第二次世界大戦にて兵士として共に戦ったことから、アフリカ系は独立に値する存在であるという考えが目立ち始めます。トリニダードのパン・アフリカ主義者ジョージ・パドモア、ガーナの独立指導者クワメ・ンクルマが主催。アフリカから26人の代表者90人が出席しました。

学者、政治家、革命家、学生運動家など、その立場も年齢もかなりの幅の広さに。長らく中心的に活動してきたD.W.B デュボイスは、このとき77歳となっていました。この会議では、人種差別を犯罪と見なすこと、帝国主義を批判することなど、数多くの議題が決議されます。同時に、アフリカの独立の流れを生み出した会議ともなりました。

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第5回パンアフリカ会議においてエンクルマが指導権を確立。会議のアフリカ化がすすみ、デュボイスはパン・アフリカ会議と距離を置くようになった。主導権が欧米知識人からアフリカ大陸の革命家・政治家に移行したというわけだ。

「パン・アフリカ会議」はアフリカ大陸の独立運動の精神的支柱に

「パン・アフリカ会議」は、もともとは欧米諸国に連行された元奴隷の地位向上を目指す意味合いが強くありました。しかし、徐々に長らく植民地化されていたアフリカ大陸の独立運動を突き動かす流れを作りだすようになります。

エンクルマを中心にアフリカ諸国連合を結成

パン・アフリカ構想の流れのなかで生まれた組織のひとつがアフリカ諸国連合。マリ、ガーナ、ギニアという西アフリカにある3つの国から構成されました。この連合は1958年から1963年まで続きました。アフリカ諸国連合の中心人物のひとりがガーナの首相であったクワメ・エンクルマです。

アフリカ諸国連合は、宗主国であるフランスからの資金援助がなくなったギニアを支援する、ガーナとギニアの集団安全保障を行うなど、パン・アフリカ主義に基づく取り組みをすすめました。その後、アフリカ統一機構、アフリカ連合へと発展していきます。

「アフリカの年」以降は分裂が加速する

1960年はフランスのシャルル・ド・ゴール大統領によりアフリカの13カ国の独立が認められた「アフリカの年」。アフリカ大陸で17カ国が続々と植民地からの独立を達成します。それによりアフリカ各国の統合が進むと思われましたが、実際はその逆となりました。

この時期はアメリカとソ連の冷戦により二分化されていました。そのようなときアフリカが台頭したことで、第三の勢力として力を発揮するようになります。「パン・アフリカ会議」の議論をもとに国家間の連合が試みられるものの、考え方の違いなどにより分裂が加速。結果的にアフリカは50か国以上に分かれることになりました。

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エンクルマはW.E.B.デュボイスをガーナに招聘。エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を依頼した。アフリカ独立運動の中心人物であったエンクルマは、デュボイスと共にパン・アフリカの実現を夢みていたが、そのハードルは高かったようだ。

「パン・アフリカ会議」は理想と現実のあいだで揺れ動く

「パン・アフリカ会議」は、ヨーロッパ諸国の植民地政策や合衆国における奴隷制度により翻弄されたアフリカの人々をまとめる夢と共に始まりました。会議が組織化されるにつれて、アフリカが翻弄されてきた歴史や、根強く残る人種差別的な法律など、多くの問題点が世界に発信されていきます。同時に、長らく植民地化されてきたアフリカ大陸における独立の機運を高めることにも貢献しました。「アフリカの年」以降、植民地化を脱する流れは進みましたが、政治や文化の違いからアフリカの統一の実現は遠のきます。それが現在の大小さまざまな国から成り立つアフリカを作ったと言えるでしょう。

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