今日は平安京について勉強していきます。

現在、日本の首都は東京ですがかつては違った。784年までは奈良の平城京が首都だったが、その後10年間は長岡京、そして794年には京都の平安京が首都となる。

現在の京都府京都市、京都市街にあった平安京は文字どおり平安時代の都であり、桓武天皇によって造営された。今回は平安京について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平安京をわかりやすくまとめた。

平城京から長岡京へ

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平城京から長岡京へ遷都した理由

そもそも桓武天皇はなぜ奈良の平城京から都を移したのでしょうか。このように都を他の地へと移すことを遷都(せんと)と呼びますが、桓武天皇が遷都を行った理由はいくつか考えられます。そして、その理由の一つとして挙げられているのが大和国から離れることです。

奈良の平城京は奈良県奈良市の「大和」と呼称される場所にあり、そこには天武天皇を支えていた貴族や寺社が多く存在していました。桓武天皇は血筋の理由から天智天皇系の都を造ろうとしており、そのため天武天皇の支持勢力が強い大和国からの遷都を考えたとされているのです。

また平城京では朝廷内で権力争いが勃発しており、当の桓武天皇もまたその争いによって即位した人物でした。桓武天皇はこうした権力争いをなくそうと考えており、その案として側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が平城京の放棄と遷都を勧めたのです。

藤原種継の暗殺と意外な人物の関わり

藤原種継の勧めによって遷都を決断した桓武天皇、新たな都の場所として決まったのは京都の南西に位置する長岡京でした。長岡京のある山崎津や淀津にはがあり、そのため太平洋や瀬戸内海からやってくる船がそのまま入れる環境でしたから、長岡京には平城京にはない水上の交通の便の良さがあります。

また、桓武天皇が信頼する側近の藤原種継の親族が近くに住んでおり、それもまた新たな都として長岡京を選んだ理由ではないでしょうか。ともあれ、784年に平城京から長岡京へと遷都されたのですが、長岡京の歴史はわずか10年しかなく、10年後……つまり794年に再び遷都が行われて平安京へと都が移っています。

では、なぜ長岡京はたった10年で都を再び移すことになったのか?……その原因とされているのが桓武天皇が信頼していた側近・藤原種継の暗殺です。この暗殺事件には多くの役人が関わっていましたが、驚くべきことに同じ皇族であり桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)まで関わっていたことが発覚しました

平安京の完成

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長岡京に降りかかる災いと早良親王の怨霊

藤原種継の暗殺に関わっていた早良親王は、その罪と罰によって乙訓寺(おとくにでら)へと幽閉されることが決まります。しかし早良親王は間もなく死亡、そして早良親王の死をきっかけに、奇妙なことに長岡京では深刻な問題が次々と起こるようになりました。

争い、飢饉、洪水、疫病……次々と起こる問題はまるで亡き早良親王がもたらす祟りのよう、そこで陰陽師に占いをさせてみたところ、早良親王の怨霊がもたらす祟りが原因だと告げられたのです。そのため桓武天皇は再びの遷都を決意、都を移す先には風水に基づく四神相応の考えが取り入れられました。

風水まで用いて慎重に検討された末、遷都する先は現在の京都にあたる山城国へと決まります。長岡京から10キロほどの距離にあるこの場所は、山や川の景色が美しく水上交通の便においても申し分ない土地でした。こうして794年、長岡京から平安京へと都が移されたのです

\次のページで「平安京の造り」を解説!/

平安京の造り

平安京のモデルとなったのは中国の唐の都・長安で、これは平城京も同じです。北部中央には天皇が政治を行う宮城(大内裏)があり、さらに中央には南北に走る朱雀大路、そこから左京右京に分けられている構造になっていました。また、この場所には淀川が流れており、淀川は桂川、賀茂川、宇治川、木津川が合流した川でもあります。

桂川、賀茂川の合流地点付近には鳥羽の津が設けられ、ここは平安京の玄関口になっていました。このように、水上交通の便の良さが目立つ平安京ですが、北陸道と山陰道の中間に位置するこの場所は陸上交通の要でもあります。現在でも、京都の市街地には平安京当時の街路が今も残っていますよ。

こうして、平安京へと都が移された794年から約400年は平安時代と呼ばれる時代が続きますが、鎌倉時代、室町時代、江戸時代になっても平安京は続いていき、一説では1869年まで日本の首都であり続けたとされています。しかし、そんな平安京も一時期再び平城京へと遷都される話がありました。

平安京と歴史の変化

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平城上皇と嵯峨天皇の対立

794年に平安京へと都が移されて少し経った頃、806年に桓武天皇が死去したことで皇位を巡る対立が起こります。それは810年のこと、桓武天皇の後を継いだ桓武天皇の息子・平城天皇でしたが、すぐに病に倒れてしまい、その原因が早良親王の怨霊の祟りにあると怖れました。

そこで平城天皇は神野親王へと譲位します。皇位を譲った平城天皇は上皇となるため平城上皇となり、一方で皇位についた神野親王は天皇となるため嵯峨天皇と呼ばれるようになりました。そして、平城上皇は旧都の平城京へ移り住みますが、その後は嵯峨天皇と対立する関係になってしまったのです。

そんな中、平城上皇は「平安京と廃止と平城京への遷都」を指示する勅書を出しますが、嵯峨天皇がこれを阻止したことで平城上皇は出家します。こうして平安京は遷都することなくありその後も続けていきますが、一旦は長岡京同様に10年少しの期間で再び遷都されかけた時期がありました。

変化していく時代と歴史

平安京が続く中、時代は刻々と変化していきます。平安時代を境に奈良時代までの律令国家の構造が壊れていき、例えば公民公地を掲げていた律令制と180度概念が異なる荘園制度は奈良時代の律令国家構造崩壊の代表とも言えるでしょう。

荘園制度が誕生すると次第に天皇の権力が低下していき、そのため荘園は増えていってそれを守る武士の権力も高まっていきます。平安時代の末期である1160年代にはとうとう有力武士の一派・平氏による武家政権が誕生、平清盛は日本で初めて武家政権を築いた人物として歴史に名を残しました。

また文化においても変化が起こり、平安時代初期に栄えていた唐風文化にかわり、平安時代中期になると国風文化が栄えていきます。紫式部による「源氏物語」や清少納言による「枕草子」などの文化作品はこうした中で誕生したもので、さらに建築も次第に発展していきました。

\次のページで「最大の疑問、平安京の平城京の違い」を解説!/

最大の疑問、平安京の平城京の違い

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平安京と平城京の違い・場所と大きさ

平安京について誰もが悩むのが平城京との違いです。そこで、平安京と平城京の違いを分かりやすくまとめてみます。まず、基本となるのが成立した時代と造営した天皇の違いで、平城京は奈良時代の710年に元明天皇が造営、平安京は平安時代の794年に桓武天皇が造営しました。

平城京の場所は奈良盆地の北部に位置しており、場所柄の問題で水の確保が難しく、衛生環境としてはあまり誇れるものではなかったようです。一方、平安京はその点が改善されており、多くの川に囲まれた現在の京都市周辺に作られました。最も、川に囲まれていることで川の氾濫などには厳重な警戒と対策が必要とされたようです。

どちらも中国の唐の都・長安をモデルにしているためか大きさは同じくらいですね。ただ、正確には「東西に約4.3キロメートルで南北約5キロメートルの平城京」に対して「東西に約4.5キロメートルで南北に約5.2キロメートルの平安京」、平安京の方が大きめに造営されていることが分かります。

平安京と平城京の違い・形と名称

都市区画整備を碁盤目状に配置する「条坊制(じょうぼうせい)」と呼ばれる方法で作られている平城京と平安京ですが、その形は全く違います。平城京では東西南北のほぼ正方形、さらに北東に外京が存在していますが、平安京はこれとは全く異なり綺麗な長方形になっているのです。

さらに名前の違いもいくつかあり、例えば天皇の住む場所を平城京では「宮」として「平城宮」と呼ぶのに対して、平安京では「大内裏」と呼び、これは「だいだいり」と読みます。また、その区域になる正門を平城京では「朱雀門」、平安京では「応天門」と呼ぶんのです。

最も、門においては羅城門が有名ですが、これは朱雀大路の南の端、都の南の正面に立っている大きな門になります。ちなみに芥川龍之介の羅生門と勘違いしてはいけません。羅生門は小説のタイトルであり、朱雀大路の南端にある大きな門は羅城門ですからね。

日本で初めて整備された都・藤原京

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藤原京の存在

日本の都と言えば平城京や平安京を連想しますが、日本で初めて整備された都はそのどちらでもなく藤原京でしょう。673年、日本の40代天皇に即位した天武天皇は天皇を中心とした中央集権国家を築くことを目指しており、そのために行った事業の一つが藤原京の造営になります。

と言うのも、天皇中心の国家となれば当然天皇の権力と権威を人々に示さなければならず、そのためには大きな都が必要だと考えたからです。最も、そこまでの大事業となると簡単には終わらず、実際に藤原京が完成したのはまだ先の694年……持統天皇が治めていた時代ですね。

これまでは、天皇がかわるごとに遷宮(せんぐう)を行ってその都度本殿を移していましたが、藤原京の造営によってその習慣は大きく変わり、代々天皇がかわっても都として使える美しくも巨大な藤原京が完成したのです。また、藤原京もやはり中国の都をモデルに建てられており、平城京や平安京同様の「条坊制」が用いられていました。

\次のページで「日本の都の歴史」を解説!/

日本の都の歴史

最も、日本で初めて整備された藤原京でしたが、その歴史はそれほど長くありません。せっかく完成した藤原京もわずか16年で平城京へと遷都されており、その理由としては「宮の位置を間違えていた」や「疫病が蔓延した」や「政治的な事情」など様々な説が挙がっています。

そして平城京から長岡京へ、長岡京から平安京へと都は遷都されていくのです。平安京は平安時代に文化の中心地となって栄えますが、1467年に起きた応仁の乱によって建物の大部分が燃えてしまい、そのため現在の京都の元になっているのは豊臣秀吉が復興した後の都の姿になります。

ちなみに、平安京の大きな特徴としてもう一つ「大極殿」の建造が挙げられるでしょう。これは、仏教勢力に対して天皇を権威を示すため、大内裏の中でも重要な行事を行う場を目立たせようとしたからで、都の造営は常に前回の反省点を考えて改善されており、常に長く栄える姿を想像して建てられていたのです。

平安京と平城京を比較する

平安京を覚えるポイントは、やはり平城京との比較です。平安京の特徴を覚えるのはあくまで基本であり、その特徴が平城京と比べてどう違うのかまで考えることが大切ですね。

最も、厳密には平安京の前には長岡京が存在しますが、名称が似ているためか平安京は平城京と比較されることがほとんどでしょう。都は造営されるたびに前回の問題点が改善されているため、造営時の課題や改善などの点に注目して覚えてみるのも興味が持てると思いますよ。

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平安時代日本史歴史

平城京との違いもバッチリ!「平安京」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は平安京について勉強していきます。

現在、日本の首都は東京ですがかつては違った。784年までは奈良の平城京が首都だったが、その後10年間は長岡京、そして794年には京都の平安京が首都となる。

現在の京都府京都市、京都市街にあった平安京は文字どおり平安時代の都であり、桓武天皇によって造営された。今回は平安京について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平安京をわかりやすくまとめた。

平城京から長岡京へ

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平城京から長岡京へ遷都した理由

そもそも桓武天皇はなぜ奈良の平城京から都を移したのでしょうか。このように都を他の地へと移すことを遷都(せんと)と呼びますが、桓武天皇が遷都を行った理由はいくつか考えられます。そして、その理由の一つとして挙げられているのが大和国から離れることです。

奈良の平城京は奈良県奈良市の「大和」と呼称される場所にあり、そこには天武天皇を支えていた貴族や寺社が多く存在していました。桓武天皇は血筋の理由から天智天皇系の都を造ろうとしており、そのため天武天皇の支持勢力が強い大和国からの遷都を考えたとされているのです。

また平城京では朝廷内で権力争いが勃発しており、当の桓武天皇もまたその争いによって即位した人物でした。桓武天皇はこうした権力争いをなくそうと考えており、その案として側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が平城京の放棄と遷都を勧めたのです。

藤原種継の暗殺と意外な人物の関わり

藤原種継の勧めによって遷都を決断した桓武天皇、新たな都の場所として決まったのは京都の南西に位置する長岡京でした。長岡京のある山崎津や淀津にはがあり、そのため太平洋や瀬戸内海からやってくる船がそのまま入れる環境でしたから、長岡京には平城京にはない水上の交通の便の良さがあります。

また、桓武天皇が信頼する側近の藤原種継の親族が近くに住んでおり、それもまた新たな都として長岡京を選んだ理由ではないでしょうか。ともあれ、784年に平城京から長岡京へと遷都されたのですが、長岡京の歴史はわずか10年しかなく、10年後……つまり794年に再び遷都が行われて平安京へと都が移っています。

では、なぜ長岡京はたった10年で都を再び移すことになったのか?……その原因とされているのが桓武天皇が信頼していた側近・藤原種継の暗殺です。この暗殺事件には多くの役人が関わっていましたが、驚くべきことに同じ皇族であり桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)まで関わっていたことが発覚しました

平安京の完成

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長岡京に降りかかる災いと早良親王の怨霊

藤原種継の暗殺に関わっていた早良親王は、その罪と罰によって乙訓寺(おとくにでら)へと幽閉されることが決まります。しかし早良親王は間もなく死亡、そして早良親王の死をきっかけに、奇妙なことに長岡京では深刻な問題が次々と起こるようになりました。

争い、飢饉、洪水、疫病……次々と起こる問題はまるで亡き早良親王がもたらす祟りのよう、そこで陰陽師に占いをさせてみたところ、早良親王の怨霊がもたらす祟りが原因だと告げられたのです。そのため桓武天皇は再びの遷都を決意、都を移す先には風水に基づく四神相応の考えが取り入れられました。

風水まで用いて慎重に検討された末、遷都する先は現在の京都にあたる山城国へと決まります。長岡京から10キロほどの距離にあるこの場所は、山や川の景色が美しく水上交通の便においても申し分ない土地でした。こうして794年、長岡京から平安京へと都が移されたのです

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