日本史歴史鎌倉時代

再びの元襲来!「弘安の役」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

弘安の役に勝利した日本

撤退しようとする元軍に対して日本軍が攻撃を仕掛けます。日本軍は伊万里湾にいる元軍に総攻撃、肥後の御家人である竹崎季長が伊万里湾に残っていた元軍の船を残らず追い払い、さらに伊万里湾の鷹島で待機していた元軍にも総攻撃を仕掛けました。10万人以上の元軍の兵は、次々と討たれていきます。

こうして弘安の役でも勝利した日本軍、ただ活躍した御家人の多くに言えるのは、国を守るために戦ったわけではないということでした。「執権・北条氏に逆らえば殺されてしまう」、「戦いで手柄を上げれば評価されて褒美が貰える」……このような気持ちで御家人は戦っていたのです。

最も、封建社会の御家人の考えとしては至って自然かもしれませんが、御家人のこの考えは鎌倉幕府の信頼を揺るがすことになり、それが後の鎌倉幕府滅亡の要因になっていきます。1274年の文永の役1281年の弘安の役……2度に渡って起きた元の日本侵略行為を元寇と呼び、元寇後の日本では鎌倉幕府が衰退の道を辿っていくのでした。

「御恩と奉公」の崩壊

鎌倉幕府の政治政策において、主従関係を確かなものにしたのが「御恩と奉公」です。「下の者は上の者に奉公して働き、上の者は下の者の働きに対して御恩をして恩恵を与える」……これが御恩と奉公の仕組みですが、元寇ではこの仕組みどおりに進めることができませんでした。

と言うのも、本来御恩とは領地を与えるものであり、その領地とは奉公による戦いの敗者から奪うものだったためです。現代に例えるなら、戦いによって東京の武士が長崎の武士を討ち取れば、東京の武士に長崎の領地を与えるという仕組みになります。

この仕組み上、御恩と奉公は国内の戦いのみにおいて成立するものであり、元寇のような外国との戦いでは成立せず、元に勝利したところで元から奪う領地はないのです。このため御家人は御恩を得られず、それが不満となって鎌倉幕府の信頼低下を招く要因になってしまうのでした。

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「御恩と奉公」の大きな欠点は外国との戦いにおいては無効だった点で、そもそも幕府は外国との戦いを想定していなかったのかもしれないな。元寇に勝利した日本だったが、御恩を得られない御家人の不満は高まっていったのだ。

弘安の役は文永の役とセットで覚えることが必須!

弘安の役は単体で覚えても勉強には活かせず、あくまで文永の役とセットで覚えることが必要です。「文永の役+弘安の役=元寇」が一つの図式で成り立っており、出題としても弘安の役が単体で出題されることはほとんどありません。

このため文永の役も同様に覚え、弘安の役とまとめて元寇と呼ぶところまでしっかり覚えておきましょう。紛らわしいのは台風の到来による神風で、これが起こったのは弘安の役のみであり、文永の役による神風は現在訂正されています。

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shintomoyui0311