世界史

女真最初の中華帝国「金王朝」を歴史オタクが5分で解説!その成立から滅亡までをまとめてみる

よぉ、桜木建二だ。金王朝と言うと、世襲独裁体制を敷いている金一族(金日成・金正日・金正恩ら)が支配する北朝鮮のことを連想しがちだが、歴史学における金王朝は東北平原に住む女真族が建国した国家を指す。金王朝は中華帝国の中心部・黄河流域を制圧して中華帝国の一つとなったが、それは彼らにとっての不本意な最期を迎えるきっかけともなった。

今回は金王朝の事績について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/kei

10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は女真族の国家・金王朝をわかりやすくまとめた。

金王朝成立以前の女真族

金王朝(西暦1115年~1234年)の主体となったのは、現在の中華人民共和国、東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)に居住していた北方ツングース系の狩猟民族・女真族です。金王朝が成立する前の女真族の動きをみておきましょう。

広大な中国・東北平原の先住民

北をアムール川、南を黄海、東を長白山脈、西を大興安嶺、に囲まれた東北平原は、中華人民共和国における三大平原の一つとして、今では同国における一大穀倉地域になっています。女真族は、この東北平原に住まう狩猟民族を呼ぶ際に使われた、一時期の名称に過ぎません。大まかには以下のような変遷を辿っています。

挹婁(ゆうろう) 1世紀から4世紀頃までの呼称 日本では古墳時代

靺鞨(まつかつ) 5世紀から10世紀頃までの呼称 日本では飛鳥時代から平安時代

女真(じゅるちん)11世紀から17世紀頃までの呼称 日本では鎌倉時代から戦国時代

満州(まんじゅ) 17世紀以降の呼称 日本では江戸時代以降

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挹婁と呼ばれている頃は部族の時代だが、靺鞨と呼ばれる辺りから国家に参画もしくは国家を形成し始めている。

靺鞨の歴史

靺鞨は、朝鮮半島北部から東北平原の南半を支配した高句麗王国(?~西暦668年)に属していましたが、高句麗が唐の攻撃により滅亡した後、靺鞨の一部族である粟末靺鞨(ぞくまつまつかつ)の有力者・大祚栄(だいそえい)が、高句麗の故地の北東部に自立。西暦698年、唐の反乱追討軍を打ち破り、高句麗遺民を糾合して震国を建国します。
後に唐の冊封体制下に入った震国は、渤海と呼ばれるようになりました。

律令制国家・渤海

渤海も日本と同じく当時としては先進的だった唐の文化を取り入れ、国家体制の強化を図ります。すなわち、律令国家の建設が目的です。
貴族たち子弟を唐に留学させて唐の文化・制度を学ばせ、首都(上京)や寺院を建設。地方行政制度を整えました。

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同じく律令制国家だった日本とも交流している。日本からすると歴史的に関係の悪い朝鮮半島の新羅を牽制する意味でも、その北隣にある渤海と外交ルートを通して友好関係を結ぶことはメリットがあったのだろう。

契丹族国家・遼の支配下に

「海東の盛国」と呼ばれ強国であった渤海も時代が下るにつれ、支配下の部族や民衆の反乱が起こるようになり支配力が弱体化。西暦926年、西方のモンゴル高原に出現したモンゴル系の契丹族(後の)の王・耶律阿保機(やりつあぼき)により、渤海は滅ぼされます。
この頃から靺鞨は、契丹族により女真族と呼ばれ始めるようになりました。

金王朝の成立

遼の支配下に入った女真族は、やがて遼の支配下から脱して自身の国家・金王朝を作ることになりますが、金王朝成立には中華帝国・の存在も関係しています。遼と宋の関係からみていきましょう。

遼と宋の確執

東北平原を掌握して後顧の憂いを無くしていた遼は、事あるごとに中国本土である中原を支配する宋への圧迫を加えます。対する宋は、それまでの中華帝国では必ず版図に入っていた燕雲十六州(現在の北京周辺)を、統一前の五代十国時代の混乱の最中に遼に奪われており、燕雲十六州を取り戻すべき領土であるとしつつも、文治政治・軍事抑制を国策としていました。
西暦1004年に両国で取り交わされた澶淵の盟(せんえんのめい)は、遼と宋の間の国境線の現状維持を決めた条約ですが、主な内容は以下の通りです。

・国境線は従来通り(燕雲十六州は遼。それ以南は宋。)とする。
・宋を兄、遼を弟とする。
・宋から遼へ貢物(絹20万匹、銀10万両)を毎年贈る。

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冊封体制をみても分かるように、それまでの東アジアの国際秩序では、中国皇帝と周辺諸国の王は、君主と臣下の主従関係にあった。これを兄弟、という形でより対等な関係に近付けたことは、澶淵の盟において特筆される点だろう。

女真の英雄

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不明 – Jin Shangjing Museum, Harbin (金上京历史博物馆), パブリック・ドメイン, リンクによる

遼の体制下での女真族への収奪は激しかったようです。その中で遼に反旗を翻す気骨ある武将が現れます。完顔阿骨打(わんやんあくだ)であり、女真の一部族であるワンギャ部の首長です。
女真族の部族長らを集めた宴会の席で、遼の皇帝が命じる宴会芸をただ一人拒絶し続けたというエピソードを持つ阿骨打は、女真族を統一した西暦1114年、遼に対して反乱を起こします。遼の皇帝・天祚帝自ら親征してきた討伐軍を撃破。会寧(上京会寧府)に都を置き、国号を「」として皇帝に即位しました。

阿骨打の政策

image by PIXTA / 35193571

阿骨打は武将として一流でしたが政治家としても有能でした。即位から崩御までのわずか数年の治世において、金王朝の基礎となる政策を固めています。大きくは以下の2つが知られていますね。

猛安・謀克の制 
  女真族版の戸籍兼軍事制度。
  300戸で1謀克、10謀克で1猛安として戸籍を整備。
  1猛安で1000人の兵士を拠出させる義務を負わせる。
女真文字を創始
  漢字や契丹文字を参考として、女真族の民族固有の文字である女真文字を作成。

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なお、女真文字については、明(西暦1368年~1644年)の時代には廃れ、現代語としては伝わっていない。

海で成立した同盟

遼の敗北と金の勃興を横目で見ていた宋では、金の躍進を内心絶賛。遼に占拠されたままであった核心的利益・燕雲十六州を奪還したいという、長年封印していた願望が頭をもたげてきます。「南北から挟み撃ちにすれば勝てるかも」と。
金側も遼への対抗上メリットがあったためか、西暦1120年、宋と金は同盟を締結。陸続きでは遼の領土を横断することになるため、両国の使者は黄海を往復して同盟を結ぶことになりました。そのため、この宋と金の同盟は「海上の盟」と呼ばれています。

弱い宋軍

同盟締結後、盟約通り宋と金は遼を南北から挟み撃ちにします。目指すは、燕雲十六州の中心都市である燕京(現在の北京)。
遼の皇帝・天祚帝も逃げ出した守備の手薄なはずの燕京。これを陥落させるのは容易いと思われたのですが、遼の皇族将軍・耶律大石に宋軍は連敗。城内からの内応策も見破られ、落とすことが出来ません。
万策尽きた宋は金に燕京の攻撃を要請。阿骨打率いる金軍は楽々燕京を落とすことに成功し、遼の得ていた貢物を上乗せして得ることを条件に、盟約通り燕京を宋に引き渡すのでした。

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金に抵抗した名将・耶律大石だが、天祚帝が金軍に捕らえられて遼が完全に滅亡した後、中央アジアに逃れ、西暦1132年、西遼(カラキタイ)を建国して始祖となっている。遼の命脈は、遠く西で維持された。
一方でモンゴル高原や燕京周辺に残った遼の皇族や契丹族は、多くはそのまま金に降伏して金の軍の一部となった。後に金の国力が落ちた際、金を裏切ることになる。

中華世界に足を踏み入れる女真族

阿骨打は遼の残存勢力の掃討戦の最中、西暦1123年に病没。後継者となった阿骨打の子である呉乞買(ウキマイ)は、2年後の西暦1125年、天祚帝を捕らえて遼を完全に滅ぼし、モンゴル高原を支配します。遼に代わって女真族の金が北アジアを支配し、南の宋と向かい合うことになりました。

狡猾な宋が支払うことになった嘘の代償

image by PIXTA / 42926139

ところが宋は、今度は遼の残存勢力と金攻撃の密約を結ぶ動きを見せる一方で、金との同盟で約束した貢物を送りませんでした。毒を以て毒を制す、という考えだったのでしょうか。周辺異民族同士を争わせて勢力を互いに削らせ、自らに全力で敵対しないように漁夫の利を得る、という漢民族の伝統的な対外政策です。
しかし、宋は金の力を見誤っていました。この背信行為に激怒した呉乞買は、翌1126年から1127年に掛けて宋の首都開封を攻め、ついに陥落させます。そして、宋の皇帝・欽宗とその父で上皇の徽宗、皇族や官僚数千人を北方に連れ去り、宋を滅ぼしてしまいました。

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この金が宋を滅ぼした出来事は「靖康の変」と呼ばれる。
宋の皇帝・上皇とも北方の地で死ぬまで幽閉されたが、連行された女性たちはもっと悲惨だった。金軍の妻や妾とされたり、洗衣院という施設に強制的に入れられて娼婦とさせられた。つまり早い話が、男性が好きな性行為し放題の牢獄に閉じ込められたということだ。もちろん、女性に一生拒否権は無い。
燕京陥落時も大規模強姦があったとされる。戦争の一番の被害者は女子供とも言われるが、盟約違反の代償は大き過ぎたと言えだろう。

中華帝国・金の隆盛

金。女真族の勢力は、彼らの伝統的なテリトリーであった東北平原を越えて、中国本土の黄河流域まで及ぶことになりました。しかし、靖康の変で難を逃れた宋の皇族の一人、欽宗の弟である趙構杭州臨安)に逃れ、即位して宋を継承(南宋高宗)。ここに、南北朝以来、中国の南北対立の時代が始まります。

傀儡政権の樹立

開封を落とし黄河流域を制圧した金軍は、自らの本拠地から程遠い中原を直接支配することを負担に感じたのでしょう。靖康の変で捕らえた宰相・張邦昌に傀儡政権の楚を建国させて間接支配を目論んだのですが、金軍が開封を引き揚げると張邦昌は即座に退位。宋の復興運動に加わってしまいます。

宋の徹底抗戦

南宋の成立を阻止したい金軍は長駆遠征し、都・臨安の近くまで進軍。しかし、異民族の支配を嫌う宋の義勇兵・岳飛らの強力な抵抗に遭い、また補給線も伸びたことによって金軍は徐々に後退を余儀なくされます。

傀儡政権の樹立2

阿骨打の甥であり、金の中でも和平派であった粘没喝(メネガ)は南宋への対抗策として、西暦1130年に南宋の地方官吏であった劉豫に斉を建国させ、南宋との間の緩衝地帯としました。劉豫は忠実に金に従い、また政務にも励んだことから、今度は傀儡政権の維持に成功しています。

南宋内部の分断工作

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Yu Ninjie (uploaded on Commons by LiDaobing) – Tan Qixiang (ed.), Zhongguo lishi ditu (中国历史地图集; 1982). Released under the GNU FDL., CC 表示-継承 3.0, リンクによる

また、粘没喝は自らの意を汲んだ秦檜を南宋に送り返し、南宋内部から分断工作を進めます。
金の内情を知っている秦檜に信頼を置き、岳飛ら主戦派の武力を抑制することを考えた高宗は、金への主戦派でも特に強硬であった岳飛を処断。西暦1142年、金と南宋の間で和議が結ばれます(紹興の和議)。その内容は以下のようなものでした。

・秦嶺山脈の散関から淮河を結ぶ線を両国の国境線とすること。
・宋を金の臣下とすること。
・毎年絹25万匹と銀25万両を宋から金に贈ること。

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澶淵の盟との違いでは、宋は金の兄弟ではなく、臣下としての地位に転落してしまっていることだ。両国の力関係が分かる。なお、粘没喝自身はこの和議を見ることなく、これに先立つ西暦1137年に病死している。

一方で、岳飛を告発して死に追いやり、南宋の政治闘争に勝利して高官・宰相となった秦檜は、南宋の安保を確保する功労者となったものの、現在においては中国人の大多数を占める漢族からは、売国奴として刑場に晒される像とともに罵倒されている。多民族国家であるはずの中国でこのような像があるのは、一種の表現の自由なのだろうか。

野心家・海陵王の南征

この和議が成立した後は暫く平和が訪れたものの、金側の違約により再び乱世へ逆戻り。西暦1150年に金の第4代皇帝として即位した海陵王・完顔迪古乃(テクナイ)は、漢族の文化にどっぷりはまる人物だったのですが、中国全土の支配の野望を持っていたからです。
ある日、天の使いが南宋を制圧するように言った、と触れ回り、周囲の反対を押し切って宋を完全に滅ぼすため南征の軍を起こすのですが、西暦1161年の采石磯(さいせきき)の戦いで南宋軍に敗北。その直後、軍中の契丹族の反乱に遭い、暗殺されてしまいます。

世宗の即位と和平の維持

海陵王の死後、首都の会寧府に居た完顔烏禄(ウル)は群臣に推戴され、第5代皇帝・世宗として即位。都を遼の旧都・燕雲十六州にある燕京(以降、金の中都)に遷都し、北進してきた南宋軍を撃破します。
国内を安定させた世宗は、君臣から叔父甥に上下関係を緩和した和議を宋との間で改めて結んで平和を取り戻すと、暴政と戦争により悪化した財政を再建。税制や行政の様々な改革を行ないました。この世宗の時代に金は最盛期を迎えます。

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紹興の和議よりも一歩引いた関係性としたことは、伝統的に自民族以外を蛮族とみなす漢民族の宋の立場に配慮したものであった。このためか、これ以降40年近く、宋と金の間で戦争は起きなかった。

辺境の狩猟民族から中華帝国の主へ

金は遼の地位を継承し歳幣を得ることが出来ました。そしてそれ以上に、遼よりも中国本土奥深くまで領有し、燕雲十六州の中心地である中都を首都としたことは、金を13世紀の東アジア最強の国家・中華帝国となったと言えます。
女真族の伝統的なテリトリーは元来、東北平原です。しかし、金の時代に漢民族の狡猾な謀略を理由に、その伝統を乗り越えて燕京(中都)以南の中国本土に足を踏み入れたことは、結果として女真族の世界を広げることになりました。

金の滅亡へ

栄枯盛衰は世の常であり、強力な金王朝も衰退し滅亡する時がやってきます。それは、金が優位性を持っていた軍事力の弱体化からでした。

金の弱体化

金の軍事力の主体である猛安謀克の女真族の集団は、金の中都への遷都に前後して、東北平原から中国本土へ次第に移住していきました。移住先で先住の漢族とは分かれて暮らしていましたが、生活水準を漢族と合わせるため物資を購入していた女真族は、次第に貨幣経済に飲み込まれ経済的に苦境に陥る一方で、人口比で1対7と少数派でもあることから、軍事的にも優位性を保つことが難しくなっていきました。
金の朝廷は対策として、女真族への経済優遇策を進めますが、思うように上手くいきませんでした。

新興のモンゴルにディスられる金の皇帝

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金の軍事力が弱体化する中、支配下のモンゴル高原においてテムジンが現れ、西暦1206年にモンゴル諸部族を統一。テムジンはチンギスハンと名乗り、中国北部を支配し豊かな金への反乱を企みます。
当時の金の皇帝は第7代・衛紹王(完顔果繩(ガジェン))だったのですが、彼が帝位に就く前に金からの使節としてチンギスハンと会う機会がありました。長身の美男子であるとされる彼は、武骨なチンギスハンから見て、線が細くて華奢に見えたのでしょう。目も合わせずに徹底して冷遇しています。

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衛紹王が後に金の皇帝に即位した際、チンギスハンは
「あんな愚鈍な輩も皇帝になれるのか」
と南に向かって唾を吐き毒づいたと言われている。

モンゴルによる反乱に屈従する金帝国

衛紹王即位から3年後の西暦1211年、モンゴル軍はほぼすべての兵士を投入して金への侵攻を開始。モンゴル軍に敗北を重ねる金の国内では、政変により衛紹王が軍の実力者・胡沙虎(こさこ)に暗殺され、その胡沙虎も別の軍人に暗殺されて混乱。中都近郊まで迫られた金は、モンゴル軍を前に和議を結ぶことになります。
和議と言ってもその条件は、中華帝国であった金にとっては屈辱的なものであり、

・哈敦(ハトン)公主の降嫁
・馬3000頭や金銀財宝を与える

というものでした。

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哈敦(ハトン)公主は、チンギスハンが小馬鹿にしていた衛紹王の娘であった。衛紹王がもし生きていたら、どのような思いでいただろうか。

中都の陥落と金帝国の半壊

和議によりモンゴル軍が北方に引き揚げた後、衛紹王の後を継いでいた金の皇帝・宣宗は、モンゴル軍の脅威に晒され易い中都から退避。中原の開封に遷都します。
宣宗は決して中都を放棄したわけではなく、自身の腹心や皇太子を残すのですが、中都防衛軍の一部だった契丹族による反乱が起こり、その反乱に手引きされる形でモンゴル軍が再侵攻。モンゴルとしては、無断で遷都したことは和議違反だという言い分です。
西暦1215年に中都は陥落し、金の勢力は、開封周辺の河南に限定されることとなりました。

故地・東北平原との分断

同年、遼東半島の守備将であり、モンゴルの力を背景に東北で反乱を起こしていた耶律留哥を攻撃していた蒲鮮万奴(ほせんばんど)は、中都の陥落により東北と中原が分断されたことを受けて自立。大真国を建国します。遼東半島から豆満江付近に転戦するも、最終的にはモンゴルに滅ぼされることとなりました。

金の孤立と滅亡

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西暦1224年に宣宗が崩御すると、三男・哀宗が皇帝に即位しますが、金の衰運は明らかでした。西暦1227年に隣国であった西夏がモンゴルに滅ぼされ、旧領の挽回を図りたい南宋がモンゴルと同盟を結ぶに至り、金は中原に孤立します。
将軍・完顔陳和尚率いる主力軍が善戦するも、西暦1232年に三峰山の戦いにおける敗北で主力軍が消滅。哀宗は包囲される首都開封を脱出して3年近く各地を逃げ回りますが、モンゴル軍と南宋軍に挟み撃ちされ、蔡州城に完全に孤立。
救出の望みが絶たれたことを悟った哀帝は、ストレスで限界だったのでしょう。軍の指揮官である従弟の末帝に譲位し自らは首を吊って自殺しますが、その半日後に蔡州城は陥落し、金軍は全滅。西暦1234年、金王朝は滅亡します。

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金は元は東北平原から興った国だったが、最後はモンゴル族と漢族の間に挟まれて、ホームレスのように故地を遠く離れた中原で滅亡したのは哀愁を感じる。

金王朝が滅んでも、女真族の民族国家の熱意は残る

金滅亡後、東北平原に残った大真国もモンゴル軍に敗れ、女真族国家は消滅。中原に移住した女真族の多くは戦乱で死滅もしくは漢化したと言われます。一方で、東北平原に残った女真族は自らの民族文化を固持。モンゴル改め元王朝の一地方行政機関・遼陽行省の支配下に置かれることになります。
元王朝が滅亡した後、中国の明王朝の間接的な支配下に入るものの、女真族国家としての熱意は残っていたのでしょう。スクスフ部出身の愛新覚羅ヌルハチにより、女真族は満州族と名を変えて、再度の黄金期を迎えることになります。それには、金王朝の滅亡からおよそ400年待たなければなりませんでした。

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