今回はウィリアム・ウィリスを取り上げるぞ。幕末のイギリス外交官のひとりですが、戊辰戦争に医者として従軍したんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の駐日イギリス外交官には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウィリアム・ウィリスについて、5分でわかるようにまとめた。

1-1、ウィリアム・ウィリスは北アイルランド生まれ

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ウィリアム・ウィリスは、1837年5月1日に北アイルランドのファマーナ州マグワイア―ス・ブリッジで7人きょうだいの4男として誕生。いわゆる毒親で暴力的な父が支配する貧しい家庭で育ち、幼い頃から家畜の群れの番をさせられ、なにか間違いを起こせばこん棒で打たれる日々。

尚、ウィリスが8歳から11歳の時にアイルランド大飢饉が起こり、百万人がアメリカへ移民など海外へ流出して人口が8分の1に減少したということ。

1-2、ウィリス、長兄の支援で医学生に

ウィリスは悲惨な子供時代だったが、先に開業医となっていた長兄ジョージの支援を受けて1855年に18歳でグラスゴー大学医学部を受験し、見事合格。医科大学予科の課程を修めた後に医学の名門エジンバラ大学に移り、1859年5月19日に22歳で医学士に。彼の卒業論文は「胃潰瘍論」で、「思慮のある試論」で「きわめて正確なもの」と評されたそう。

1-3、ウィリス、ロンドンの病院に就職するも未婚の父に

ウィリスはエジンバラ大学卒業後、ロンドンに移りミドルセックス病院の医局員に。しかしそこでマリア・フィクスという看護助手との間に息子が誕生。息子はエドワードと名付けられて、ウィリスの兄ジョージの養子に。若くして父となったウィリスは養育費を送る義務が出来、多くの給料を稼ぐ必要が。

ウィリスはマリアとは結婚したくなかったこともあり、海外駐在の外交官の募集で、500ポンド(現在の1000万円以上に相当)の大きな報酬を得るうえに、海外への派遣が冒険心をくすぐったということで、外交官試験を受けて合格、江戸駐在イギリス公使館の補助官兼医官として日本へ旅立つことに。

2-1、ウィリス、幕末の日本に着任

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ウィリスは文久2年(1863年)5月、25歳で駐日英国公使館の外交官、医官として幕末真っただ中の日本に来日。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇。その後、生麦事件の知らせを聞いたときは領事館にいたが、救急道具を持って誰よりも先に馬で走って現場に向かい、イギリス人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行ったということ。また文久3年(1863年)の薩英戦争に従軍してイギリス人負傷者の治療も行ったそう。

2-2、ウィリスは通訳官のアーネスト・サトウと親友に

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ウィリスは、文久2年(1863年)9月に通訳官として来日した19歳のアーネスト・サトウと同僚となり、生涯の親友として付き合うように。サトウは回想録で、ウィリスは事務仕事もよくこなし、前任者が怠っていた書類の整理整頓もきっちり最新式に改めた非常に有能な人物で、「勤勉さと正確な記憶力、動物や植物や鉱物などの面白い話題をあふれるばかりに持ち、心の広い人だった」と絶賛。ウィリスほど人情味のある医師はいないということで、ウィリスが側にいる限り駐日イギリス外交官たちは安心して仕事に打ち込めたはず。

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第二次東禅寺事件
文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備役だった松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。第一次東禅寺事件の後、公使のオールコックは幕府による警護が期待できないと、公使館を横浜に移転。しかし、オールコックの帰国中に代理公使となったジョン・ニールは東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護に。

東禅寺警備兵の一人だった松本藩士の伊藤軍兵衛は、東禅寺警備で自藩が多くの出費を強いられ、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害すれば自藩の東禅寺警備の任が解かれると考えたそう。そして伊藤は夜中にニール代理公使の寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見されて争い、彼らを倒したが負傷し、番小屋で自刃。

幕府は警備責任者を処罰、松本藩主松平光則に差控を命じて、イギリスとの間で賠償金交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生。幕府は翌年、生麦事件の賠償金とともに東禅寺事件に対しても1万ポンドを支払って解決。

\次のページで「2-3、ウィリス、公使館の仕事と医官として多忙な日々を送る」を解説!/

生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人商人たちの一行を、供回りの薩摩藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件で、後にイギリスは報復として薩摩に軍艦を送って薩英戦争に。

2-3、ウィリス、公使館の仕事と医官として多忙な日々を送る

ウィリスは横浜居留地の夫人たちのお産に携わったり、コレラや天然痘などの治療も行ったりと、毎日が多忙な日々
文久3年(1864年)、ウィリスは横浜で初めての薬局(横浜ディスペンサリー)を元公使館医官ジェンキンズと共に開業し、予防医学の先駆的役割を果たしたが、これは薬剤師問題など最終的にうまくいかずに手放すことに。また幕府との覚書で国際疱瘡病院を設立、天然痘の予防接種を行った功績が高く評価。

慶応元年(1866年)には会計官兼務の首席補佐官に昇進して公使館業務の改善を行ったり、パークス公使や長崎の商人グラヴァーらと共に鹿児島に招待されて島津久光や西郷隆盛らと会見に同席し、下関や宇和島訪問にも同行して前藩主の伊達宗城にも会見し、また来日したフランス国王だったルイ・フィリップの孫と会見して江戸の名所を案内、慶応2年(1867年)にはパークス公使に随行して大坂城で15代将軍慶喜に謁見したり、パークス夫妻と共に富士山に登頂するなど、外交官としての任務も遂行。

2-4、ウィリス、神戸事件でも老婆を助ける

慶応4年(1868年)1月、備前岡山藩の兵が神戸で外国人に発砲した事件に遭遇したウィリスは、騒然となった後の現場へ駆けつけ、くるぶしに銃創を受けて動けなくなり放置されていた下層民の老婆を助けて治療したということ。

また、大坂で、京都から送還されてきた鳥羽伏見の戦いでの会津藩の負傷兵の治療を行ったそう。

2-5、ウィリス、鳥羽伏見の戦いの負傷者を治療

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦い後、薩摩の西郷隆盛らに頼まれて京都の相国寺(京都の薩摩藩邸の近く)で100名を超える負傷兵らを治療。

このときウィリスは数人の日本人医師を助手として、石炭酸を使用した手術室の消毒、クロロフォルム麻酔を使った最新の技術で、四肢切断などの大きな手術から銃弾除去など簡単な手術までの外科的処置を行い、多くの負傷兵を治療回復させたということ。このなかには首を貫通する銃創を負った西郷隆盛の弟の西郷従道も。尚、この時、ウィリスとサトウは開国後に朝廷の許可を受けて京都滞在を許された初の外国人に。

また、その後、酒豪で肝臓を病み大量の血を吐いたという土佐の前藩主山内容堂の治療も行い、容堂はウィリスのおかげで数年は生き永らえられたとウィリスの同僚のA・B・ミットフォード補佐官が。

ウィリスの学んだエジンバラ大学とは
今では手術は麻酔によって行われますが、じつは1840年代にはじめてクロロフォルム麻酔を使った外科手術を行ったのが、ウィリスが卒業したばかりのエジンバラ大学医学部で、卒業生にはあのシャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイルもいる名門校。

ウィリスは当時の最新医療を学んだ医師として、戊辰戦争でその技術を駆使して日本人を治療したのですね。尚、現在はクロロフォルムは発がん性などで使用不可に。

2-6、ウィリス、東北戦線の官軍に医師として従軍

鳥羽伏見の戦いでの薩摩兵の治療で高い評価を受けたウィリスは、東北線戦の官軍に請われ、パークス公使の許可を得て軍医として3か月も従軍。転戦先からイギリス公使館へ報告書は送るわ、負傷者の治療はするわの大忙しに。

また、ウィリスは敵である旧幕府軍の負傷兵を放置したり、捕虜を殺したり、敵を虐殺する兵士の蛮行に遭遇、博愛精神に基づき、敵味方の区別なく治療すべきと主張したところ、旧幕府軍、会津藩兵などの負傷者も運ばれてきて治療したということ。ウィリスの活動は、日本に赤十字が発足する契機になったそう。もちろんイギリス公使館へ送った報告書は当時を知るための重要な史料に。

2-7、ウィリス、横浜軍陣病院の院長に

慶応4年(1868年)、ウィリスは江戸と神奈川の副領事に昇進。また新政府軍は横浜に初の公立外科病院である軍陣病院を開設し、戊辰戦争傷病兵の治療に当たることになり、ウィリスは病院長として毎日200人もの患者の治療と多くの医師の指導でまた大忙しに。

官軍はウィリスに給料を払うつもりだったが、イギリス公使館所属の公務員のため、山内容堂の治療のときと同様に、ほとんど何も受け取らず無償の診療行為だったということ。

尚、横浜軍陣病院はその年の11月に閉院したが、その後江戸下谷の津藩邸に移転、そして旧幕府の医学所を含めた大病院、そして東京大学医学部へと進展。

2-8、ウィリス、東京医学校校長に

明治2年(1869年)、ウィリスは東京の副領事に復帰。そして戊辰戦争従軍での診療ぶりが認められ、明治天皇に謁見を賜り政府から感謝状、天皇からは感謝の品を。また、新政府の要請で外交官の身分を持ったまま、東京医学校兼病院(東京大学医学部前身)の創始者に、看護人として女性を採用したのは、東大病院看護婦の始まりということ。

しかし明治政府は、岩佐純、相良知安らの提言でドイツ医学を医学教育に採用することに決定し、イギリス医学のウィリスははじき出されて退職したが、相良知安の奔走もあり、弟を助けてもらった西郷隆盛が快諾して薩摩に招くことに。

\次のページで「3-1、ウィリス、鹿児島医学校兼病院院長に就任」を解説!/

3-1、ウィリス、鹿児島医学校兼病院院長に就任

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32歳となったウィリスは、イギリス公使館を辞職し、当時の総理大臣級だった大久保利通の500ドル以上の900ドルの月給で、鹿児島の西洋医院(翌年鹿児島医学校兼病院と改称)の院長として迎えられ、明治3年(1870年)から治療と医学教育を開始。

3-2、ウィリス、日本人医師を育て鹿児島の人々の健康に大きく貢献

ウィリスは鹿児島の浄光明寺跡(現南洲墓地)の医学校と、現在の鹿児島駅に近くにあった小川町滑川の赤レンガの病院(赤倉病院)で、英国式西洋医学を導入した診療、医学教育を行い,鹿児島の近代西洋医学の基礎を築いたということ。

わずか6年の鹿児島での滞在の間に、診療だけでなく、妊産婦の検診、温泉療法、健康、体力づくり、栄養問題や、上下水道完備の必要性の提言など、予防医学や公衆衛生面についても多大な貢献を。

ウィリスのおかげで鹿児島は西日本での医学の中心地となり、他県からも生徒が集まってきて、その生徒数は600人にもなり、ウィリスの門下生は、石神良策、三田村一、高木兼寛(海軍軍医総監・慈恵会医科大学の創設者)、上村泉三、中山晋平(初代鹿児島県医師会長)らも含まれ、なかでも高木兼寛は海軍の脚気を激減させたビタミンの父として有名。

高木兼寛
薩摩藩郷士の子として生まれ、18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争では薩摩藩兵の軍医として従軍。明治2年(1869年)に開成所洋学局に入学して英語と西洋医学を学び、明治3年(1870年)に鹿児島医学校に入学、校長のウィリスに認められて教授に抜擢された後に、明治5年(1872年)に軍医として海軍入り。

明治8年(1875年)イギリス海軍軍医の教官に認められて、イギリスの医学校に留学、イギリスの外科医、内科医、産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得して明治13年(1880年)に帰国。後の東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校を設立。一方では海軍医務局副長就任して以来、軍隊内部で流行していた脚気について、本格的に解決に取り組み、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、および死亡数が激減、高木は、明治17年(1884年)の軍艦「筑波」で航海実験も行い、兵食改革の必要性を説いたなど、日本の疫学研究のはしりとして日本の疫学の父とも呼ばれているということ。

3-3、ウィリス、鹿児島で日本人女性と結婚

明治4年(1871年)ウィリスは鹿児島で知り合った21歳の江夏八重と結婚、息子アルバートが誕生。島津久光のお側役を務めた八重の父の病気治療で知り合ったということで、才媛と言われた八重との結婚が保守的な薩摩になじむきっかけになったということ。

「ある英人医師の幕末維新」のなかで、著者の元日本大使のサー・ヒュー・コータッツィ氏はウィリスは「西南戦争がなければ鹿児島を墳墓の地として一生日本を去ることはなかったろう」と。

3-4、その後のウィリス

明治7年(1874年)、ウィリスは台湾に明治政府が出兵した3600名の兵のうち数百名がマラリアなどの伝染病に感染し送還されてきたのを治療して快復させたということ。

ウィリスは明治8年(1875年)に一年間の休暇で帰英して翌年再び鹿児島へ。しかし、明治10年(1877年)2月の西南戦争勃発で、外国人引き上げの達示があり、鹿児島医学校兼病院は閉鎖、ウィリスは妻子同伴で鹿児島を離れることに。

8月には妻子を東京に残して単身でイギリスに帰国。ウィリスは明治14年(1881年)に再来日して職を探したが、サトウによれば西南戦争後の余波で仕事が見つからず、2か月後にイギリスに帰国。

その後明治18年(1885年)1月に、アーネスト・サトウが総領事を務めていたタイ国バンコク駐在の英国総領事館付医官として着任、バンコク市内に大規模な私立病院を建て、国王ラーマ5世や王弟をはじめとして多くの患者の治療に当たり、チュラロンコーン王朝の全面的支援で王立医学校を設立。ウィリスは明治25年(1892年)、病気のために帰国するまでの8年間、タイの近代医学の基礎を築いて医療の発展に貢献。

1882年には名誉あるイングランド王立外科医師会フェロー号を得て、1893年、ケンブリッジ大学衛生学ディプロマを授与、また鹿児島の門下生らによって頌徳記念碑が建立されたということ。そしてウィリスは故郷のアイルランドへ帰り、明治27年(1894年)2月、閉塞性黄疸により57歳で死去。

イギリスの有名な医学雑誌「ランセット」にはウィリスの追悼記事が掲載、ウィリスと親交が深かった駐日大使パークスの書簡の一節が引用されたそう。

「私は自信をもって述べることができるのだが、有能なウィリスがたゆみない真摯な努力を傾注したことによって、日本における人道主義と医学の進歩が実質的に促進されたのは、ひとえに彼の功績である」

 

当時の最先端医療で戊辰戦争の負傷兵を治療し、明治後は医学者を育てた

ウィリアム・ウィリスは外交官試験を受けて来日した動機はナニでしたが、当時の最先端の医療技術者として、後から考えるとその頃の日本で最も必要とされていた人材のひとりだったのでありました。

そして否が応でも幕末の日本の動乱真っただ中に突入したウィリスは、2m近く100㎏以上ある大男で朴訥で誠実な人柄だったということ。生麦事件でイギリス人殺傷の一報を聞き、領事館を馬に乗って飛び出す姿は、アーネスト・サトウの回想のおかげで、まるで実際に見たような気持ちになるほどで、その後も激動の幕末において、まさに医師の鏡ともいえる姿で敵味方の区別なく治療にあたり、明治後は鹿児島で患者の治療と医学の講義で先進医療を教授、鹿児島大学医学部の前身を作りと大貢献。

ウィリスはその後、タイ国でも日本と同じように病院や医学校を創設して感謝されたということで、近代日本の夜明けに最新医療技術と博愛の精神をもたらしたウィリスの功績は、もっと知られてもいいはずだと思うんですよね。

" /> 先進医学を駆使して活躍した「ウィリアム・ウィリス」幕末の駐日イギリス外交官兼医官について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

先進医学を駆使して活躍した「ウィリアム・ウィリス」幕末の駐日イギリス外交官兼医官について歴女がわかりやすく解説

今回はウィリアム・ウィリスを取り上げるぞ。幕末のイギリス外交官のひとりですが、戊辰戦争に医者として従軍したんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の駐日イギリス外交官には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウィリアム・ウィリスについて、5分でわかるようにまとめた。

1-1、ウィリアム・ウィリスは北アイルランド生まれ

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ウィリアム・ウィリスは、1837年5月1日に北アイルランドのファマーナ州マグワイア―ス・ブリッジで7人きょうだいの4男として誕生。いわゆる毒親で暴力的な父が支配する貧しい家庭で育ち、幼い頃から家畜の群れの番をさせられ、なにか間違いを起こせばこん棒で打たれる日々。

尚、ウィリスが8歳から11歳の時にアイルランド大飢饉が起こり、百万人がアメリカへ移民など海外へ流出して人口が8分の1に減少したということ。

1-2、ウィリス、長兄の支援で医学生に

ウィリスは悲惨な子供時代だったが、先に開業医となっていた長兄ジョージの支援を受けて1855年に18歳でグラスゴー大学医学部を受験し、見事合格。医科大学予科の課程を修めた後に医学の名門エジンバラ大学に移り、1859年5月19日に22歳で医学士に。彼の卒業論文は「胃潰瘍論」で、「思慮のある試論」で「きわめて正確なもの」と評されたそう。

1-3、ウィリス、ロンドンの病院に就職するも未婚の父に

ウィリスはエジンバラ大学卒業後、ロンドンに移りミドルセックス病院の医局員に。しかしそこでマリア・フィクスという看護助手との間に息子が誕生。息子はエドワードと名付けられて、ウィリスの兄ジョージの養子に。若くして父となったウィリスは養育費を送る義務が出来、多くの給料を稼ぐ必要が。

ウィリスはマリアとは結婚したくなかったこともあり、海外駐在の外交官の募集で、500ポンド(現在の1000万円以上に相当)の大きな報酬を得るうえに、海外への派遣が冒険心をくすぐったということで、外交官試験を受けて合格、江戸駐在イギリス公使館の補助官兼医官として日本へ旅立つことに。

2-1、ウィリス、幕末の日本に着任

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ウィリスは文久2年(1863年)5月、25歳で駐日英国公使館の外交官、医官として幕末真っただ中の日本に来日。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇。その後、生麦事件の知らせを聞いたときは領事館にいたが、救急道具を持って誰よりも先に馬で走って現場に向かい、イギリス人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行ったということ。また文久3年(1863年)の薩英戦争に従軍してイギリス人負傷者の治療も行ったそう。

2-2、ウィリスは通訳官のアーネスト・サトウと親友に

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ウィリスは、文久2年(1863年)9月に通訳官として来日した19歳のアーネスト・サトウと同僚となり、生涯の親友として付き合うように。サトウは回想録で、ウィリスは事務仕事もよくこなし、前任者が怠っていた書類の整理整頓もきっちり最新式に改めた非常に有能な人物で、「勤勉さと正確な記憶力、動物や植物や鉱物などの面白い話題をあふれるばかりに持ち、心の広い人だった」と絶賛。ウィリスほど人情味のある医師はいないということで、ウィリスが側にいる限り駐日イギリス外交官たちは安心して仕事に打ち込めたはず。

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第二次東禅寺事件
文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備役だった松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。第一次東禅寺事件の後、公使のオールコックは幕府による警護が期待できないと、公使館を横浜に移転。しかし、オールコックの帰国中に代理公使となったジョン・ニールは東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護に。

東禅寺警備兵の一人だった松本藩士の伊藤軍兵衛は、東禅寺警備で自藩が多くの出費を強いられ、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害すれば自藩の東禅寺警備の任が解かれると考えたそう。そして伊藤は夜中にニール代理公使の寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見されて争い、彼らを倒したが負傷し、番小屋で自刃。

幕府は警備責任者を処罰、松本藩主松平光則に差控を命じて、イギリスとの間で賠償金交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生。幕府は翌年、生麦事件の賠償金とともに東禅寺事件に対しても1万ポンドを支払って解決。

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