日本史

再びの元襲来!「弘安の役」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

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日本も元もまだ戦いが終わっていないことは分かっており、そのため文永の役後はお互い次の戦いに向けて準備を進めていた。ちなみに、日本が元の襲来に備えて築いた元寇防塁は上の写真のもので、元軍が容易に侵攻できないようになっている。

2度目の元襲来、1281年・弘安の役

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元軍の作戦

1281年の弘安の役では、使者を殺害された怒りからなのか、元は文永の役の何倍もの兵力で日本に攻めてきます。東路軍と呼ばれる元と高麗の連合軍が約40000人江南軍と呼ばれる元が支配した南宋……すなわち旧南宋の軍が約10万人、合計14万人ほどの兵が史上最大規模の艦隊を率いて日本に向かっていきました。

また、元軍は次のような作戦を立てており、内容は「東路軍は対馬・壱岐島を経て博多湾に上陸、壱岐島で江南軍と合流して一斉に大宰府を攻める」というものでした。しかし、対馬で捕えた日本人から「日本軍は大宰府にいない」との情報を得たため、東路軍は江南軍と合流するのを待たずに博多湾に上陸しようとしました。

しかし、日本人の話した情報は真っ赤なウソ、実際には元軍襲来に備えて多くの武士が大宰府で待機していたのです。一方、博多湾上陸を目指す東路軍でしたが、目の前に映ったのは文永の役の時にはなかった防塁でした。元寇防塁による石の壁に阻まれて博多湾には上陸できず、そこで東路軍は陸と繋がる志賀島へと一旦上陸します。

巨大な台風の到来

志賀島へと上陸した東路軍、そして密かにそれを待ち構えていたのが日本軍でした。日本軍は東路軍に夜襲を仕掛けて勝利、敗北した東路軍はこのままでは全滅してしまうと焦り、当初の作戦どおり大部隊である江南軍と合流するため壱岐島へと戻ります

しかし一向に現れない江南軍、待機している間にも日本軍の総攻撃を受ける東路軍は、疫病の流行もあって多くの死者を出してしまいました。絶体絶命の東路軍でしたが、ここでようやく江南軍到着の情報が入って合流、元軍が反撃開始しようとしたその時のこと、夜中に大型の台風がやってきたのです。

確かに台風の時期ではありましたが、運命のいたずらとも言える狙って訪れたかのような大型台風の到来によって元軍の艦隊も次々と沈没していきます。兵も船も失った元軍にもはや勝機はなく、相談した末に日本からの撤退を決断しますが、日本軍がそれを大人しく見逃すはずはありませんでした

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ここは少々紛らわしい。文永の役で起こった台風は誤りだと訂正されたが、弘安の役では台風が起こっており、それが元軍撤退の要因となった。ただ戦闘においても日本軍は善戦しており、元寇防塁は見事その役割を果たしたのだ。

元寇の終わりとその後の日本

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shintomoyui0311