古代中国の唐帝国末期、一介の小作人から混乱に乗じて地方軍閥の長・節度使となり、世界帝国だった唐王朝を完全に滅ぼしたのが朱全忠(しゅぜんちゅう)です。朱全忠は裏切りに裏切りを重ねて出世した稀代の奸雄です。

今回は朱全忠の経歴について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は唐を滅ぼした朱全忠をわかりやすくまとめた。

成り上がり者・朱温

Emperor Taizu of Later Liang Zhu Wen.jpg
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朱全忠はよく知られている名ですが、これは唐の皇帝に贈られた名前です。本名は朱温と言い、もとは一介の農民でした。農民から皇帝にまで上り詰めた人物は、中国の歴史上それ程多くはなく、有名な人物として漢の劉邦、明の朱元璋がいます。漢や明は数百年の歴史を持つ長期政権ですが、その長期政権の建国者・初代皇帝となった彼らに比べると、20年に満たない王朝にしかならなかった朱全忠はあまりパッとしないかもしれません。
とは言え、最後は皇帝にまで上り詰める歴史の英雄であるのですが、その経歴はどのようなものだったのでしょうか。

ごろつき朱三

朱温は、西暦852年、安徽省北部碭山県で儒学者・朱誠の三男として生まれました。父を早くに無くし、母の伝手で地元の親戚の元に小作農として住み込みで働き始めたのですが、日々の農作業を小馬鹿にして真面目に取り組まず、武芸を磨くことに専念する有様。
周囲は朱温を不良・ごろつき扱いし疎んでいた上、住み込み先の主人からは度々折檻を受けていたようです。あまり恵まれた少年時代とは言えないですね。

黄巣の乱に参加する

武芸を磨いていたのは乱世の到来を予測していたからなのでしょうか。それとも単なる偶然だったのでしょうか。西暦874年、塩の専売制に反発する密売人らが唐朝に反旗を翻す黄巣の乱が勃発すると、次兄とともに乱に参加。次兄は戦死しますが、朱温は功績を重ねて黄巣軍の一軍を任されます。
唐の都・長安を陥落させ、皇帝に即位した黄巣より命を受けて河南攻略軍の先鋒将軍となり河南各地を転戦するのですが、唐側に付く軍閥・節度使の軍に苦戦。乱の勢いが殺がれて戦況が次第に不利になりつつあることを感じた朱温は、黄巣の目付役を斬り殺し、無断で唐側に投降してしまいました。

唐の将軍として黄巣軍を滅ぼす

黄巣軍に各地を荒らし回られ、都から叩き出される苦汁を味わっていた唐の第21代皇帝・僖宗(在位西暦873年~888年)は、朱温の投降を天が与えた機会と大変喜び、将軍に任じます。
朱温の寝返りがきっかけとなったことも否めないでしょう。強力な騎馬軍を持ち勇猛果敢な突厥沙陀部出身の李克用の参戦によって唐は勢力を持ち返し、長安を奪い返して黄巣軍の掃討を進め、乱を鎮圧することに成功します。李克用に続く功労者となった朱温は、河南の開封を拠点とした宣武軍節度使に任じられた他、皇帝に忠誠を誓う意味である「全忠」の名を贈られました。この時から、朱全忠と呼ばれるようになったのです。

節度使・朱全忠

黄巣の乱が収まった後、唐の権威は中国全土に及ばず、各地の節度使が治める藩鎮により半ば分裂状態になっていました。河南の節度使であった朱全忠は、徐々に勢力を広げていきます。江南の楊行密、蜀の王建、楚の馬殷、南漢の劉隠ら、後の十国の建国者となった各地の有力者はこの頃に出揃っていますが、朱全忠の有力なライバルとなったのは、李克用李茂貞の二人でした。朱全忠は彼ら有力者たちに対して、どのように対処していったのでしょうか。

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李克用との対立して恨みを買う

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数ある節度使のうち、最大の勢力を誇ったのは黄巣の乱鎮圧の最大功労者であった李克用です。李克用はその功績により河北の太原を拠点として河東節度使となっていましたが、河南を挟んで隣接することにも加え、ある一件により朱全忠との関係は非常に険悪でした。先の黄巣の乱において李克用に助けられたことのある朱全忠が、答礼のために招いた宴会において、李克用が殺されかけたからです。
性格がまっすぐな武人タイプであり曲がったことが許せない李克用。裏切り行為を行って唐の節度使(李克用と同僚)となった朱全忠の存在は気に食わず、招かれた宴席で朱全忠に対し、

朝廷のために賊(黄巣)を討っただけで、礼を言われる筋合いはない。
しかも黄巣は貴殿の元の君主。さぞや戦いにくいでしょうな。

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と皮肉を交えてなじります。
青筋押さえつつ表面上はにこやかに手厚く李克用をもてなした朱全忠は、李克用らが酒で寝静まったのを見計らって襲撃。部下に叩き起こされた李克用は、命からがら逃げ延びたのでした。以降、両者は互いを不俱戴天の仇として終生対立していくことになります。

李茂貞を倒して唐の皇帝を手に入れる

Chinese Imperial Mian, Dingling.jpg
Deadkid dk - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

朱全忠のもう一人のライバルは、唐の皇帝直属の親衛隊・神策軍の出身であった李茂貞です。
李茂貞は、黄巣の乱の鎮圧の功により長安近郊の鳳翔節度使に任じられていましたが、長安の南にある漢中地方を唐の朝廷に無断で自領として接収。唐の朝廷の任命した官僚の赴任を阻みます。西暦894年、これに激怒した唐の昭宗の討伐を受けるのですが、それを返り討ち。西暦901年には、昭宗に有無を言わさずに自身の本拠地である鳳翔に遷都させ、李茂貞自身は岐王に奉じられます。
この時、李茂貞の勢力は長安から漢中までの広大な領域に広がって最大勢力となりましたが、その勢力拡大を疎ましく思う朱全忠ら他の節度使勢力は、結託して李茂貞を攻撃。敗れた李茂貞は西暦903年、昭帝を朱全忠に引き渡して領土を縮小した上で、和議を結びます。結果、朱全忠は長安周辺にまで勢力下に加えた上で、唐の皇帝を手中に入れることとなりました。

唐の朝廷の破壊者・朱全忠

各地では、李克用ら有力な節度使が健在ではあるものの、皇帝を挟んで天下に号令する立場となった朱全忠は、節度使から更に上の位への昇格・自らの野望達成のため、それまで唐の朝廷の権力機構を順次破壊していきます。

唐の皇帝を無力化する

まずは宮中に兵を率いて乱入。宮廷内で皇帝を凌ぐ権力者となっていた宦官らをほぼ一掃した上で、昭宗に迫って西暦904年に自身の拠点であった開封に遷都を強行。唐の朝廷内の邪魔者を消した上で、建国から数百年、長安を本拠としてきた唐の皇帝や中央官僚たちをアウェーな土地に連れて行き、無力化したのです。
皇帝をコントロール出来る立場となった朱全忠は、以下のような悪辣な謀略を実行に移します。

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・西暦904年、皇帝・昭宗を暗殺。
 下手人は朱全忠に命じられた朱全忠の仮子たちだったが、命を完遂した彼らに対して、掌を返して暗殺の罪を問うて処刑。
・西暦905年、貴族や高位官僚らをまとめて処刑。
 武川鎮軍閥の系譜を引く唐の貴族たちや高位科挙官僚ら、皇帝側近たちに辞令を与えて地方の任地に赴かせるよう偽り、黄河の渡しで処刑。
・西暦907年、新皇帝・哀帝の兄弟をまとめて暗殺。
 宴と偽って全員宴席に集めた上で、全員絞殺して近くの池に放り込む。

唐を滅して梁を建国する

こうして唐皇帝の手足となる皇族、臣下、宦官などの朝廷の構成者を全て消した朱全忠は、善意で皇帝の位の譲位を受ける禅譲劇を進めます。西暦907年、最後の皇帝・哀帝は抵抗も出来ず、朱全忠に禅譲して唐は滅亡。後梁が建国され、唐は23代・289年の歴史に幕を下ろします。

皇帝・朱晃

朱梁の位置
Ian Kiu - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

皇帝に即位した朱全忠は、忠誠を誓う相手が居なくなったことから、名を朱晃と改めます。しかし、後梁の勢力圏外の各地に割拠した節度使らは朱晃を皇帝として認めず、中国大陸は分裂と戦乱の時代を迎えることとなりました。
華北を支配した強国5国とその周辺10国が互いに争った戦乱の時代を指して、五代十国時代と呼んでいます。

北伐の失敗

朱晃の最大のライバルであった李克用は、西暦908年に病死します。仇敵の死を好機と捉えたのでしょう。朱晃は天与の機会と捉え、息子たちに李克用の領地である河北へ攻め込むよう命じたものの、李克用の後を継いでいた長男・李存勗(りそんきょく)に敗北。李存勗は父に似て、武芸に秀で豪胆さと軍略をよく知っていた有能な指揮官でした。
敗北した息子たちから報告を聞いた朱全忠は、李克用の子に比べて自分の子たちは豚犬の類でしかない、と嘆息したと言われています。

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後継者選びの失敗

image by PIXTA / 49534537

朱晃は後継者選びにも失敗しています。老齢のため病気がちとなった朱晃は、自らの後継者として聡明な仮子の朱友文を立てようと考え、年長の実子であったが能力が低く粗暴な朱友珪を地方官に左遷する人事を実行。
左遷した人物の大半を色々と理由を付けて殺害してきた朱晃であることを知っていた朱友珪は将来に不安を覚え、近衛軍の一部と結託して反乱を起こします。西暦912年、在位わずかに5年60歳にして、朱晃は実の息子である朱友珪の手で殺害されたのでした。

朱晃亡き後の後梁

朱友珪は第2代皇帝として即位した後に、朱友文一家を殺害。朱晃暗殺の責任を全て擦り付けたのですが、亡父の前評判通り、堕落して人望を無くします。その有様を見た異母弟の朱友貞は、その乱脈ぶりに失望していた近衛軍を焚き付けて反乱を起こさせ、朱友珪を殺害。西暦913年、朱友貞が第3代の皇帝として即位します。

後梁の滅亡

しかし、朱友貞を支える者は少なく離反するばかりでした。即位のわずか2年後に、以前より険悪な関係であった同母弟の朱友敬が謀反。釣られるように一族の謀反が相次いで宗室を支える皇族が居なくなった上、河北の重要拠点であった魏博節度使らの離反により、次第に勢力が減退。河北を制圧した李存勗に追い詰められ、自決して後梁は滅亡。3代わずか16年の短命政権となりました。
後梁を滅ぼした李存勗は後唐を建国。蜀に割拠していた前蜀を制圧して天下統一を進めますが、内政に失敗し軍により反乱を起こされて後唐も13年と短命に終わります。その後も短命な王朝が続きますが(五代)、中国の再統一はの太祖・趙匡胤の登場を待たねばなりませんでした。

裏切り者は裏切りで滅ぶ

黄巣の乱において頭角を現した朱全忠の人生は、裏切りの連続でした。最初の主君である黄巣を裏切って唐に降伏し、唐の皇帝の信頼を裏切って暗殺し、国を奪いました。しかし、その最期は実の息子に裏切られて死ぬという因果なものでした。
朱全忠の死後もその呪いは続いていたのか、2代皇帝も3代皇帝も、いずれも皇族や臣下などに裏切られて最期を遂げています。朱全忠が建てた後梁は、裏切りに始まり裏切りで滅んだと言えるのかもしれませんね。

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唐を滅ぼした稀代の奸雄「朱全忠」を歴史オタクが5分でわかりやすく解説!その経歴をまとめてみる

古代中国の唐帝国末期、一介の小作人から混乱に乗じて地方軍閥の長・節度使となり、世界帝国だった唐王朝を完全に滅ぼしたのが朱全忠(しゅぜんちゅう)です。朱全忠は裏切りに裏切りを重ねて出世した稀代の奸雄です。

今回は朱全忠の経歴について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は唐を滅ぼした朱全忠をわかりやすくまとめた。

成り上がり者・朱温

Emperor Taizu of Later Liang Zhu Wen.jpg
無 – [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

朱全忠はよく知られている名ですが、これは唐の皇帝に贈られた名前です。本名は朱温と言い、もとは一介の農民でした。農民から皇帝にまで上り詰めた人物は、中国の歴史上それ程多くはなく、有名な人物として漢の劉邦、明の朱元璋がいます。漢や明は数百年の歴史を持つ長期政権ですが、その長期政権の建国者・初代皇帝となった彼らに比べると、20年に満たない王朝にしかならなかった朱全忠はあまりパッとしないかもしれません。
とは言え、最後は皇帝にまで上り詰める歴史の英雄であるのですが、その経歴はどのようなものだったのでしょうか。

ごろつき朱三

朱温は、西暦852年、安徽省北部碭山県で儒学者・朱誠の三男として生まれました。父を早くに無くし、母の伝手で地元の親戚の元に小作農として住み込みで働き始めたのですが、日々の農作業を小馬鹿にして真面目に取り組まず、武芸を磨くことに専念する有様。
周囲は朱温を不良・ごろつき扱いし疎んでいた上、住み込み先の主人からは度々折檻を受けていたようです。あまり恵まれた少年時代とは言えないですね。

黄巣の乱に参加する

武芸を磨いていたのは乱世の到来を予測していたからなのでしょうか。それとも単なる偶然だったのでしょうか。西暦874年、塩の専売制に反発する密売人らが唐朝に反旗を翻す黄巣の乱が勃発すると、次兄とともに乱に参加。次兄は戦死しますが、朱温は功績を重ねて黄巣軍の一軍を任されます。
唐の都・長安を陥落させ、皇帝に即位した黄巣より命を受けて河南攻略軍の先鋒将軍となり河南各地を転戦するのですが、唐側に付く軍閥・節度使の軍に苦戦。乱の勢いが殺がれて戦況が次第に不利になりつつあることを感じた朱温は、黄巣の目付役を斬り殺し、無断で唐側に投降してしまいました。

唐の将軍として黄巣軍を滅ぼす

黄巣軍に各地を荒らし回られ、都から叩き出される苦汁を味わっていた唐の第21代皇帝・僖宗(在位西暦873年~888年)は、朱温の投降を天が与えた機会と大変喜び、将軍に任じます。
朱温の寝返りがきっかけとなったことも否めないでしょう。強力な騎馬軍を持ち勇猛果敢な突厥沙陀部出身の李克用の参戦によって唐は勢力を持ち返し、長安を奪い返して黄巣軍の掃討を進め、乱を鎮圧することに成功します。李克用に続く功労者となった朱温は、河南の開封を拠点とした宣武軍節度使に任じられた他、皇帝に忠誠を誓う意味である「全忠」の名を贈られました。この時から、朱全忠と呼ばれるようになったのです。

節度使・朱全忠

黄巣の乱が収まった後、唐の権威は中国全土に及ばず、各地の節度使が治める藩鎮により半ば分裂状態になっていました。河南の節度使であった朱全忠は、徐々に勢力を広げていきます。江南の楊行密、蜀の王建、楚の馬殷、南漢の劉隠ら、後の十国の建国者となった各地の有力者はこの頃に出揃っていますが、朱全忠の有力なライバルとなったのは、李克用李茂貞の二人でした。朱全忠は彼ら有力者たちに対して、どのように対処していったのでしょうか。

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