

今回はその経緯と影響ついて、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/kei
10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回はタラス河畔の戦いをわかりやすくまとめた。
大帝国の躍進
8世紀には東西にいくつかの帝国が存在しました。そのうち、西暦751年に起こったタラス河畔の戦いにおいて戦うことになる帝国は、唐とアッバース朝イスラム帝国ですが、戦いの経緯について解説する前に、両帝国が激突したタラス川についてと、両帝国を取り巻く情勢についてまとめておきたいと思います。
タラス河の地理
Background layer attributed to DEMIS Mapserver, map created by Shannon1 – Background and river course data from http://www2.demis.nl/mapserver/mapper.asp, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
まず、タラス河畔の地理的な位置づけについて確認しておきますね。
タラス河畔の戦いの舞台となったタラス川は、天山山脈の雪解け水が作る国際河川であり、現在のキルギスとカザフスタンに流れています。
東西交易路であるシルクロード沿い、東西交易を担うソグド人が住まうソグディアナの一角にありました。ここから南に進めばインドへ、東に進めば中国、北に進めばロシア(ルーシー)、西に進めばイランです。四方を強国に囲まれたこの地は、経済的な交易路でもあることに加えて軍事的な要衝でもありました。

ソグディアナ近隣の名称は時代により異なっている。イスラム化が進んだ7世紀頃は、この辺りのアラル海南岸のオアシス一帯を指してマー・ワラー・アンナフル(アム川の向こうの土地、の意味)と呼び、東方からテュルク系遊牧民が広範に進出した現代では、中国領の新疆まで含めてトルキスタンと呼ぶ。
タリム盆地を中心とした中国領の新疆は東トルキスタン、それ以西は西トルキスタンと分かれる。
強大なアジアの二大帝国
次に、唐とアッバース朝イスラム帝国の、西暦751年当時の情勢について、順にみていきたいと思います。
東アジアの覇権国家「唐」
西暦751年、中国では唐の時代でした。
西晋滅亡後の分裂状態を収めて中国を再統一した隋王朝(西暦581年~618年)が、失政により短期間で滅んだ後、唐(西暦618年~907年)が中国を統一。唐は第二代皇帝・李世民(太宗:在位626年~649年)及び第三代皇帝・李治(高宗:在位649年~683年)の下で積極的な対外拡張策を進め、それまでの中華帝国では最大の領土を獲得しています。
高宗の后であった則天武后により唐は一時中断していたものの、第6代皇帝・李隆基(玄宗:在位712年~756年)の下で、善政(開元の治)により国内情勢が安定。その最盛期を迎えます。
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