
・西暦904年、皇帝・昭宗を暗殺。
下手人は朱全忠に命じられた朱全忠の仮子たちだったが、命を完遂した彼らに対して、掌を返して暗殺の罪を問うて処刑。
・西暦905年、貴族や高位官僚らをまとめて処刑。
武川鎮軍閥の系譜を引く唐の貴族たちや高位科挙官僚ら、皇帝側近たちに辞令を与えて地方の任地に赴かせるよう偽り、黄河の渡しで処刑。
・西暦907年、新皇帝・哀帝の兄弟をまとめて暗殺。
宴と偽って全員宴席に集めた上で、全員絞殺して近くの池に放り込む。
唐を滅して梁を建国する
こうして唐皇帝の手足となる皇族、臣下、宦官などの朝廷の構成者を全て消した朱全忠は、善意で皇帝の位の譲位を受ける禅譲劇を進めます。西暦907年、最後の皇帝・哀帝は抵抗も出来ず、朱全忠に禅譲して唐は滅亡。後梁が建国され、唐は23代・289年の歴史に幕を下ろします。
皇帝・朱晃
Ian Kiu – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
皇帝に即位した朱全忠は、忠誠を誓う相手が居なくなったことから、名を朱晃と改めます。しかし、後梁の勢力圏外の各地に割拠した節度使らは朱晃を皇帝として認めず、中国大陸は分裂と戦乱の時代を迎えることとなりました。
華北を支配した強国5国とその周辺10国が互いに争った戦乱の時代を指して、五代十国時代と呼んでいます。
北伐の失敗
朱晃の最大のライバルであった李克用は、西暦908年に病死します。仇敵の死を好機と捉えたのでしょう。朱晃は天与の機会と捉え、息子たちに李克用の領地である河北へ攻め込むよう命じたものの、李克用の後を継いでいた長男・李存勗(りそんきょく)に敗北。李存勗は父に似て、武芸に秀で豪胆さと軍略をよく知っていた有能な指揮官でした。
敗北した息子たちから報告を聞いた朱全忠は、李克用の子に比べて自分の子たちは豚犬の類でしかない、と嘆息したと言われています。
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