日本史歴史江戸時代

正徳の治を行った「新井白石」江戸時代の学者にして政治家を歴女がわかりやすく解説

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へええ、給料が少ない分、現金とか本で補うなんて気を使ってたんだな。

3-1、白石、綱豊の将軍就任で側近に

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宝永元年(1704年)、5代将軍綱吉は実子に恵まれず、甥である綱豊を将軍世子と決定し、43歳の綱豊は家宣と改名して江戸城西の丸に入ることに。

そして宝永6年(1710年)、綱吉の死で家宣は48歳で6代将軍に就任。家宣は将軍就任後、綱吉の側用人だった松平輝貞や松平忠周を解任、そして大学頭の林信篤を抑えて代わって白石に大学の頭の大半を代行させ、白石、間部詮房らを自身の側近として引き続き重用することに。

3-2、白石、正徳の治を行う

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将軍家宣の時代に白石が行った政治改革は、正徳の治(しょうとくのち)と呼ばれることに。

しかし肝心の、白石はわずか500石取りでのちに1000石に加増されたとはいえ本丸寄合という無役の旗本という身分に過ぎず、あくまで儒者として仕えたので、江戸城の御用部屋に入ったり、直接将軍家宣に会える資格なし。

そこで家宣からの諮問を、側用人間部が白石にまわして、白石がそれについて回答するという形になったということ。幕閣でも側用人でもない一介の旗本で将軍侍講が、幕政の運営にこれほどまで関与したのは例がないということ。

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ほとんどの政治に必要な人が直接トップにものが言えないなんて、身分制度ってめんどくせえな。

3-3、白石の行った主な政策

経済政策では、5代将軍綱吉の時代に荻原重秀の通貨政策で大量に鋳造された元禄金銀、宝永金銀を回収、慶長金銀の品位に復帰させるなど良質の正徳金銀を鋳造、インフレの沈静に。しかし実際には経済成長にともなって自然な通貨需要増を行った綱吉時代の政策を無にすることになったといわれ、白石が日本橋に高札を立て一般に意見を求めたそう。

朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するために朝鮮通信使の待遇を簡略化し、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」に変更。

幕府を開いて以来の長崎貿易では、大量の金銀が海外に流出し長崎貿易が困難となり、長崎の地では困窮して人口の減少や打ちこわしが相次いだので、白石は海舶互市新例で長崎貿易を縮小。

白石は、ローマ教皇の命令でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたヨハン・シドッチを取り調べて、本国送還を建言。また、白石はシドッチの取り調べから得たことをもとにした「西洋紀聞」「采覧異言」を書き著したということ。

3-4、閑院宮家の創設

当時の朝廷は、皇位継承予定者以外の親王は、世襲親王家を継承または五摂家への養子などの例外を除いて、続々と出家して法親王が慣例。

そして承応3年(1654年)、後光明天皇が22歳で崩御後、天皇の近親の皇族男子が出家したせいで後継が問題に。平安時代以来、出家した皇族が還俗して天皇に践祚した例はなく、この時院政で実権を握っていた後水尾法皇は19皇子の生後間もない高貴宮(後の霊元天皇)の践祚を提案。しかし幼いために有栖川宮を継承していた良仁親王が高貴宮が成長するまでの中継ぎとして後西天皇に。

こういったことがあったせいで皇統の断絶を危惧した白石が、徳川将軍家の御三家のように、皇室にも新たな宮家が必要と将軍家宣に提言、東山天皇も家宣の舅の関白近衛基熙を通じて、実子の直仁親王に新宮家創設の財政的支援を要求。こうした経過で、宝永7年(1710年)、直仁親王を初代とする新宮家創設が決定となり、8年後に霊元法皇から直仁親王に対して閑院宮の宮号と1000石の所領が下賜。寛永2年(1625年)の有栖川宮(高松宮)創設されて以来の新宮家誕生となり、その後この宮家からは光格天皇が。

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