
平城上皇と嵯峨天皇の対立とその行方
自分が病に倒れた原因は早良親王の怨霊の祟りだと怖れた平城天皇、そこで平城天皇は神野親王へと譲位して上皇へとなります。ここは少々名前が複雑ですが、天皇が退位すると上皇になるため、実際に退位した平城天皇は平城上皇になりました。
また、譲位された神野親王は嵯峨天皇となりますが、ここで平城上皇は昔の都となる平城京へと移り住んでしまい、嵯峨天皇と対立してしまいます。さらに平城上皇は「平安京を廃止して平城京へと遷都する」と命じた勅書を出し、今一度都を平城京へと移す計画が立てられました。
しかし、平城京への遷都は嵯峨天皇が阻止したことで中止、対立していた平城上皇は仏門に入っていったそうです。こうして、日本の都は現在の京都府京都市にあたる平安京の時代が長く続いていき、794年から始まった平安京は一説では1869年の明治時代まで続いたとされています。
寺院の建設を認めた平安京
長岡京から平安京へと遷都を行った際、これまでと大きく違った点が一つあります。それは、長岡京では認めなかった寺院の建設を認めたことで、そもそも長岡京は寺院の勢力を削ぐ目的で平城京から遷都されましたが、平安京においてそれは長岡京の時ほど重視されませんでした。
最も、完全に認めたわけではなく、認められたのはあくまで仏教や様々な知識を持つ優秀な僧侶に限られており、また政治とは無縁の寺院に限って建設することが許可されたのです。さて、平安京の時代は長く続いても天皇が政治の主導権を握る時代が長く続いたわけではありません。
平安時代の中期には藤原氏が勢力を高め、摂関政治によって天皇以上の権力を握ることに成功します。しかしそれも長くは続かず、藤原氏の勢力が弱くなると今度は白河上皇による院政が始まり、そして平氏が権力を握って以降は武士の時代が幕を開けることになるのです。
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