どのような経緯で始まり戦終了後に隣国に与えた影響までを歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。
ライター/what
日本最大奇襲の一つに数えられている桶狭間の戦いに関して、自身の知識と調べたことを分かりやすく解説していく。
駿河の戦国大名
氏親の時に守護大名から戦国大名となり今川義元は1519年に氏親の五男として誕生します。義元が誕生した時には既に長兄だった今川氏輝が氏親から家督を相続していたため、義元には今川家の継承権がありませんでした。そのため義元は今川家譜代家臣だった太原雪斎のところに預けられ学問を身につけていくことになります。
十八歳頃には氏親によって京と繋がりを持っていたことで、茶道などを習うために京に在中していた期間がありました。しかし氏輝から駿河に戻るよう指示を受けると、京から駿河に戻ってきましたが氏輝が急死してしまいます。また次男の彦五郎までもが氏輝と同じ日に亡くなってしまい今川家当主が不在となってしまいました。
氏輝そして彦五郎は毒殺された説があり氏輝自身は病弱だった影響もあり真意は定かではありませんが、彦五郎に関しては生前の記録が一切残されていないため本当に実在した人物かも不明な人物です。
今川家家督相続争い
本来は今川家の主君になり得ない存在でしたが、家中の不幸が続き義元にも今川家当主の順番が巡ってきます。五番目に生まれた義元ではありましたが、氏親正室の寿桂尼から生まれたことで寿桂尼の支持を受け次期当主候補として名乗りを上げてきました。しかし今川家臣の福島氏が反対をし血筋を引く氏親三男だった今川良真を擁立し家中で争っていくことになります。
また義元は家中争いをしている最中に室町幕府の将軍足利義晴から一字を賜り義元を名乗っていきました。寿桂尼が必死に福島氏に対して説得を行うも失敗に終わってしまい、福島派が突如として義元が居る今川館を襲撃してきます。しかし守りが固かった今川館だったため襲撃は失敗に終わり撤退していき、花倉城などを拠点に義元に対抗する姿勢を見てせていきました。
義元は相模の北条氏の支援を得ながら花倉城などの福島派の拠点を陥落させていき福島正成と今川良真は、自害したことで発生していた花倉の乱が終わりを向かえ今川家の家督を相続することになった義元。
隣国との同盟
前当主だった氏輝時に甲斐武田氏との関係が悪化し、国境付近で争いが絶えず行われている状況でした。義元はまず自身の周りを固めるべく武田氏と同盟を結ぶにあたり定恵院を娶り甲駿同盟を結成。ところが武田氏と同盟を結んだことで武田氏と敵対関係だった北条氏は、義元に対して憤りを感じ駿河国へ侵攻を決意していきます。
当主となったばかりで、家臣達を統率しきれていない義元は北条氏に対してまともな反撃が出来ずに河東を奪われてしまいました。河東奪還するべく武田氏と協力していきましたが、反義元派だった井伊氏などが離反したため思うような行動が出来ていない状況で尾張からも織田信秀が兵を率いて侵攻していきます。
敵に睨まれた状況が長期化していきますが、北条氏綱の死や武田信玄による父信虎の追放によって徐々に状況が好転していきました。
義元の領土拡大
左右を挟まれた厳しい状況でしたが、関東管領だった上杉憲政と同盟を結び北条氏康に対して攻撃を仕掛けていきました。同時に信玄の支援を貰いながら河東に攻め立て東と西から総攻撃を受け、止めきれないと判断した氏康は信玄に仲介役を依頼し河東を義元に返還する形で義元側の勝利となります。厳しい状況から一転して左右に兵を分散させていましたが、織田勢と三河の松平氏に兵を集中させることになっていきました。
自身に危険が及ぶと判断した松平広忠は嫡男の徳川家康を人質として義元の傍に置かれることになります。しかし幼き家康の護送を任されていた戸田氏が義元から離反し織田方へと届けられてしまいこれに激怒した義元は戸田氏を大軍で攻撃させ戸田氏を滅ぼしました。また広忠は家臣の謀反に合い暗殺されてしまいこれを機に松平氏の領土を今川領土にすることに成功します。
家督を氏真に
織田方が三河へ侵攻してくるも撃退し三河から追い払うことが出来たうえに、信秀の子だった織田信広を捕え家康と人質交換を行い家康を家臣に引き入れていきました。そして信玄と氏康と甲相駿同盟を結び隣国強化を図っていき家督を嫡男今川氏真に譲り隠居していきます。
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