日本史

再びの元襲来!「弘安の役」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

元軍の猛威と応戦する日本軍

対馬に辿り着いた元軍、この時対馬守護代の宗資国が用件を尋ねたところ、突然軍船から矢が放たれました。そして1000人もの元軍が上陸して攻めてきたため宗資国もこれに対して応戦、元軍は佐須裏を焼き払って対馬の勢力を倒し、女性や子供にも非道な行為を行います。

さらに今度は壱岐島へと侵攻していく元軍、ここでも守護代の平景隆が応戦しますが食い止められず、敗北した平景隆は自害しました。怒涛の勢いで攻める元軍は次に肥前沿岸へと侵攻していき、これを食い止めようとした肥前の御家人は戦死、日本軍は元の侵攻を阻むことができません。

しかし、日本軍も負けてばかりではありませんでした。博多へと上陸した元軍に対して総大将・少弐景資率いる日本軍が応戦、赤坂の戦いと呼ばれるこの戦いでは日本軍が勝利しており、足場の問題で不利だった元軍は敗走しますが、日本軍がこれを追い詰めています。

日本軍の勝利と神風の誤り

追い詰める日本軍に対して元軍が再び攻撃、一度は窮地に陥る日本軍でしたが援軍が加勢したことで形勢逆転、ここでも日本軍は勝利して元軍を敗走されています。元軍の1度目の日本侵攻である文永の役は、最終的に日本軍が元軍を何とか追い払って勝利したのです。

ちなみに、以前は文永の役における日本軍の勝因として「台風が起こって神風と呼ばれる暴風雨によって元軍が撤退した」と説明されていました。しかし現在では誤りとされており、「元軍が撤退したのは神風ではなく日本軍に苦戦したため」と説明が改定されています。

さて、こうして見事元軍を追い払った文永の役は1274年のことですが、元の2度目の襲来となる弘安の役はその7年後となる1281年に起こりました。つまり、文永の役と弘安の役の間には7年間の空白があることになり、日本と元はこの期間に何を行っていたのでしょうか。

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今回の勉強は弘安の役がメインだが、弘安の役の前に文永の役が起こったことは無視できず、「文永の役+弘安の役=元寇」とセットで覚えよう。文永の役のポイントは「神風の暴風雨はなかった」と現在では訂正されていることだな。

日本と元、それぞれの7年

image by PIXTA / 37402885

元の再度襲来に備える日本

文永の役が終わった後、日本ではとある策が打ち出されていました。文永の役で勝利したとは言え、あくまでそれは元軍を追い払っただけであり、完全に征伐したわけではありません。そのため、「元はいずれまた必ず襲撃してくるに違いない!」……日本はそう考えていたのです。

そこで1つの目の策として高麗討伐計画を立てました。もちろん敵は元ですが、高麗は既に元の支配下になっており、文永の役で攻めてきたのも元と高麗の連合軍でしたからね。このため「今度はこちらから攻めてやる!」の勢いで日本は高麗に侵攻しようとしたのです。

そして2つ目の策として防塁を造る計画を立てました。高麗討伐が攻めの計画なら防塁を造ることは守りの計画であり、元の襲来に備えて博多湾に防塁を築き、これは元寇防塁と呼ばれて現在でもその跡が残っています。ちなみに、元寇防塁や警固強化に人員を割いたため、高麗討伐計画は延期となりました。

南宋攻略を果たして日本征服を狙う元

一方の元ですが、やはり日本征服を諦めておらず、日本に降伏を促すための使徒を送ります。その使徒の名は杜世忠(とせいちゅう)、日本に使節団を派遣しますが、日本は降伏するどころか杜世忠を殺害、元に対して宣戦布告とも受け取れる強固な姿勢を見せました。

また、元は日本征服と同時に南宋攻略にも力を入れており、決着つかずだった南宋との戦いですが1276年についに決着、南宋に勝利した元はまた一つ支配下を増やします。これで残す目的は日本征服ですが、杜世忠が殺害されたことを知らない元は1279年に再び使節団を日本に派遣、ここでもまた使節団は殺害されたのです

杜世忠を始め、日本に派遣した使節団が殺害されたことをようやく知ったフビライハンは当然怒り、降伏ではなく戦争で日本を征服しようと決意、そのための準備を着々と進めていきました。こうして年月が経過する中、1281年に2度目の元の日本襲来となる弘安の役が起こるのです。

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shintomoyui0311