昔の日本において、天皇が政治を行う都はたびたび遷都してその場所を移しており、平城京や平安京は特に有名でしょう。
しかし、平城京と平安京の間には長岡京と呼ばれる都がたった10年間だけ存在していたことを知っているでしょうか。今回は、そんな長岡京について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から長岡京をわかりやすくまとめた。
日本初の本格的な都・藤原京
日本で初めて本格的な都の造営を行ったのは676年のことで、それまで都は一代ごと、もしくは一代の天皇において数度の遷宮(せんぐう)を行うこともありました。そんな中、天武天皇は永続的な国家の首都をつくることを望み、676年に藤原京の造営を開始したのです。
場所は現在の奈良県橿原市にあたり、永続的な国家の首都の造営である点から大規模な建設工事になりました。676年に工事が開始された藤原京が完成したのは704年、造営を指示した天武天皇は既に死去しており、完成したのは次代の天皇となった持統天皇の時だったのです。
持統天皇、文武天皇、元明天皇、3代に渡って藤原京は使用されてその役目を終えました。最も、永続的な国家の首都を目指した割には天皇3代という期間は短く思えるかもしれません。これは衛生上の問題が理由の一つに挙げられており、場所柄の高低差の問題から汚水が流れ込んで疫病などが流行したのではないかと言われています。
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藤原京から平城京への遷都
藤原京が完成した704年、その3年後である707年には都の遷都(せんと)が審議されています。そして、審議された新たな都こそあの有名な平城京であり、710年に天明天皇によって造営されました。平城京の場所は現在の奈良県奈良市にあたるため、藤原京との距離はさほど遠くはありません。
藤原京から平安京への遷都を決断したのは元明天皇でしたが、元明天皇は先代の天皇・文武天皇の母でもあります。最も、本来なら文武天皇の後を継ぐのは息子の首皇子(おびとのおうじ)のはず、しかし当時まだ幼かったため例外的に元明天皇が即位する形をとったのです。
そんな平城京の歴史は長く、長岡京に遷都するまでの74年間使用されていきます。政治の中心地として長く栄えた平城京ですが、ただ長岡京に遷都した後は一変して衰退してしまい、現在でもわずかに面影が残っているのは東大寺や興福寺の門前町くらいでしょう。
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