今回はアーネスト・サトウを取り上げるぞ。イギリス人外交官で幕末の志士に顔が広かったんだって。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、憧れのアーネスト・サトウについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、サトウはイギリスのロンドン生まれ

サトウは天保14年(1843年)6月30日、11人兄弟の4番目3男としてロンドンのクラプトンで誕生。父は、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(サトウ出生時はスウェーデン領)のハンス・デーヴィッド・クリストファー、母はイギリス人のマーガレットで旧姓メイソン。サトウは「種をまく人」という意味でアングロサクソン系では珍しいが、日本ではよくある名前として覚えられやすく得することに。

フルネームはアーネスト・メイソン・サトウ。日本名は佐藤愛之助、または 薩道愛之助、雅号は薩道静山。

1-2、サトウ、飛び級で大学へ

サトウの父はドイツ系移民で英国国教徒ではなく、プロテスタントのルーテル派の信者。なのでサトウは、中産階級で英国国教徒ではない子弟でも入れるプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学して、1859年首席で卒業、そして学生の宗教を問わない大学であるユニヴァーシティ・カレッジオブロンドンに、飛び級の16歳で進学、19歳で卒業。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストを名門ケンブリッジ大学に進学させたかったが、まだ階級差別の激しい頃で学位を取れる保証がなかったということ。

1-3、日本との出会い

サトウは、兄が図書館で借りて来た「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、さらにペリーの日本遠征記で理解を深めたということ。そして、1861年に大学の図書館で、イギリス外務省の日本での通訳生募集広告を見て、両親の許可をもらって試験を受け、首席で合格。イギリス外務省の方針でまず清国の北京で数か月漢字を学習、そして日本へ。

2-1、サトウ、通訳生として来日

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文久2年8月15日(1862年9月8日)、19歳のサトウはイギリス駐日公使館の通訳生として横浜に着任。当初、代理公使のジョン・ニールはサトウに事務仕事を与えたので、思うように日本語の学習ができなかったが、その後午前中に、アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師高岡要、徳島藩士沼田寅三郎らから日本語を学んだということ。

また同僚には、後に親友となる外交官兼医官のウィリアム・ウィリス、画家兼通信員のチャールズ・ワーグマン、通訳生にはドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男のアレクサンダーも。

2-2、来日約1週間後、生麦事件が勃発

サトウの回想録によると、医師のウィリスが馬を駆って真っ先に生麦事件の現場へ駆けつけ、けが人の手当てを。イギリス公使館は、生麦事件とその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題について幕府との交渉を行い、サトウも加わったが、当時のサトウはまだ通訳はできず。幕府とイギリス公使館は、それぞれのオランダ語通訳を介して交渉にあたったそう。

サトウの初めて日本語通訳としての仕事は、文久3年(1863年)6月24日付けの小笠原長行から代理公使ニールへの手紙で、5月10日をもって攘夷を行うと将軍家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容を翻訳。ウィリスがわがことのように喜んでくれたそう。

2-3、薩英戦争に従軍し、薩摩に友達が

文久3年(1863年)8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、代理大使のニール大佐は薩摩藩との交渉のため、クーパー提督に7隻の艦隊を組織させて鹿児島に。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発。サトウ自身も薩摩藩船青鷹丸の拿捕に立会ったときに、五代友厚、松木弘安(寺島宗則)が捕虜に。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃。

2-4、サトウ、日本語ペラペラになり友達が続々と出来る

サトウはこの頃から日本語が流ちょうなイギリス人外交官として名前が売れてきたそう。そして後に公使館近くの高輪に家を借りて住んだが、近所には薩摩藩下屋敷や、赤坂の勝海舟邸にも近かったせいで、幕臣から討幕派まで千客万来、リキュールやイギリスの食べ物でもてなし、何時間でも彼らと議論。

サトウは先進国から来た人間として、議会制度とか色々と志士たちの知りたい情報を教えることができたのと、同じ若者として理想に燃えて新しい国や制度を作ろうとする志士たちと話が合ったのでは。

2-5、サトウ、伊藤博文らと知り合う

サトウは元治元年(1864年)、イギリスに帰国するか悩むが、帰任した駐日公使オールコックが昇進に尽力を約束、日本に留まることを決意。オールコックはサトウを事務仕事から解放したので日本語の学習に励めたし、ウィリスと同居して親交を深めるように。

オールコック公使は、長州藩の下関の外国船砲撃、幕府の横浜鎖港の要求などを軍事力を用いてでも打破しようと考えていたところ、7月に長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)と志道聞多(しじぶんた 後の井上馨)がイギリス留学から急遽帰国。横浜のイギリス公使館へ飛び込んでサトウらと話した後、イギリス公使館は伊藤と志道を軍艦で長州まで送り届けることに。志道らは必死で戦争回避のために長州藩上層部を説得するも、内部が攘夷で盛り上がっているところをいまさら外国との戦争をやめとは言えないという結果で戦争勃発。尚、このときからサトウと伊藤の文通が始まったということ。

\次のページで「2-6、サトウ、四国艦隊下関砲撃事件に立ち会う」を解説!/

2-6、サトウ、四国艦隊下関砲撃事件に立ち会う

サトウは下関では、四国艦隊総司令官となったクーパー提督付きの通訳となり、英仏蘭の陸戦隊による前田村砲台の破壊に同行。長州藩との講和交渉で、宍戸刑馬と変名した代表の高杉晋作を相手に通訳。少し英語が話せるのが売りの伊藤博文、志道こと井上も通訳として臨席。伊藤は明治後に、この場でイギリスに彦島を租借されそうになったが、高杉が古事記の話を延々と通訳不能なまでに延べて煙に巻き、事なきを得たと述懐。

尚、サトウは「武鑑」(各藩の主だった家来の名簿または紳士録)で、家老の息子宍戸刑馬という人物がいないことは知っていたが、高杉晋作は知らず、大紋を着ていた高杉を「悪魔のような」と形容したことはとても有名。

2-7、サトウ、西郷隆盛と出会う

慶応元年(1865年)4月、サトウは通訳官に昇進。この頃から伊藤や井上馨との文通が頻繁に。この往復書簡で、長州藩の内情や長州征伐に対するイギリス公使館の立場などを情報交換。サトウはこの頃から「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めたそう。サトウは10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に、11月には下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行。神戸、大坂に上陸したときに、薩摩藩船胡蝶丸の乗組員と交わったが、船室にいた人は誰かと聞くと「島津左仲」と言われたのが西郷隆盛だったと回想録に。後で西郷と会見したときにこの話をしたら、西郷は大笑いしたということ。

3-1、サトウ「英国策論」をあらわす

サトウは、慶応2年(1866年)3月から5月に、横浜で発行されていた週刊英字新聞ジャパン・タイムズに匿名で論文を掲載。この記事が「英国策論」と名付けられて翻訳出版、まるでイギリス公使館の公式見解のように扱われ、西郷隆盛らも引用し、宇和島前藩主伊達宗城も読み、倒幕運動の方向性を模索していた志士たちのバイブルのように読まれて、明治維新後の新しい日本の指針にも大きく影響することに。

「英国策論」とは
サトウは回想録「一外交官の見た明治維新」で、ジャパン・タイムズの発行人チャールズ・リッカビーと知り合い、紀行文などを投稿していたが、各大名は外国人と自由交易できる条約の項目があるのに、薩摩藩の船が横浜での交易を拒否される事件が起こったのをきっかけに、政治的な投稿を決心。
英国策論の基となる英文は、最初が慶応2年(1866年)3月16日、2回目は5月4日と推察されるが未発見で、3回目が5月19日と3回に分けて掲載。サトウはこのとき22歳。サトウは、この文章を自分の日本語教師の徳島藩士沼田寅三郎に手伝わせて日本語に翻訳、パンフレットの形で沼田の藩主に見せた後、写本されて方々へ拡散。翌年、サトウが会った諸大名の家臣たちは写本を通じて好意を寄せてくれたほど。
そして英人サトウの「英国策論」、イギリスの政策という表題で印刷されて 大坂や京都の全ての書店で発売となり、勤皇派からも佐幕派からもイギリス公使館の公式意見のように思われたということ。これは外交官として内政干渉にあたるが、サトウはそれを覚悟して書いたらしく、「そんなことは私の知ったことではなかった」と、まるっきり志士の気概で述懐(パークス公使は知ってか知らずか黙認状態だったよう)。

英国策論の骨子は、将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたもの。なので現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できない。また、独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっているので現行条約を廃して、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきだと提案。「徳川将軍はこの国の代表の支配者だと名乗って偽っているが、本当は国土の半分くらいしか治めていない。そんな徳川と結ぶのはやめた方がいい」と繰り返し書いたということ。また、「帝の許可がなければ、将軍は条約が結べない。しかし、帝は自分自身で条約を実行する力はない」とも言い、明治維新を先取りしたかのような論文。

3-2、サトウ、ミットフォードと出会う

慶応3年(1867年)10月、横浜で大火があり、サトウらの家も全焼、公使館も焼けたので江戸高輪の泉岳寺前に移ると、近くの門良院で来日したばかりの2等書記官アルジャーノン・バートラム・ミットフォードと同居。ミットフォードとはその後、イギリスに帰って引退後亡くなるまで親交することに。

また、パークスの訓令で、予定された大名会議や長州征伐の事後処理、兵庫開港問題や一橋慶喜の動向などの情報収集のために長崎を訪問。慶応2年(1866年)末から慶応3年(1867年)始めには鹿児島、宇和島、兵庫を訪問、大坂から来た西郷隆盛に薩摩藩の考えを聞き、宇和島では前藩主伊達宗城父子に歓迎されたそう。

3-3、慶喜の外国公使謁見の通訳を

将軍となった慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出、その件と兵庫開港問題などについて情報収集するために、サトウらは慶応3年(1867年)2月に兵庫、大坂を訪問し、その際薩摩の小松帯刀とも会見。4月にパークスが慶喜に拝謁した際、サトウは通訳を務めたが、パークスは慶喜に対して非常に肯定的な評価を。サトウは後に西郷隆盛の来訪の際に、幕府とフランスが提携しているためにイギリスは薩摩を援助する用意があるとまで発言したが、西郷は外国の助けは不要と謝絶。西郷と将来の日本の政治体制について話をしたということ。

3-4、サトウ、東海道を旅行し襲撃にあう

慶応3年(1867年)、イギリス公使一行の大坂で新将軍慶喜との会見後、サトウと画家のチャールズ・ワーグマンは陸路大坂から江戸へと珍道中。途中4月24日、誰もが避ける厄介な日光例幣使一行の噂を聞き、遭遇しないように先に掛川宿に到着したが、夜半に12人ほどの凶漢がサトウらの宿を襲撃。しかし護衛の侍が撃退してサトウらは無事。凶漢の落とした提灯で日光例幣使一行のしわざと判明、数ヶ月後、凶漢とこの事件に関係した他の3人が江戸に檻送されて審問を受け、2人が死刑で1人は獄死し、4人が遠島に。

サトウ、新翻訳語を工夫
サトウは江戸幕府の将軍と京都の天皇の関係を看破、当時の日本の政局も把握。最初は条約などの訳文で将軍を大君として、女王と同等のMajesty(陛下)を使っていたが、それでは将軍の上の位の天皇と女王では、女王が天皇より下位になることに気が付いたということ。また当時のイギリス君主はヴィクトリア女王、日本語で女王は、天皇の曾孫にあたる女性の名称。
そこで、ヴィクトリア女王はインド皇帝でもあり、Emperorならば男性女性関係ない称号となっていたため、ヴィクトリア女王と天皇を同等に、女王と天皇をEmperor、敬称をMajesty(陛下)、将軍はHighness(殿下)で大君を使わなくなったということ。なぜ日本の天皇がキングではくエンペラーなのかはこれが元の理由かも。

3-5、サトウ、土佐で山内容堂らと会見も

サトウは7月、日本海側の貿易港選定のため、パークスに随行して箱館経由で日本海を南下し、新潟、佐渡、七尾を調査。サトウは七尾でパークスと別れ、ミットフォードと共に陸路(北陸道)を通って大坂まで旅行。 その後、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(後に誤報と判明)で、阿波経由でパークス公使と土佐へ行き、後藤象二郎を交渉相手として、前藩主山内容堂にも謁見。

そして土佐藩船「夕顔」で下関経由で長崎で、桂小五郎(木戸孝允)と初会見。サトウは桂に「するすると言ってしないのは老婆の理屈と言って、西洋では男子として恥ずべき事といいます」とからかったので、倒幕の出兵に慎重だった桂は、イギリスの若い通訳にあんまりなこと言われちゃった恥ずかしいと落ち込んで龍馬に手紙を書いたそう。

\次のページで「3-6、サトウ、維新の現場の真っただ中に」を解説!/

3-6、サトウ、維新の現場の真っただ中に

慶応3年(1867年)12月、大政奉還の詳細を探知するためと、兵庫開港の準備のためにミットフォードとともに大坂に行き、後藤象二郎、西郷隆盛、伊藤博文らと会談。
慶応4年(1868年)1月、サトウは兵庫開港準備に伴う人事で通訳の最高位の日本語書記官に昇進。王政復古の大号令で京都を離れ大坂城に入った慶喜とパークスの謁見で通訳。そして鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北、慶喜は大坂城を脱出、サトウらは旧幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動。

3-7、サトウ、神戸事件に遭遇、初の京都入りも

慶応4年(1868年)1月、備前岡山藩兵が外交団を銃撃という神戸事件が勃発、サトウらも現場にいたが、解決のため兵庫に派遣されてきた新政府使節東久世通禧とパークスらとの会談で通訳。

その後、ウィリスが招聘されて鳥羽伏見の戦いの戦病傷者治療のために大坂、京都に派遣されたのに同行。サトウは西郷隆盛、後藤象二郎、桂小五郎、品川弥二郎、大久保利通らと会談、情報収集に。

そして神戸に戻り、神戸事件の責任者とされた備前岡山藩士滝善三郎の切腹に臨席。またすぐに土佐藩士による堺事件が起き、事件解決後にサトウは京都に赴いて、三条実美や岩倉具視を訪問。明治天皇の謁見に赴くパークスに随行したときに起こったパークス襲撃事件では、サトウは馬に乗っていたが馬の鼻先を斬られただけで無事。

イギリス外交団が横浜に戻った後、江戸で主に勝海舟から情報収集に。その後、大坂でパークスの信任状奉呈式に同行し、このとき初めて天皇に謁見(醜いとあけすけな感想を)。また北越戦争下の新潟視察、ロシアの国後島、択捉島占領の真偽確認のために蝦夷地を旅行。明治2年( 1869年)、パークスとともに、東京で天皇に再度謁見。

4-1、賜暇帰国と再来日、日本人女性と結婚

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サトウは明治2年(1869年)賜暇で帰国。イギリスでは父の別荘で過ごし、新潟領事にというイギリス外務省の提示を断ったそう。そして明治3年(1870年)11月、賜暇を終えて再来日。明治4年(1871年)、鹿児島から上京した西郷隆盛と会見。 代理公使アダムズらと箱根、江ノ島に旅行。廃藩置県後、アダムズと岩倉具視との会談、木戸孝允との会談などで通訳を。木戸孝允と会って新しい太政官三院八省制について説明をうけたり、岩倉具視と会って、条約改正準備のための遣外使節団派遣、キリスト教解禁問題、日清修好条規をめぐる攻守同盟疑惑について話し合ったということ。また関東一円を旅行し、明治維新後の変化を調査。

この頃、日本人女性武田兼と結婚、後にふたりの息子が誕生、次男の久吉は後にイギリス留学し著名な植物博士に。サトウは書記官としてのかたわら日本中を旅行し、のちに旅行記も執筆。明治8年(1875年)、2度目の賜暇で帰国。

4-2、サトウ、3度目の来日と西南戦争

サトウは明治10年(1877年)1月に日本に戻ったが、パークス公使の命で直ちに鹿児島視察に派遣。鹿児島で医学校校長をしていた親友のウィリアム・ウィリスに会い、外国人退去命令を伝え、出陣前の西郷隆盛にも会ったが、ほとんど話をせずじまいに。サトウの鹿児島滞在中に西南戦争が勃発。明治16年(1883年)3度目の賜暇で帰国。

その後サトウは、シャム(タイ)駐在総領事代理、シャムでは日本で活躍した医師のウィリアム・ウィリスを外務省を通じて呼び寄せ、シャムの医療の近代化に貢献。その後はウルグアイ駐在領事、モロッコ駐在領事を歴任。

4-3、サトウ、駐日特命全権公使に

明治28年(1895年)7月28日、52歳のサトウはサーの称号を得て、駐日特命全権公使として再来日。東京には5年間勤務したが、途中の明治30年(1897年)にはヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国。女王陛下に謁見時には、日本語は難しいんじゃないのとお言葉をかけられたそう。その頃の日本は、日清戦争に勝利、明治28年(1895年)4月17日に下関条約を締結、4月23日には三国干渉により遼東半島を清へ返還。サトウは明治32年(1899年)日本での治外法権撤廃に立ち会うことに。イギリスは極東におけるロシアの動きを警戒、知日家のサトウ公使の在任中から日英同盟への動きも芽生えていたはず。

尚、現在もある駐日英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたものだそう。

\次のページで「4-4、サトウ、駐清公使に出世」を解説!/

4-4、サトウ、駐清公使に出世

サトウは明治33年(1900年)に駐清イギリス公使になり、明治39年(1906年)まで6年間北京に滞在、義和団の乱の後始末と日露戦争を見届け、離任時は北京から日本に立ち寄って家族に会った後に帰国。

4-5、サトウの晩年

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サトウは明治39年(1906年)、イギリス枢密院顧問官になり、明治40年(1907年)には第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使として出席。引退後はイギリス南西部デヴォン州オタリセントメアリ村で著述に従事。日本研究ではキリシタン研究の先駆けとなり、様々な研究書を刊行。昭和4年(1929年)8月26日86歳で死去。

5-1、サトウの逸話

才気煥発、じつに有能で積極的に志士と交わり情報収集を行った人なので、色々な逸話があります。

5-2、日本人以上の日本通かも

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平尾道雄著「海援隊始末記」によると、サトウは幕府の役人に日本語が上手だと褒められて「おだてともっこには乗りたくねえ」と江戸前のたんかを切り、相手を面食らわせたということ。また鹿児島弁も理解したというので、天才的な語学力。日本研究についても、明治初期に日本を旅行して旅行記を書いた女性旅行家イザベラ・バードは、学者としてのサトウの評判を「日本人自身が他に追随を許さないと認めているほど」と。サトウの死後、ケンブリッジ大学などに寄贈された、貴重な古書も含まれたサトウの蔵書を調べた林望氏は、サトウのコレクションは大変バランスよく偏りがないという意味のコメントを。また日光が好きでサトウが建てた中禅寺湖の別荘はイギリス大使の別荘として公開されているそう。

5-3、西郷隆盛のファンだった

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エドアルド・キヨッソーネ - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

サトウは西郷に会ったとき「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑に何とも知れぬ親しみがあった」と回想録で描写、これは写真が残っていない西郷の貴重な印象では。また、西南戦争勃発の前にも、ウィリスがいたとはいえわざわざ鹿児島に西郷に会いに行ったくらい。

5-4、坂本龍馬は知らなかった

サトウは、明治以前に西郷を始め、大久保利通や小松帯刀らの薩摩藩の面々、長州藩では木戸孝允、井上馨、伊藤博文、高杉晋作(宍戸刑馬)、勝海舟、山内容堂、伊達宗城、鍋島直正、徳川慶喜、松平容保、松平定敬、明治天皇にまで会っているが、坂本龍馬は知らなかったということ。ただし「長崎で知った才谷梅太郎が殺された」という文は登場するので、イカルス号事件で土佐へ船で行ったとき、一緒に船に乗っていた、ぼさぼさした蓬髪で汚らしい桔梗の紋の着物を着た行儀の悪い大柄な侍を見たはずなんですが。

サトウの偉業はもっと多くの人に知られてもいいはず

サトウは日本に憧れて19歳で通訳官として来日、日本語を半年ほどで会得。そして、激動の幕末で情報収集をして正確に分析、重大な歴史的事件を次々目撃して回想録や旅行記を著しました。

それ以上に新しい日本を生み出すために奔走していたほぼ同世代の志士たちと親交を結び、外交官の枠を超えて議論をしたりするうちに、薩摩と長州が中心となり幕府を倒して新政府を作ると見通して、彼ら志士が知りたがる議会制度とか色々な情報を提供、明治維新に導いた一人と言っても過言ではないはず。サトウの残した「一外交官の見た明治維新」他の著書はまさに彼が立ち会った幕末、明治の様子が生き生きとわかり、司馬遼太郎氏は「記者になっていたら歴史に名を残した」と絶賛するほど。

サトウはまた日本学者の先鞭として様々な研究成果をまとめ、文明開化で忘れられていく文化財や書物も収集、自身も外交官として成功をおさめ、その後の駐日イギリス外交官にも大変な影響を与えたというマルチぶり、今後五本でもイギリスでももっと注目されて、大河ドラマの主役として描かれてもいいほどの偉人ではないでしょうか。

" /> 外交官の枠を超えて明治維新に貢献した「アーネスト・サトウ」青い目の志士について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治明治維新歴史

外交官の枠を超えて明治維新に貢献した「アーネスト・サトウ」青い目の志士について歴女がわかりやすく解説

今回はアーネスト・サトウを取り上げるぞ。イギリス人外交官で幕末の志士に顔が広かったんだって。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、憧れのアーネスト・サトウについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、サトウはイギリスのロンドン生まれ

サトウは天保14年(1843年)6月30日、11人兄弟の4番目3男としてロンドンのクラプトンで誕生。父は、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(サトウ出生時はスウェーデン領)のハンス・デーヴィッド・クリストファー、母はイギリス人のマーガレットで旧姓メイソン。サトウは「種をまく人」という意味でアングロサクソン系では珍しいが、日本ではよくある名前として覚えられやすく得することに。

フルネームはアーネスト・メイソン・サトウ。日本名は佐藤愛之助、または 薩道愛之助、雅号は薩道静山。

1-2、サトウ、飛び級で大学へ

サトウの父はドイツ系移民で英国国教徒ではなく、プロテスタントのルーテル派の信者。なのでサトウは、中産階級で英国国教徒ではない子弟でも入れるプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学して、1859年首席で卒業、そして学生の宗教を問わない大学であるユニヴァーシティ・カレッジオブロンドンに、飛び級の16歳で進学、19歳で卒業。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストを名門ケンブリッジ大学に進学させたかったが、まだ階級差別の激しい頃で学位を取れる保証がなかったということ。

1-3、日本との出会い

サトウは、兄が図書館で借りて来た「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、さらにペリーの日本遠征記で理解を深めたということ。そして、1861年に大学の図書館で、イギリス外務省の日本での通訳生募集広告を見て、両親の許可をもらって試験を受け、首席で合格。イギリス外務省の方針でまず清国の北京で数か月漢字を学習、そして日本へ。

2-1、サトウ、通訳生として来日

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パブリック・ドメイン, リンク

文久2年8月15日(1862年9月8日)、19歳のサトウはイギリス駐日公使館の通訳生として横浜に着任。当初、代理公使のジョン・ニールはサトウに事務仕事を与えたので、思うように日本語の学習ができなかったが、その後午前中に、アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師高岡要、徳島藩士沼田寅三郎らから日本語を学んだということ。

また同僚には、後に親友となる外交官兼医官のウィリアム・ウィリス、画家兼通信員のチャールズ・ワーグマン、通訳生にはドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男のアレクサンダーも。

2-2、来日約1週間後、生麦事件が勃発

サトウの回想録によると、医師のウィリスが馬を駆って真っ先に生麦事件の現場へ駆けつけ、けが人の手当てを。イギリス公使館は、生麦事件とその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題について幕府との交渉を行い、サトウも加わったが、当時のサトウはまだ通訳はできず。幕府とイギリス公使館は、それぞれのオランダ語通訳を介して交渉にあたったそう。

サトウの初めて日本語通訳としての仕事は、文久3年(1863年)6月24日付けの小笠原長行から代理公使ニールへの手紙で、5月10日をもって攘夷を行うと将軍家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容を翻訳。ウィリスがわがことのように喜んでくれたそう。

2-3、薩英戦争に従軍し、薩摩に友達が

文久3年(1863年)8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、代理大使のニール大佐は薩摩藩との交渉のため、クーパー提督に7隻の艦隊を組織させて鹿児島に。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発。サトウ自身も薩摩藩船青鷹丸の拿捕に立会ったときに、五代友厚、松木弘安(寺島宗則)が捕虜に。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃。

2-4、サトウ、日本語ペラペラになり友達が続々と出来る

サトウはこの頃から日本語が流ちょうなイギリス人外交官として名前が売れてきたそう。そして後に公使館近くの高輪に家を借りて住んだが、近所には薩摩藩下屋敷や、赤坂の勝海舟邸にも近かったせいで、幕臣から討幕派まで千客万来、リキュールやイギリスの食べ物でもてなし、何時間でも彼らと議論。

サトウは先進国から来た人間として、議会制度とか色々と志士たちの知りたい情報を教えることができたのと、同じ若者として理想に燃えて新しい国や制度を作ろうとする志士たちと話が合ったのでは。

2-5、サトウ、伊藤博文らと知り合う

サトウは元治元年(1864年)、イギリスに帰国するか悩むが、帰任した駐日公使オールコックが昇進に尽力を約束、日本に留まることを決意。オールコックはサトウを事務仕事から解放したので日本語の学習に励めたし、ウィリスと同居して親交を深めるように。

オールコック公使は、長州藩の下関の外国船砲撃、幕府の横浜鎖港の要求などを軍事力を用いてでも打破しようと考えていたところ、7月に長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)と志道聞多(しじぶんた 後の井上馨)がイギリス留学から急遽帰国。横浜のイギリス公使館へ飛び込んでサトウらと話した後、イギリス公使館は伊藤と志道を軍艦で長州まで送り届けることに。志道らは必死で戦争回避のために長州藩上層部を説得するも、内部が攘夷で盛り上がっているところをいまさら外国との戦争をやめとは言えないという結果で戦争勃発。尚、このときからサトウと伊藤の文通が始まったということ。

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