今日は弘安の役について勉強していきます。

弘安の役とは1281年に起こったモンゴル帝国による2度目の日本侵略で、ポイントは「2度目」という点……つまり、1度目もあったのです。

ちなみに1度目は文永の役と呼ばれ、2度目の弘安の役とあわせて元寇と呼ぶ。今回は弘安の役をテーマにしつつ、この一連の流れについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から弘安の役をわかりやすくまとめた。

最大最強のモンゴル帝国・元

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南宋攻略の糸口は「日本の支配」

そもそも、なぜモンゴル帝国は日本を侵略しようとしたのでしょうか。そこで弘安の役はもちろん、1度目の日本侵略となる文永の役が起こるさらに以前まで歴史を遡ってみましょう。1259年のこと、朝鮮半島の国・高麗が強大な国との戦いの末に敗れて降伏、そしてその国とはフビライハン率いるモンゴル帝国で、と呼ばれる国でした。

元は高麗を支配しただけでなく、その領土を中国大陸からヨーロッパまで広げており、まさに史上最大かつ最強の帝国へと成長していたのです。そんな元が次に目をつけて領土にしようとしたのが中国の南宋でしたが、その戦いには苦戦しており決着がつかない状態が続いていました。

そんな中、高麗人である元の官吏がフビライハンに提言します。「これまで高麗は日本に使徒を送って交流しており、南宋攻略のために我々も日本と交流すべきではないか」……日本を属国にすればさらに戦力は高まって南宋攻略も可能になると考えたフビライハンは、この提言に賛成して日本に使徒を送ることにしたのです。

日本と元の戦争

最も、交流とは言っても元のそれは征服に等しく、使徒が脅迫めいた国書を日本に渡したことから、明らかに元は日本を征服しようと考えていたのでしょう。それは日本にとって大きな危機でしたが、当時鎌倉幕府の執権だった北条時宗は気丈にもこれを無視、元の度重なる国書を無視し続けたことで日本と元と戦争は避けられない運命となりました。

こうしたいきさつから当然フビライハンは日本征服を正式に表明、日本に使徒を派遣する中で日本侵攻計画を進めていきます。一方の日本もただ戦争の時を待っているわけではなく、元の襲来に備えて御家人達に戦場と予想される場所での悪党討伐警固の強化を指示していました。

元は日本を征服するため、また日本は元の侵略から国を守るために準備を進める中、ついに両国の戦争が起こります。1274年の10月、元は40000人ほどの兵力にもなる高麗との連合軍を結成、軍船で対馬の小茂田浜に襲来して1度目の戦いとなる文永の役がここに発生しました。

1度目の元襲来、1274年・文永の役

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元軍の猛威と応戦する日本軍

対馬に辿り着いた元軍、この時対馬守護代の宗資国が用件を尋ねたところ、突然軍船から矢が放たれました。そして1000人もの元軍が上陸して攻めてきたため宗資国もこれに対して応戦、元軍は佐須裏を焼き払って対馬の勢力を倒し、女性や子供にも非道な行為を行います。

さらに今度は壱岐島へと侵攻していく元軍、ここでも守護代の平景隆が応戦しますが食い止められず、敗北した平景隆は自害しました。怒涛の勢いで攻める元軍は次に肥前沿岸へと侵攻していき、これを食い止めようとした肥前の御家人は戦死、日本軍は元の侵攻を阻むことができません。

しかし、日本軍も負けてばかりではありませんでした。博多へと上陸した元軍に対して総大将・少弐景資率いる日本軍が応戦、赤坂の戦いと呼ばれるこの戦いでは日本軍が勝利しており、足場の問題で不利だった元軍は敗走しますが、日本軍がこれを追い詰めています。

日本軍の勝利と神風の誤り

追い詰める日本軍に対して元軍が再び攻撃、一度は窮地に陥る日本軍でしたが援軍が加勢したことで形勢逆転、ここでも日本軍は勝利して元軍を敗走されています。元軍の1度目の日本侵攻である文永の役は、最終的に日本軍が元軍を何とか追い払って勝利したのです。

ちなみに、以前は文永の役における日本軍の勝因として「台風が起こって神風と呼ばれる暴風雨によって元軍が撤退した」と説明されていました。しかし現在では誤りとされており、「元軍が撤退したのは神風ではなく日本軍に苦戦したため」と説明が改定されています。

さて、こうして見事元軍を追い払った文永の役は1274年のことですが、元の2度目の襲来となる弘安の役はその7年後となる1281年に起こりました。つまり、文永の役と弘安の役の間には7年間の空白があることになり、日本と元はこの期間に何を行っていたのでしょうか。

日本と元、それぞれの7年

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元の再度襲来に備える日本

文永の役が終わった後、日本ではとある策が打ち出されていました。文永の役で勝利したとは言え、あくまでそれは元軍を追い払っただけであり、完全に征伐したわけではありません。そのため、「元はいずれまた必ず襲撃してくるに違いない!」……日本はそう考えていたのです。

そこで1つの目の策として高麗討伐計画を立てました。もちろん敵は元ですが、高麗は既に元の支配下になっており、文永の役で攻めてきたのも元と高麗の連合軍でしたからね。このため「今度はこちらから攻めてやる!」の勢いで日本は高麗に侵攻しようとしたのです。

そして2つ目の策として防塁を造る計画を立てました。高麗討伐が攻めの計画なら防塁を造ることは守りの計画であり、元の襲来に備えて博多湾に防塁を築き、これは元寇防塁と呼ばれて現在でもその跡が残っています。ちなみに、元寇防塁や警固強化に人員を割いたため、高麗討伐計画は延期となりました。

南宋攻略を果たして日本征服を狙う元

一方の元ですが、やはり日本征服を諦めておらず、日本に降伏を促すための使徒を送ります。その使徒の名は杜世忠(とせいちゅう)、日本に使節団を派遣しますが、日本は降伏するどころか杜世忠を殺害、元に対して宣戦布告とも受け取れる強固な姿勢を見せました。

また、元は日本征服と同時に南宋攻略にも力を入れており、決着つかずだった南宋との戦いですが1276年についに決着、南宋に勝利した元はまた一つ支配下を増やします。これで残す目的は日本征服ですが、杜世忠が殺害されたことを知らない元は1279年に再び使節団を日本に派遣、ここでもまた使節団は殺害されたのです

杜世忠を始め、日本に派遣した使節団が殺害されたことをようやく知ったフビライハンは当然怒り、降伏ではなく戦争で日本を征服しようと決意、そのための準備を着々と進めていきました。こうして年月が経過する中、1281年に2度目の元の日本襲来となる弘安の役が起こるのです。

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2度目の元襲来、1281年・弘安の役

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元軍の作戦

1281年の弘安の役では、使者を殺害された怒りからなのか、元は文永の役の何倍もの兵力で日本に攻めてきます。東路軍と呼ばれる元と高麗の連合軍が約40000人江南軍と呼ばれる元が支配した南宋……すなわち旧南宋の軍が約10万人、合計14万人ほどの兵が史上最大規模の艦隊を率いて日本に向かっていきました。

また、元軍は次のような作戦を立てており、内容は「東路軍は対馬・壱岐島を経て博多湾に上陸、壱岐島で江南軍と合流して一斉に大宰府を攻める」というものでした。しかし、対馬で捕えた日本人から「日本軍は大宰府にいない」との情報を得たため、東路軍は江南軍と合流するのを待たずに博多湾に上陸しようとしました。

しかし、日本人の話した情報は真っ赤なウソ、実際には元軍襲来に備えて多くの武士が大宰府で待機していたのです。一方、博多湾上陸を目指す東路軍でしたが、目の前に映ったのは文永の役の時にはなかった防塁でした。元寇防塁による石の壁に阻まれて博多湾には上陸できず、そこで東路軍は陸と繋がる志賀島へと一旦上陸します。

巨大な台風の到来

志賀島へと上陸した東路軍、そして密かにそれを待ち構えていたのが日本軍でした。日本軍は東路軍に夜襲を仕掛けて勝利、敗北した東路軍はこのままでは全滅してしまうと焦り、当初の作戦どおり大部隊である江南軍と合流するため壱岐島へと戻ります

しかし一向に現れない江南軍、待機している間にも日本軍の総攻撃を受ける東路軍は、疫病の流行もあって多くの死者を出してしまいました。絶体絶命の東路軍でしたが、ここでようやく江南軍到着の情報が入って合流、元軍が反撃開始しようとしたその時のこと、夜中に大型の台風がやってきたのです。

確かに台風の時期ではありましたが、運命のいたずらとも言える狙って訪れたかのような大型台風の到来によって元軍の艦隊も次々と沈没していきます。兵も船も失った元軍にもはや勝機はなく、相談した末に日本からの撤退を決断しますが、日本軍がそれを大人しく見逃すはずはありませんでした

元寇の終わりとその後の日本

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弘安の役に勝利した日本

撤退しようとする元軍に対して日本軍が攻撃を仕掛けます。日本軍は伊万里湾にいる元軍に総攻撃、肥後の御家人である竹崎季長が伊万里湾に残っていた元軍の船を残らず追い払い、さらに伊万里湾の鷹島で待機していた元軍にも総攻撃を仕掛けました。10万人以上の元軍の兵は、次々と討たれていきます。

こうして弘安の役でも勝利した日本軍、ただ活躍した御家人の多くに言えるのは、国を守るために戦ったわけではないということでした。「執権・北条氏に逆らえば殺されてしまう」、「戦いで手柄を上げれば評価されて褒美が貰える」……このような気持ちで御家人は戦っていたのです。

最も、封建社会の御家人の考えとしては至って自然かもしれませんが、御家人のこの考えは鎌倉幕府の信頼を揺るがすことになり、それが後の鎌倉幕府滅亡の要因になっていきます。1274年の文永の役1281年の弘安の役……2度に渡って起きた元の日本侵略行為を元寇と呼び、元寇後の日本では鎌倉幕府が衰退の道を辿っていくのでした。

「御恩と奉公」の崩壊

鎌倉幕府の政治政策において、主従関係を確かなものにしたのが「御恩と奉公」です。「下の者は上の者に奉公して働き、上の者は下の者の働きに対して御恩をして恩恵を与える」……これが御恩と奉公の仕組みですが、元寇ではこの仕組みどおりに進めることができませんでした。

と言うのも、本来御恩とは領地を与えるものであり、その領地とは奉公による戦いの敗者から奪うものだったためです。現代に例えるなら、戦いによって東京の武士が長崎の武士を討ち取れば、東京の武士に長崎の領地を与えるという仕組みになります。

この仕組み上、御恩と奉公は国内の戦いのみにおいて成立するものであり、元寇のような外国との戦いでは成立せず、元に勝利したところで元から奪う領地はないのです。このため御家人は御恩を得られず、それが不満となって鎌倉幕府の信頼低下を招く要因になってしまうのでした。

弘安の役は文永の役とセットで覚えることが必須!

弘安の役は単体で覚えても勉強には活かせず、あくまで文永の役とセットで覚えることが必要です。「文永の役+弘安の役=元寇」が一つの図式で成り立っており、出題としても弘安の役が単体で出題されることはほとんどありません。

このため文永の役も同様に覚え、弘安の役とまとめて元寇と呼ぶところまでしっかり覚えておきましょう。紛らわしいのは台風の到来による神風で、これが起こったのは弘安の役のみであり、文永の役による神風は現在訂正されています。

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日本史歴史鎌倉時代

再びの元襲来!「弘安の役」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は弘安の役について勉強していきます。

弘安の役とは1281年に起こったモンゴル帝国による2度目の日本侵略で、ポイントは「2度目」という点……つまり、1度目もあったのです。

ちなみに1度目は文永の役と呼ばれ、2度目の弘安の役とあわせて元寇と呼ぶ。今回は弘安の役をテーマにしつつ、この一連の流れについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から弘安の役をわかりやすくまとめた。

最大最強のモンゴル帝国・元

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南宋攻略の糸口は「日本の支配」

そもそも、なぜモンゴル帝国は日本を侵略しようとしたのでしょうか。そこで弘安の役はもちろん、1度目の日本侵略となる文永の役が起こるさらに以前まで歴史を遡ってみましょう。1259年のこと、朝鮮半島の国・高麗が強大な国との戦いの末に敗れて降伏、そしてその国とはフビライハン率いるモンゴル帝国で、と呼ばれる国でした。

元は高麗を支配しただけでなく、その領土を中国大陸からヨーロッパまで広げており、まさに史上最大かつ最強の帝国へと成長していたのです。そんな元が次に目をつけて領土にしようとしたのが中国の南宋でしたが、その戦いには苦戦しており決着がつかない状態が続いていました。

そんな中、高麗人である元の官吏がフビライハンに提言します。「これまで高麗は日本に使徒を送って交流しており、南宋攻略のために我々も日本と交流すべきではないか」……日本を属国にすればさらに戦力は高まって南宋攻略も可能になると考えたフビライハンは、この提言に賛成して日本に使徒を送ることにしたのです。

日本と元の戦争

最も、交流とは言っても元のそれは征服に等しく、使徒が脅迫めいた国書を日本に渡したことから、明らかに元は日本を征服しようと考えていたのでしょう。それは日本にとって大きな危機でしたが、当時鎌倉幕府の執権だった北条時宗は気丈にもこれを無視、元の度重なる国書を無視し続けたことで日本と元と戦争は避けられない運命となりました。

こうしたいきさつから当然フビライハンは日本征服を正式に表明、日本に使徒を派遣する中で日本侵攻計画を進めていきます。一方の日本もただ戦争の時を待っているわけではなく、元の襲来に備えて御家人達に戦場と予想される場所での悪党討伐警固の強化を指示していました。

元は日本を征服するため、また日本は元の侵略から国を守るために準備を進める中、ついに両国の戦争が起こります。1274年の10月、元は40000人ほどの兵力にもなる高麗との連合軍を結成、軍船で対馬の小茂田浜に襲来して1度目の戦いとなる文永の役がここに発生しました。

1度目の元襲来、1274年・文永の役

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