
後継者選びの失敗

朱晃は後継者選びにも失敗しています。老齢のため病気がちとなった朱晃は、自らの後継者として聡明な仮子の朱友文を立てようと考え、年長の実子であったが能力が低く粗暴な朱友珪を地方官に左遷する人事を実行。
左遷した人物の大半を色々と理由を付けて殺害してきた朱晃であることを知っていた朱友珪は将来に不安を覚え、近衛軍の一部と結託して反乱を起こします。西暦912年、在位わずかに5年60歳にして、朱晃は実の息子である朱友珪の手で殺害されたのでした。
朱晃亡き後の後梁
朱友珪は第2代皇帝として即位した後に、朱友文一家を殺害。朱晃暗殺の責任を全て擦り付けたのですが、亡父の前評判通り、堕落して人望を無くします。その有様を見た異母弟の朱友貞は、その乱脈ぶりに失望していた近衛軍を焚き付けて反乱を起こさせ、朱友珪を殺害。西暦913年、朱友貞が第3代の皇帝として即位します。
後梁の滅亡
しかし、朱友貞を支える者は少なく離反するばかりでした。即位のわずか2年後に、以前より険悪な関係であった同母弟の朱友敬が謀反。釣られるように一族の謀反が相次いで宗室を支える皇族が居なくなった上、河北の重要拠点であった魏博節度使らの離反により、次第に勢力が減退。河北を制圧した李存勗に追い詰められ、自決して後梁は滅亡。3代わずか16年の短命政権となりました。
後梁を滅ぼした李存勗は後唐を建国。蜀に割拠していた前蜀を制圧して天下統一を進めますが、内政に失敗し軍により反乱を起こされて後唐も13年と短命に終わります。その後も短命な王朝が続きますが(五代)、中国の再統一は宋の太祖・趙匡胤の登場を待たねばなりませんでした。
裏切り者は裏切りで滅ぶ
黄巣の乱において頭角を現した朱全忠の人生は、裏切りの連続でした。最初の主君である黄巣を裏切って唐に降伏し、唐の皇帝の信頼を裏切って暗殺し、国を奪いました。しかし、その最期は実の息子に裏切られて死ぬという因果なものでした。
朱全忠の死後もその呪いは続いていたのか、2代皇帝も3代皇帝も、いずれも皇族や臣下などに裏切られて最期を遂げています。朱全忠が建てた後梁は、裏切りに始まり裏切りで滅んだと言えるのかもしれませんね。