世界史

三国時代を終わらせた晋の創始者「司馬炎」は名君なのか暗君なのか…歴史オタクが解説

よぉ、桜木建二だ。三國志でお馴染みの3世紀の中国。魏・呉・蜀の三国が相争う戦乱の三国時代を統一して晋王朝の始祖となったのが司馬炎だ。司馬炎は統一の偉業を成し遂げたが、後に自分の国を亡ぼす元凶も作っている。

今回は評価が分かれる司馬炎の事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

kei

ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は晋の司馬炎をわかりやすくまとめた。

魏の司馬炎

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Yan Li-pen – https://www.mfa.org/collections/object/the-thirteen-emperors-29071, パブリック・ドメイン, リンクによる

司馬炎は、古代中国三国時代(西暦220年~226年)の国に生まれ、後に(西暦265年~420年)の初代皇帝(武帝・在位265年~290年)となった人物です。その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

魏の有力者・司馬昭の長男として生まれる

司馬炎は西暦236年、魏の有力者・司馬昭の長男として生まれました。司馬昭の父は、物語三国志において蜀の諸葛亮と知恵比べをすることになる魏の軍師であり重臣・司馬懿。司馬昭はその次男で、司馬懿にとっては孫に当たります。
司馬昭の妻であり司馬炎の母である王元姫は、こちらも魏の有力者・王朗の孫娘で、貴族の血統として申し分無い家柄。

魏が定めた官吏登用制度である九品中正法による推薦書には、「寛容にして仁義厚く、沈着深謀にして度量あり」として、他に比べるものは居ないほどの逸材であると評された、と史書には記されています。

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魏の有力者である司馬昭の息子なので忖度したのだろうが、現代であればどこの大学向けでも上位推薦されそうなくらいべた褒めな内容だ。しかし文字通り捉えると、司馬炎の人となりは名家の善良な貴公子、といったところだろうか。

司馬一族の権力掌握 政敵を追い落とす

司馬懿をはじめとする司馬一族は、西暦249年の正始の変において、政敵となる皇族・曹爽一派を倒し、魏の朝廷における実権を握ります。このクーデターを主導した司馬懿とその長男・司馬師は、その後魏の南方で相次いで起こる反乱を鎮圧。司馬一族の魏における権力を確固たるものとしていきますが、相次いで病死。その権力基盤は司馬昭に引き継がれます。

司馬一族の権力掌握 皇帝を殺す

政権を引き継いだ司馬昭は、父や兄の代から起こっていた南方の反乱を抑えて一族の権勢を維持していましたが、それを苦々しく若くて胆の据わった皇帝・曹髦(そうぼう)が、宮廷のわずかな近臣とともに反司馬氏で挙兵。腹心の独断により皇帝を殺して鎮圧せざるを得ませんでした。

腹心に指示されて皇帝に止めを刺した兵、及び、皇帝の挙兵を事前に司馬氏に具申しなかった近臣を処刑。皇太后に圧力を加えて、皇帝が乱心して皇太后を殺そうとしたという嘘の詔勅をでっち上げ。曹髦を皇帝から侯(高貴郷公)に格下げし、遠縁から曹奐(そうかん)を新たな皇帝に迎えて事態を収拾します。

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曹髦の決起は協力者少なく半ば無謀なものであった。決起を近臣に打ち明ける際、「司馬昭の心は、道行く人誰でも知っている。私はこのまま廃位の恥辱を受けることは出来ない。」と言ったという。近臣のうちの多くは司馬昭の権力を恐れて密告しており、既にこの時点で司馬氏の権威は皇帝を凌いでいたことを物語る。

なお、曹髦の決起にあたっての決意表明は現代ではことわざとなっており、権力を狙う野心家のことを暗喩するために使われ、近年では中国の温家宝首相がチベット問題の件でダライ・ラマに向けての非難に使った。何とも便利な言葉であり、使える機会も多いのではないだろうか。

司馬一族の権力掌握 敵国を滅ぼす

国家の最高権力者であるはずの皇帝を殺すほどの権勢です。しかし、仮にそれを失うことになるのであれば、それは当然のことながら司馬一族の消滅を意味しました。反逆者として処刑されて当然だからです。
一族の消滅を避けるには、自らが名実ともに国家の最高権力者・皇帝となる以外にはありません。西暦263年、司馬昭はそれに遡る西暦256年の段谷の戦いにおいて、敗北により軍事的に弱体化していたを、鄧艾鍾会らに命じて滅ぼすことに成功します。

弟との後継者争いを制す

父である司馬昭が蜀を滅ぼした功績により晋王となると、その後継者である太子を誰にするか、という問題が挙がります。司馬昭の後継者となるべき息子には、司馬炎以外に司馬攸が居ました。
当初司馬昭は、既に他界した兄・司馬師の養子となっており、より聡明な司馬攸を後継者に据えたいと思っていましたが、長幼の順を重視すべきという臣下の反対に遭い、司馬炎を太子としています。

晋の建国と呉との争い

晋王となった司馬昭は、皇帝の地位へ進むことなく、西暦265年に死去。30歳であった司馬炎は、父の路線を受け継いで皇帝の位を狙い、翌西暦266年に魏最後の皇帝・曹奐から禅譲を受け、魏を滅ぼしてを建国します。
その治世はどのようなものだったのでしょうか。

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司馬炎の建てた晋は、後に五胡十六国の乱により中原を失って江南に割拠した東晋と区別する際、西晋と呼ぶ。ここでは全て晋と表記する。

晋の体制の整備

魏が、皇帝一族に大きな軍事力を与えずに自らの司馬一族のような権臣の台頭を許した轍を踏まえ、各地に一族を郡王として奉じて領地を与え、徴税権と兵権を持たせました
また即位4年後の西暦268年には、晋の行政機構の基本法となる泰始律令を制定。国家の枠組みを整備していきます。

呉を滅ぼして三国を統一

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北方・涼州の遊牧民族らの反乱を鎮圧して後顧の憂いを無くした司馬炎は、の制圧に取り掛かります。対する呉は、蜀を滅ぼした頃から南方の交州(ベトナム)が度々離反していた他、皇帝・孫晧の暴政により国力が低下していました。
呉討伐の軍を5路から南下させて首都建業近郊の要害・石頭城を落とし、孫晧は降伏。西暦280年、呉を滅亡します。

この時の晋軍の戦略は、それまでの魏の呉征伐の時のように北方から長江まで進んで渡河を行おうとする単純なものではありません。滅ぼした蜀のあった長江上流から軍船で下りつつ、長江北岸からも圧迫を加えるという多方面作戦で、呉に対応の猶予を与えない速攻戦でした。特に、長江を軍船で攻め下って行った王濬が早く、首都・建業に一番乗りしています。

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赤壁の戦い等のそれまでの対呉戦と違い、長江中流域である荊州をあっけなく制圧した晋軍は、呉軍の水軍が一定健在であるのをみて一時退却をした方が良いという慎重案も出た。しかし呉を攻める現地司令官であった杜預は、「わが軍の兵の勢いは、例えれば竹を割くようなもの。数節刀を入れれば、後は簡単に割れる」として、呉を一気に制圧することを主張。この時の杜預の言葉は、後に「破竹の勢い」という故事成語となって残る。

統一皇帝・司馬炎

呉を滅ぼした晋は、後漢滅亡以来60年ぶりに中国を統一することに成功します。統一後も崩御まで約10年、司馬炎は皇帝の位に在位するのですが、その間はどのような政治を行っていたのでしょうか。

各地の軍を縮小

国境付近を中心に設置していた屯田兵を主体とした軍団を、統一したことにより主要拠点は押さえつつも規模を縮小しています。削減した兵力はそのまま一般農民として、国家の基礎となしました。軍事費を減らし農政を活性化させるという点で、合理的な判断と思えます。

占田・課田法の制定

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また農民たちの統制のため、土地統制に関する制度を定めています。占田・課田法と呼ばれ、その内容は以下のようなものでした。

・年齢によって区分を設ける。
  正丁  16歳から60歳まで
  次丁  13歳から15歳、及び、61歳から65歳まで
・一人が持てる田畑の大きさを決める。
  正丁の男子  占田  70畝(約2.4ヘクタール)
  次丁の男子  課田  50畝(約1.7ヘクタール)
  ※それぞれの女子については、男子の半分ほどの広さ。
・官吏が持てる田畑の大きさを決める。
   一品官    占田  5000畝(約175ヘクタール)
   二品官    占田  4500畝(約157ヘクタール)
   ※以降、一品下がるごとに500畝ずつ小さくなる。
・課田50畝ごとに、戸別に税(調)を徴収。絹や綿を納める。

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この占田・課田法は、後の均田制や租庸調制に繋がっていったと言われるが、実態や政策の効果については史料があまり残っておらず、詳しいところは分からない。しかし、晋の武帝の政策としては有名だ。

移民の放置

後漢の成立以来、長城以南に徐々に移住する匈奴族や鮮卑族ら遊牧民族は、魏及び晋の強力な騎兵として参加していますが、統一により彼らの利用価値は半減。逆に、在来の漢族との間で文化の違いによる摩擦を起こすようになっていました。
これを見た臣下から、統一した機会に彼ら異民族も辺境に追いやるべきという意見が出る者の、根が貴公子であったためなのでしょう。その案は実行されるに至りませんでした。

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移民は、現代においてもヨーロッパやアメリカなどでも問題になっている。晋代の移民は軍事力、現代の移民は安価な労働力で貢献してきたものの、在来民族の文化と衝突を起こす。晋の場合は、後に彼らが国家の内部から反乱を起こして国を亡ぼす大きな力となったが、現代でも同じようなことが起きたりするだろうか。

ハーレム生活

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司馬炎は、皇帝に即位した後と呉を滅ぼした後の2回、自らの後宮に住まう妃や女官を5千人ずつ、計1万人の美女を選抜しています。毎晩、羊に引かせた車に乗り、羊が止まった場所の女性の部屋で一晩過ごす、という生活です。
そのため、宮女たちは自分の部屋の近くに、羊が好む竹の葉に塩を盛って置いておきました。羊が葉を食べて塩を舐めれば、車が自分の部屋の前で止まってくれるということですね。
現代日本においては、どちらかと言うと厄除けの意味が強いのですが、「盛り塩」の起源になったと言われます。

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成人しなかった者も含め、史書に残るだけで26人の皇子・12人の皇女を儲けている。
この宗室の多さは、各地軍事力を持つ郡王を配置したこととも重なり、後の晋宗室の内乱・八王の乱に繋がることになる。

弟を死に追いやる

西暦267年、長男の夭折により次男・司馬衷を立太子していますが、この司馬衷は生まれつき暗愚な人物でした。皇太子の先行きを危ぶみ、司馬炎の弟で聡明な司馬攸に心寄せる臣下も多数。
そのような中、聡明で政務に励む司馬攸は、武帝に媚諂う佞臣らの讒言により、任地の斉(現在の山東省)へ赴任させられてしまいます。いわゆる左遷ですね。
この状況を憂い、その取り消しを求める臣下たちも居ましたが、司馬炎は粛清してしまいます。皇太子・司馬衷の先行きを思いやり、政敵を減らして政争の種を早めに摘んでおこうとしたのでしょうか。
はたして、間もなく司馬攸は鬱屈とした中で病死したのですが、次代に晋の宗室を支える人材が減ることになりました。

外戚に権力を握らせる

統一後はハーレム生活により次第に政治への興味を失っていった司馬炎に代わり、政治の実権を握ったのは皇后楊氏の父である楊駿でした。娘二人を司馬炎の皇后とした楊駿は、皇太子・司馬衷の祖父として権力を握り、自らに敵対する人物は左遷して、自らに近い者を多く取り立て。これにより晋の政治体制はますます弱くなっていきました。

司馬炎が残した禍根

司馬炎は政治を政治を顧みずに遊び暮らす中、西暦290年、病により56歳で崩御。その生涯を終えます。
祖父からの路線を引き継ぎ、魏と呉を滅ぼして天下統一を果たしたものの、軍事力の弱体化に加えて、暗愚な次代、人材の粛清、外戚の国政壟断を許した点は、時間の針を後漢の桓帝・霊帝の世に戻しただけ、とも言えるかもしれません。
事実、暗愚な皇帝の下に収まらない各地の有力者・郡王らや外戚は、三国時代の群雄と同じように自らの軍事力を以て血で血を洗う抗争劇を始めてしまい、晋の国力を弱めます。晋の弱体化による乱世の再来は、後漢滅亡からの60年では済まず、晋が滅亡して後、300年の長きに渡りました。
その点、司馬炎が残した禍根は、後漢の霊帝らのそれよりも根深いものであったと言えるのではないでしょうか。

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