古代の東アジアにおいて、8世紀のアジアには超大国が二つ存在した。現在の中東地域を中心としたアッバース朝と中国の唐です。この二大国が国境を接することで起こった戦いがタラス河畔の戦いです。

今回はその経緯と影響ついて、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回はタラス河畔の戦いをわかりやすくまとめた。

大帝国の躍進

8世紀には東西にいくつかの帝国が存在しました。そのうち、西暦751年に起こったタラス河畔の戦いにおいて戦うことになる帝国は、アッバース朝イスラム帝国ですが、戦いの経緯について解説する前に、両帝国が激突したタラス川についてと、両帝国を取り巻く情勢についてまとめておきたいと思います。

タラス河の地理

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まず、タラス河畔の地理的な位置づけについて確認しておきますね。
タラス河畔の戦いの舞台となったタラス川は、天山山脈の雪解け水が作る国際河川であり、現在のキルギスとカザフスタンに流れています。
東西交易路であるシルクロード沿い、東西交易を担うソグド人が住まうソグディアナの一角にありました。ここから南に進めばインドへ、東に進めば中国、北に進めばロシア(ルーシー)、西に進めばイランです。四方を強国に囲まれたこの地は、経済的な交易路でもあることに加えて軍事的な要衝でもありました。

強大なアジアの二大帝国

次に、唐とアッバース朝イスラム帝国の、西暦751年当時の情勢について、順にみていきたいと思います。

東アジアの覇権国家「唐」

西暦751年、中国ではの時代でした。
西晋滅亡後の分裂状態を収めて中国を再統一した隋王朝(西暦581年~618年)が、失政により短期間で滅んだ後、唐(西暦618年~907年)が中国を統一。唐は第二代皇帝・李世民(太宗:在位626年~649年)及び第三代皇帝・李治(高宗:在位649年~683年)の下で積極的な対外拡張策を進め、それまでの中華帝国では最大の領土を獲得しています。
高宗の后であった則天武后により唐は一時中断していたものの、第6代皇帝・李隆基(玄宗:在位712年~756年)の下で、善政(開元の治)により国内情勢が安定。その最盛期を迎えます。

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中東の宗教帝国・イスラム帝国

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トムル - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

8世紀の中東地域は、7世紀にムハンマドを開祖としてアラビア半島で成立したイスラム教が、イベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)から中央アジア(現在のイラン・キルギス)までの広大な地域を席巻していました。
イスラム教徒を母体としてアラビア半島で成立したイスラム共同体は、武力により異教徒の国家を制圧。当時、中東地域の覇権を巡って争っていた、東ローマ帝国とササン朝ペルシアとの間に殴り込みを掛け、ヤルムークの戦いに勝利して西暦641年に東ローマ帝国からシリアとエジプトを奪い、西暦642年にニハーヴァンドの戦いに勝利して西暦651年にササン朝ペルシアを滅亡させています。

新興のイスラム帝国「アッバース朝」

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Gabagool - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる

イスラム帝国にとって、西暦751年頃は、重要な王朝の交代の節目でもありました。
それまでイスラム帝国を治めていたウマイヤ朝(西暦661年~750年)は、マワーリー(非アラブ人であるイスラム教徒)やシーア派等のウマイヤ家の支配に反発する層を取り込んだ有力者アッバース家により、反乱を起こされて西の果てイベリア半島まで追い落とされてしまいます。その反乱の発端となったのは、ソグディアナの南西に隣接するホラサーン地方(現代のイラン北東部。太陽の登る地の意味)であり、ウマイヤ朝イスラム帝国の旧領の大部分(添付地図の緑色)を引き継いで、西暦750年にアッバース朝が建国されたばかりでした。

タラス河畔の戦いまで

善政により最盛期を迎えて国力が充実する唐と、新興したばかりで勢いに乗るアッバース朝イスラム帝国。この東西両帝国の激突まで、どのような経緯を辿ったのでしょうか。

唐の西域浸食

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西暦750年、唐の西域将軍として安西節度使の職に就いていた高句麗系の将軍・高仙芝は、更なる領土拡大のため西域諸国を蹂躙します。
交易の実利を得るために南方から西域を狙う親吐蕃勢力の駆逐を進めることを念頭に、キルギット国やチトラル国など、親吐蕃勢力を相次いで攻撃。滅ぼされた国のうちの一国である石国(現在のウズベキスタンの首都であるタシュケント)では、王家の財宝を奪った上で、王を長安に送ってから殺害。
唐軍の敵対する者に対しての容赦の無さは、近隣オアシス諸国を震撼させたようです。

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アッバース朝軍の出撃

石国の滅亡に際して逃れることが出来た石国の王子は、アッバース朝に唐の横暴を訴えます。ホラサーン地方を治めるアッバース朝総督・アブー・ムスリムは、部下のズィヤード・イブン・サリーフを10万の兵とともに出撃させました。
ちなみにアブー・ムスリムは、アッバース朝建国の功臣です。ウマイヤ家打倒を図るアッバース家の放った扇動者(ダーイー)としてホラサーン地方に赴き、非アラブ人という理由から来る差別に対して不満を抱くマワーリーを糾合。反乱軍を決起して遠くクーファ(現在のイラク中部)まで進撃し、アッバース朝の初代カリフとなるアブー・アル=アッバース(サッファーフ)を推戴しています。
対する高仙芝は、部下の李嗣業を伴い、タラス城に漢族及びカルルク族など周辺民族合わせて数万の兵を率いて入城。こうして、東西二大帝国は軍事衝突に進むことになりました。

戦闘

TALAS RIVER.JPG
Thermokarst - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

西暦751年7月、ズィヤード率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、タラス河畔で激突することになりました。これが、タラス河畔の戦いです。
戦闘中、唐軍の背後に陣取っていたテュルク系遊牧民カルルク族が突如寝返ったため、唐軍は総崩れ。李嗣業が開いた血路を通って高仙芝は退却したものの、敗残兵は1万人に満たず、戦いは唐の惨敗に終わります。

タラス河畔の戦いの影響

タラス河畔の戦いは、その後の歴史に大きな影響を与えることとなりました。以下、主なものを3つ挙げてみます。

覇権国家・唐の西進が止まる

それまでの中華帝国において最大の版図を得て拡大を続けていた唐ですが、アッバース朝に敗北することにより、その支配はタリム盆地に限定されることになります。タリム盆地の南側から吐蕃が進出を試みた他、北側にはモンゴル高原からテュルク系のウイグル帝国が進出。唐の本国であった黄河流域でも安史の乱が起こったことから、唐とアッバース朝と再戦の機会はなく、中央アジアを抜けて中東地域にまでその覇権が再び及ぶことは遂にありませんでした。

宗教帝国・アッバース朝の影響を受けて中央アジアのイスラム化が進む

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唐を追いやり中央アジアの安全を確保したアッバース朝により、在地のソグド人やテュルク系諸民族にイスラム教が更に広まることになりました。
アブー・ムスリムに従ってアッバース革命に参加した在地豪族の末裔によるターヒル朝(西暦821年~873年)、サーマーン朝(西暦873年~999年)らが、アッバース朝カリフの権威の下、総督(アミール)としてホラサーン地方を支配。
後に、タラス河畔の戦いで唐軍を裏切ったテュルク系遊牧民カルルクの一派が建国したと言われるカラハン朝(西暦960年頃~1212年)が西進し、サーマーン朝は滅ぼされますが、カラハン朝の創始者と言われるサトゥクがイスラム教に改宗したことを契機に、テュルク系諸族もイスラム化が進んでいきました。
ちなみに、タラス河周辺の中央アジア各国の宗教人口の割合は、一覧にすると以下のようになります。イスラム教が圧倒的ですね。

・カザフスタン
  イスラム教 70%、キリスト教 25%
・キルギス
  イスラム教 75%、キリスト教 20%
・ウズベキスタン
  イスラム教 95%、その他 5%
・タジキスタン
  イスラム教 90%、その他 10%

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製紙法が中東に伝播する

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アッバース朝に捕虜となった唐の従軍兵に紙職人が居たため、それまで中国だけしか持っていなかった製紙法の技術が西域に広がっていくことになりました。戦後、中央アジアの中心都市・サマルカンドに製紙工場が出来ています。
ところで、紙の西への伝播はなぜ重要な事件となったのでしょうか。文明の基礎となる文字・言葉を書き起こした記録媒体は、以下のようなものがありましたね。しかし、それぞれ以下のような欠点を持っていました。

・パピルス
  エジプト発祥。薄く割いて乾燥させて作るが、制作に相当な時間が掛かる。
  また、折り曲げ出来ず、片面にしか書けない。
・羊皮紙
  小アジア発祥。制作に相当な時間が掛かり、高価。
・粘土板
  中東発祥。重くてかさばる。
・木簡/竹簡
  中国発祥。重くてかさばる。

紙は軽くて両面に書くことが出来、安価に大量に制作することが出来ることから、中東からヨーロッパ、さらにアメリカ大陸にまで伝播していきました。
イスラム圏を経て12世紀にようやくヨーロッパに伝わった製紙技術は、ドイツ人グーテンベルクが発明した活版技術、ドイツ人ケラーが発明した木材パルプ、フランス人ロベールが発明した紙抄き機により、書物の大量生産を可能とします。紙と書物の爆発的な流通は、世界文明の発展に大きく貢献することとなりました。

新興の大国による挑戦が成功した事例

唐とアッバース朝イスラム帝国の対戦は、文化圏・宗教圏などの面で後世の歴史に大きな影響を与えました。仮定の話として、戦争に至らずとも、平和裏に両国が文化交流すれば良かったのではないかという考え方もあると思います。しかしこれは、歴史の法則からするとあまり起こりえないことであるようです。
新興の大国が既存の大国へ挑戦し、既存の大国がそれに応じた結果、戦争がしばしば起こる。トゥキディディスの罠と呼ばれる歴史の法則で、紀元前5世紀の古代ギリシア・アテナの歴史家・トゥキディディスが説いた国際秩序の傾向で、大国が2つあると、互いの利害が合わずにどうしても戦争しやすくなるようです。
タラス河畔の戦いにおいては、西方への覇権拡大を狙いたかった唐とイスラム圏を守りたかったアッバース朝の利害の不一致があったというところでしょうか。現代において、日本周辺で同様のことが起こらなければよいのですが。

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古代の二大帝国・アッバース朝と唐が戦った「タラス河畔の戦い」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その経緯と影響についてまとめてみる

古代の東アジアにおいて、8世紀のアジアには超大国が二つ存在した。現在の中東地域を中心としたアッバース朝と中国の唐です。この二大国が国境を接することで起こった戦いがタラス河畔の戦いです。

今回はその経緯と影響ついて、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回はタラス河畔の戦いをわかりやすくまとめた。

大帝国の躍進

8世紀には東西にいくつかの帝国が存在しました。そのうち、西暦751年に起こったタラス河畔の戦いにおいて戦うことになる帝国は、アッバース朝イスラム帝国ですが、戦いの経緯について解説する前に、両帝国が激突したタラス川についてと、両帝国を取り巻く情勢についてまとめておきたいと思います。

タラス河の地理

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Background layer attributed to DEMIS Mapserver, map created by Shannon1 – Background and river course data from http://www2.demis.nl/mapserver/mapper.asp, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

まず、タラス河畔の地理的な位置づけについて確認しておきますね。
タラス河畔の戦いの舞台となったタラス川は、天山山脈の雪解け水が作る国際河川であり、現在のキルギスとカザフスタンに流れています。
東西交易路であるシルクロード沿い、東西交易を担うソグド人が住まうソグディアナの一角にありました。ここから南に進めばインドへ、東に進めば中国、北に進めばロシア(ルーシー)、西に進めばイランです。四方を強国に囲まれたこの地は、経済的な交易路でもあることに加えて軍事的な要衝でもありました。

強大なアジアの二大帝国

次に、唐とアッバース朝イスラム帝国の、西暦751年当時の情勢について、順にみていきたいと思います。

東アジアの覇権国家「唐」

西暦751年、中国ではの時代でした。
西晋滅亡後の分裂状態を収めて中国を再統一した隋王朝(西暦581年~618年)が、失政により短期間で滅んだ後、唐(西暦618年~907年)が中国を統一。唐は第二代皇帝・李世民(太宗:在位626年~649年)及び第三代皇帝・李治(高宗:在位649年~683年)の下で積極的な対外拡張策を進め、それまでの中華帝国では最大の領土を獲得しています。
高宗の后であった則天武后により唐は一時中断していたものの、第6代皇帝・李隆基(玄宗:在位712年~756年)の下で、善政(開元の治)により国内情勢が安定。その最盛期を迎えます。

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