その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、ウィリアム・ウィリスは北アイルランド生まれ
- 1-2、ウィリス、長兄の支援で医学生に
- 1-3、ウィリス、ロンドンの病院に就職するも未婚の父に
- 2-1、ウィリス、幕末の日本に着任
- 2-2、ウィリスは通訳官のアーネスト・サトウと親友に
- 2-3、ウィリス、公使館の仕事と医官として多忙な日々を送る
- 2-4、ウィリス、神戸事件でも老婆を助ける
- 2-5、ウィリス、鳥羽伏見の戦いの負傷者を治療
- 2-6、ウィリス、東北戦線の官軍に医師として従軍
- 2-7、ウィリス、横浜軍陣病院の院長に
- 2-8、ウィリス、東京医学校校長に
- 3-1、ウィリス、鹿児島医学校兼病院院長に就任
- 3-2、ウィリス、日本人医師を育て鹿児島の人々の健康に大きく貢献
- 3-3、ウィリス、鹿児島で日本人女性と結婚
- 3-4、その後のウィリス
- 当時の最先端医療で戊辰戦争の負傷兵を治療し、明治後は医学者を育てた
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の駐日イギリス外交官には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウィリアム・ウィリスについて、5分でわかるようにまとめた。
1-1、ウィリアム・ウィリスは北アイルランド生まれ
ウィリアム・ウィリスは、1837年5月1日に北アイルランドのファマーナ州マグワイア―ス・ブリッジで7人きょうだいの4男として誕生。いわゆる毒親で暴力的な父が支配する貧しい家庭で育ち、幼い頃から家畜の群れの番をさせられ、なにか間違いを起こせばこん棒で打たれる日々。
尚、ウィリスが8歳から11歳の時にアイルランド大飢饉が起こり、百万人がアメリカへ移民など海外へ流出して人口が8分の1に減少したということ。
1-2、ウィリス、長兄の支援で医学生に
ウィリスは悲惨な子供時代だったが、先に開業医となっていた長兄ジョージの支援を受けて1855年に18歳でグラスゴー大学医学部を受験し、見事合格。医科大学予科の課程を修めた後に医学の名門エジンバラ大学に移り、1859年5月19日に22歳で医学士に。彼の卒業論文は「胃潰瘍論」で、「思慮のある試論」で「きわめて正確なもの」と評されたそう。
1-3、ウィリス、ロンドンの病院に就職するも未婚の父に
ウィリスはエジンバラ大学卒業後、ロンドンに移りミドルセックス病院の医局員に。しかしそこでマリア・フィクスという看護助手との間に息子が誕生。息子はエドワードと名付けられて、ウィリスの兄ジョージの養子に。若くして父となったウィリスは養育費を送る義務が出来、多くの給料を稼ぐ必要が。
ウィリスはマリアとは結婚したくなかったこともあり、海外駐在の外交官の募集で、500ポンド(現在の1000万円以上に相当)の大きな報酬を得るうえに、海外への派遣が冒険心をくすぐったということで、外交官試験を受けて合格、江戸駐在イギリス公使館の補助官兼医官として日本へ旅立つことに。
2-1、ウィリス、幕末の日本に着任
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ウィリスは文久2年(1863年)5月、25歳で駐日英国公使館の外交官、医官として幕末真っただ中の日本に来日。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇。その後、生麦事件の知らせを聞いたときは領事館にいたが、救急道具を持って誰よりも先に馬で走って現場に向かい、イギリス人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行ったということ。また文久3年(1863年)の薩英戦争に従軍してイギリス人負傷者の治療も行ったそう。
2-2、ウィリスは通訳官のアーネスト・サトウと親友に
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ウィリスは、文久2年(1863年)9月に通訳官として来日した19歳のアーネスト・サトウと同僚となり、生涯の親友として付き合うように。サトウは回想録で、ウィリスは事務仕事もよくこなし、前任者が怠っていた書類の整理整頓もきっちり最新式に改めた非常に有能な人物で、「勤勉さと正確な記憶力、動物や植物や鉱物などの面白い話題をあふれるばかりに持ち、心の広い人だった」と絶賛。ウィリスほど人情味のある医師はいないということで、ウィリスが側にいる限り駐日イギリス外交官たちは安心して仕事に打ち込めたはず。
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第二次東禅寺事件
文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備役だった松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。第一次東禅寺事件の後、公使のオールコックは幕府による警護が期待できないと、公使館を横浜に移転。しかし、オールコックの帰国中に代理公使となったジョン・ニールは東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護に。
東禅寺警備兵の一人だった松本藩士の伊藤軍兵衛は、東禅寺警備で自藩が多くの出費を強いられ、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害すれば自藩の東禅寺警備の任が解かれると考えたそう。そして伊藤は夜中にニール代理公使の寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見されて争い、彼らを倒したが負傷し、番小屋で自刃。
幕府は警備責任者を処罰、松本藩主松平光則に差控を命じて、イギリスとの間で賠償金交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生。幕府は翌年、生麦事件の賠償金とともに東禅寺事件に対しても1万ポンドを支払って解決。
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