平安京の造り
平安京のモデルとなったのは中国の唐の都・長安で、これは平城京も同じです。北部中央には天皇が政治を行う宮城(大内裏)があり、さらに中央には南北に走る朱雀大路、そこから左京と右京に分けられている構造になっていました。また、この場所には淀川が流れており、淀川は桂川、賀茂川、宇治川、木津川が合流した川でもあります。
桂川、賀茂川の合流地点付近には鳥羽の津が設けられ、ここは平安京の玄関口になっていました。このように、水上交通の便の良さが目立つ平安京ですが、北陸道と山陰道の中間に位置するこの場所は陸上交通の要でもあります。現在でも、京都の市街地には平安京当時の街路が今も残っていますよ。
こうして、平安京へと都が移された794年から約400年は平安時代と呼ばれる時代が続きますが、鎌倉時代、室町時代、江戸時代になっても平安京は続いていき、一説では1869年まで日本の首都であり続けたとされています。しかし、そんな平安京も一時期再び平城京へと遷都される話がありました。
平城上皇と嵯峨天皇の対立
794年に平安京へと都が移されて少し経った頃、806年に桓武天皇が死去したことで皇位を巡る対立が起こります。それは810年のこと、桓武天皇の後を継いだ桓武天皇の息子・平城天皇でしたが、すぐに病に倒れてしまい、その原因が早良親王の怨霊の祟りにあると怖れました。
そこで平城天皇は神野親王へと譲位します。皇位を譲った平城天皇は上皇となるため平城上皇となり、一方で皇位についた神野親王は天皇となるため嵯峨天皇と呼ばれるようになりました。そして、平城上皇は旧都の平城京へ移り住みますが、その後は嵯峨天皇と対立する関係になってしまったのです。
そんな中、平城上皇は「平安京と廃止と平城京への遷都」を指示する勅書を出しますが、嵯峨天皇がこれを阻止したことで平城上皇は出家します。こうして平安京は遷都することなくありその後も続けていきますが、一旦は長岡京同様に10年少しの期間で再び遷都されかけた時期がありました。
変化していく時代と歴史
平安京が続く中、時代は刻々と変化していきます。平安時代を境に奈良時代までの律令国家の構造が壊れていき、例えば公民公地を掲げていた律令制と180度概念が異なる荘園制度は奈良時代の律令国家構造崩壊の代表とも言えるでしょう。
荘園制度が誕生すると次第に天皇の権力が低下していき、そのため荘園は増えていってそれを守る武士の権力も高まっていきます。平安時代の末期である1160年代にはとうとう有力武士の一派・平氏による武家政権が誕生、平清盛は日本で初めて武家政権を築いた人物として歴史に名を残しました。
また文化においても変化が起こり、平安時代初期に栄えていた唐風文化にかわり、平安時代中期になると国風文化が栄えていきます。紫式部による「源氏物語」や清少納言による「枕草子」などの文化作品はこうした中で誕生したもので、さらに建築も次第に発展していきました。
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