その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、サトウはイギリスのロンドン生まれ
- 1-2、サトウ、飛び級で大学へ
- 1-3、日本との出会い
- 2-1、サトウ、通訳生として来日
- 2-2、来日約1週間後、生麦事件が勃発
- 2-3、薩英戦争に従軍し、薩摩に友達が
- 2-4、サトウ、日本語ペラペラになり友達が続々と出来る
- 2-5、サトウ、伊藤博文らと知り合う
- 2-6、サトウ、四国艦隊下関砲撃事件に立ち会う
- 2-7、サトウ、西郷隆盛と出会う
- 3-1、サトウ「英国策論」をあらわす
- 3-2、サトウ、ミットフォードと出会う
- 3-3、慶喜の外国公使謁見の通訳を
- 3-4、サトウ、東海道を旅行し襲撃にあう
- 3-5、サトウ、土佐で山内容堂らと会見も
- 3-6、サトウ、維新の現場の真っただ中に
- 3-7、サトウ、神戸事件に遭遇、初の京都入りも
- 4-1、賜暇帰国と再来日、日本人女性と結婚
- 4-2、サトウ、3度目の来日と西南戦争
- 4-3、サトウ、駐日特命全権公使に
- 4-4、サトウ、駐清公使に出世
- 4-5、サトウの晩年
- 5-1、サトウの逸話
- 5-2、日本人以上の日本通かも
- 5-3、西郷隆盛のファンだった
- 5-4、坂本龍馬は知らなかった
- サトウの偉業はもっと多くの人に知られてもいいはず
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、憧れのアーネスト・サトウについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、サトウはイギリスのロンドン生まれ
サトウは天保14年(1843年)6月30日、11人兄弟の4番目3男としてロンドンのクラプトンで誕生。父は、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(サトウ出生時はスウェーデン領)のハンス・デーヴィッド・クリストファー、母はイギリス人のマーガレットで旧姓メイソン。サトウは「種をまく人」という意味でアングロサクソン系では珍しいが、日本ではよくある名前として覚えられやすく得することに。
フルネームはアーネスト・メイソン・サトウ。日本名は佐藤愛之助、または 薩道愛之助、雅号は薩道静山。
1-2、サトウ、飛び級で大学へ
サトウの父はドイツ系移民で英国国教徒ではなく、プロテスタントのルーテル派の信者。なのでサトウは、中産階級で英国国教徒ではない子弟でも入れるプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学して、1859年首席で卒業、そして学生の宗教を問わない大学であるユニヴァーシティ・カレッジオブロンドンに、飛び級の16歳で進学、19歳で卒業。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストを名門ケンブリッジ大学に進学させたかったが、まだ階級差別の激しい頃で学位を取れる保証がなかったということ。
1-3、日本との出会い
サトウは、兄が図書館で借りて来た「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、さらにペリーの日本遠征記で理解を深めたということ。そして、1861年に大学の図書館で、イギリス外務省の日本での通訳生募集広告を見て、両親の許可をもらって試験を受け、首席で合格。イギリス外務省の方針でまず清国の北京で数か月漢字を学習、そして日本へ。
2-1、サトウ、通訳生として来日
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文久2年8月15日(1862年9月8日)、19歳のサトウはイギリス駐日公使館の通訳生として横浜に着任。当初、代理公使のジョン・ニールはサトウに事務仕事を与えたので、思うように日本語の学習ができなかったが、その後午前中に、アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師高岡要、徳島藩士沼田寅三郎らから日本語を学んだということ。
また同僚には、後に親友となる外交官兼医官のウィリアム・ウィリス、画家兼通信員のチャールズ・ワーグマン、通訳生にはドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男のアレクサンダーも。
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2-2、来日約1週間後、生麦事件が勃発
サトウの回想録によると、医師のウィリスが馬を駆って真っ先に生麦事件の現場へ駆けつけ、けが人の手当てを。イギリス公使館は、生麦事件とその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題について幕府との交渉を行い、サトウも加わったが、当時のサトウはまだ通訳はできず。幕府とイギリス公使館は、それぞれのオランダ語通訳を介して交渉にあたったそう。
サトウの初めて日本語通訳としての仕事は、文久3年(1863年)6月24日付けの小笠原長行から代理公使ニールへの手紙で、5月10日をもって攘夷を行うと将軍家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容を翻訳。ウィリスがわがことのように喜んでくれたそう。
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2-3、薩英戦争に従軍し、薩摩に友達が
文久3年(1863年)8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、代理大使のニール大佐は薩摩藩との交渉のため、クーパー提督に7隻の艦隊を組織させて鹿児島に。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発。サトウ自身も薩摩藩船青鷹丸の拿捕に立会ったときに、五代友厚、松木弘安(寺島宗則)が捕虜に。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃。
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2-4、サトウ、日本語ペラペラになり友達が続々と出来る
サトウはこの頃から日本語が流ちょうなイギリス人外交官として名前が売れてきたそう。そして後に公使館近くの高輪に家を借りて住んだが、近所には薩摩藩下屋敷や、赤坂の勝海舟邸にも近かったせいで、幕臣から討幕派まで千客万来、リキュールやイギリスの食べ物でもてなし、何時間でも彼らと議論。
サトウは先進国から来た人間として、議会制度とか色々と志士たちの知りたい情報を教えることができたのと、同じ若者として理想に燃えて新しい国や制度を作ろうとする志士たちと話が合ったのでは。
2-5、サトウ、伊藤博文らと知り合う
サトウは元治元年(1864年)、イギリスに帰国するか悩むが、帰任した駐日公使オールコックが昇進に尽力を約束、日本に留まることを決意。オールコックはサトウを事務仕事から解放したので日本語の学習に励めたし、ウィリスと同居して親交を深めるように。
オールコック公使は、長州藩の下関の外国船砲撃、幕府の横浜鎖港の要求などを軍事力を用いてでも打破しようと考えていたところ、7月に長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)と志道聞多(しじぶんた 後の井上馨)がイギリス留学から急遽帰国。横浜のイギリス公使館へ飛び込んでサトウらと話した後、イギリス公使館は伊藤と志道を軍艦で長州まで送り届けることに。志道らは必死で戦争回避のために長州藩上層部を説得するも、内部が攘夷で盛り上がっているところをいまさら外国との戦争をやめとは言えないという結果で戦争勃発。尚、このときからサトウと伊藤の文通が始まったということ。
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