
桓武天皇が長岡京へ遷都を行った理由1
長岡京は桓武天皇によって784年に平城京から遷都されましたが、そもそもなぜ桓武天皇は遷都を行おうとしたのでしょうか。これにはいくつか理由があり、まず立地の問題が挙げられるでしょう。平城京は水上交通の便が悪く、一方の長岡京には大きな川が存在しており、水が不足することはありません。
交通は陸上とは限らず、水上においても重要だったため、水が豊富な上に水路を使用できる点は長岡京の大きな魅力だったのです。また、血筋の問題も遷都を行った理由の一つとされており、これまでの平城京や藤原京を使用していたのは天武天皇の血筋の天皇でした。
しかし桓武天皇は天智天皇の血筋であり、これは珍しいことだったのです。と言うのも、天智天皇は天武天皇の兄にあたるのですが、その天智天皇の皇太子が天武天皇との争いに敗北したため、以後天武天皇の血筋の天皇が続いていました。そこで、桓武天皇は天武天皇の血筋が造営した平城京を捨て、新たな都を造営したのではないかとされています。
桓武天皇が長岡京へ遷都を行った理由2
桓武天皇が長岡京に遷都した理由としてもう一つ挙げられるのが、寺院の勢力を削ぐためです。平城京の周囲には、特別な区画の中に興福寺や元興寺などの寺院が存在しており、政治に意見するほどの力を持っていたとされています。そのため、桓武天皇はこうした寺院の勢力を削ぐために遷都したのではないかとも言われているのです。
また、桓武天皇の側近である藤原種継(ふじわらのたねつぐ)も長岡京への遷都を勧めていますが、ただしこれは長岡京の近くに藤原種継の親族が住んでいたためとされていますね。こうした理由で遷都を行ったと考えられますが、長岡京は立地についても充分検討されています。
藤原京、平城京に遷都した時の反省点を活かした立地が選ばれており、水上交通の便の良さはまさしくそれにあたるでしょう。さて、このような流れで長岡京は完成しますが、意外にもその歴史はたった10年と短く、再び長岡京から平安京へと遷都されることになるのでした。
藤原種継暗殺事件
長岡京への遷都を行い、ここから桓武天皇の歴史が始まろうとしていた矢先に暗殺事件が起こります。暗殺されたのは藤原種継……そう、桓武天皇の側近が何者かに暗殺されてしまったのです。この暗殺事件には多くの役人が関与していましたが、桓武天皇にとって驚くべき事実が発覚します。
その驚くべき事実とは、暗殺事件に関与した者の中に桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)が含まれていたのです。信頼する側近を殺害した弟に対して桓武天皇は激怒、淡路島への流刑を決めますが、早良親王は無実を訴え続けて抗議の意味で絶食、ついには衰弱して淡路島への道中に死去してしまいました。
早良親王が本当に無実だったのかは分かりませんが、早良親王が死去したことをきっかけに長岡京では大きな問題が次々と発生するようになります。悪天候による飢饉、水害、疫病の流行、桓武天皇の肉親の死去……それはまるで、無実を訴え続けて無念にも命を落とした早良親王の祟りのようでした。
早良親王の祟り
次々と起こる問題に対して、陰陽師の占いの結果では「早良親王の怨霊による祟り」と出ます。怖れた桓武天皇は早々に遷都を決断、こうしてわずか10年で長岡京の歴史は幕を閉じることになったのです。最も、理由が理由ですから、遷都を行う先の場所は風水に基づいた四神相応の考えが取り入れられました。
こうして決まった場所が現在の京都市であり、誰もが知る平安京が造営されたのです。平安京もまた山や川が美しく、景色だけでなく陸上や水上においての交通の便の良さがあり、遷都を行う際には桓武天皇がその光景を見渡して「美しいところ」と口にしたほどでした。
ただ、そんな平安京も一時は再度平城京に遷都を行おうとする事態になります。桓武天皇が死去した後、後を継いだのは桓武天皇の息子である平城天皇でしたが、平城天皇は早くも病に倒れてしまい、それもまた早良親王の怨霊による祟りではないかと恐れられたのです。
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