日本史歴史江戸時代

正徳の治を行った「新井白石」江戸時代の学者にして政治家を歴女がわかりやすく解説

3-5、白石の失脚

白石の政策は、旧来の悪弊を正すという、理にかなった筋の通ったものでしたが、東照神君以来、幕閣の老中らが行うとされてきた政治を譜代大名でもない側用人や儒者が中心におこなったことで、もともとの幕閣との間に深刻な軋轢が生じるように。

白石も、自分の知識や有能さには自信を持っており、私心なく信念をもって主張、そして反対があっても、最後には「上様の御意」で意見が通ることになり、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられたそう。

しかし将軍家宣は、健康に恵まれずに正徳2年(1712年)将軍就任4年にして50歳で死亡。残された後継ぎはまだ数え年の5歳の家継が7代将軍になり、引き続き白石は間部と共に政権を担当したが、幼君のもとでの政局運営は困難を極め、幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなったうえに、正徳6年(1716年)に家継が夭逝し、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍に就任後、白石は失脚して引退に。

家宣、継承についても白石の意見に

家宣は亡くなる直前、間部詮房を通じて新井白石に将軍継嗣を、「幼い子が後を継いで世が平穏であったためしがないので、自分の後は尾張吉通に将軍職を継がせて鍋松(家継)が成人後に譲るか吉通に任せる、または鍋松が成人するまで吉通に西の丸で政治を任せ、鍋松が亡くなった場合に将軍職を継ぐのと、どちらがいいか」と相談したが、白石は両案に反対し、鍋松が後を継いで、譜代大名が補佐するのを進言、家宣もその案を了承して亡くなったそう。

白石の著書

江戸時代初期の諸大名の家系図を整理した「藩翰譜」、「読史余論」、古代史についてあらわした「古史通」、シドッチの尋問からの「西洋紀聞」「采覧異言」、琉球の使節との会談で得たことをまとめた「南島志」や、引退後の回想録の「折たく柴の記」など。そして著書「古史通或問」では、邪馬台国を大和国と主張しているなど、儒者は日本の歴史よりも中国の歴史に詳しくなるものなのに、日本で初めて古代史を本格的に論じたことでも有名。

3-6、失脚後の白石

8代将軍となった吉宗は、白石が成し遂げた改革をことごとく元に戻したり破棄し、膨大な政策資料も廃棄処分に、献上した著書も廃棄したということ。これは吉宗が、白石の方針が間違っていると考えたからで、正しいと思ったことには理解を示して廃止しなかったそう。

また、白石が使っていた江戸城中の御用控の部屋や神田小川町(千代田区)の屋敷も没収、白石は深川一色町の屋敷を経て、幕府が享保2年(1717年)に与えた今と違い麦畑の広がっていたという千駄ヶ谷の土地に隠棲することに。

そして白石は晩年、著作活動に勤しみ、享保10年(1725年)、「采覧異言」の終訂を完了した後、69歳で死去。

あくまで学者として家宣に期待して政策を助言した白石

新井白石は、学者として著述や塾を起こして後進の指導をしたりというのではなく、使えた主君に期待して講義を行い、自らが豊富な知識をもとに考えた良い世の中の実現を願った人でした。

その時代には珍しく経済もわかるし、まわりにはあまり有能な人がいなかったせいか、ほぼオールマイティーに活躍、将軍となった主君家宣にも家宣の側近中の間部詮房に頼りにされていましたが、自分の信念を貫くために周りのことを考えないアスペルガー症候群的気質もあったせいか、家宣の短い治世とその息子家継の夭折であっさりと失脚、晩年は著述の日々に勤しんだよう。

儒者には珍しく日本の歴史にも深い関心を持ち、西洋にも興味を持ったなど幅広い探求心を持った白石は、政治家としてよりも学者としてもっと評価されるべきかも。

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