日本史歴史江戸時代

正徳の治を行った「新井白石」江戸時代の学者にして政治家を歴女がわかりやすく解説

1-5、白石、浪人中に婿養子の誘いも断る

白石は浪人後も、独学で儒学を学んでいたが、豪商の角倉了仁から、知人の娘を娶って跡を継がないかと誘われたり、河村通顕(天下に並ぶ者がない富商といわれた瑞賢の息子)からも、当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と家を提供という誘いがあったが、白石は好意に感謝はしたが、幼蛇の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になると何尺にもなるからとたとえを引いて断ったそう。

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ふうん、一生左団扇かもしれないのに断るなんて、白石は本物の志を持った学者の鏡だな。

2-1、白石、木下順庵と出会う

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Hannah – This portraiture was carried on the book which was written by Inoue tetsujiro(井上哲次郎), パブリック・ドメイン, リンクによる

ずっと独学だった白石ですが、貞享3年(1686年)に朱子学者の木下順庵に出会って入門。ふつうは入門するときに束脩(入学金)がかかるのですが、白石は入学金なしで弟子というより客分扱いとするなど、順庵は最初から白石に目にかけていたそう。順庵の門下生には、他に雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海など、後の高名な学者たちが集結していて、そのなかでも白石は木門の五先生とか木門十哲と称されるように。

また師匠の順庵は、白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官に推薦。しかし同門の岡島忠四郎が、自分は加賀に年老いた母がいるので、代わりに私を推薦してくれるよう順庵先生に頼んでもらえないだろうかということで、白石は岡島に加賀藩への仕官を譲ることに。

2-2、順庵、白石を甲府藩主へ推挙

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不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる

順庵は、元禄6年(1693年)、37歳の白石を甲府藩主への仕官を推挙。甲府宰相と言われた徳川綱豊(つなとよ)は最初は儒家の名門の林家に弟子の推薦を依頼したのですが、なんと当時の綱豊は将軍綱吉から疎んじられていて林家も綱豊には将来性がないと見限られて弟子の推薦も断られたので、順庵に依頼が回ってきたそう。


このとき甲府藩が提示したのは30人扶持の俸禄で、順庵が、白石ほどの実力者にこれは薄禄とかけあったので、甲府藩かは40人扶持にアップ、それでも順庵は不満だったが、白石は綱豊の将来性を見込んで、40人扶持での推薦で了承したということ。

2-3、白石、綱豊に気に入られる

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有朋堂書店 – Japanese Book 『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』, パブリック・ドメイン, リンクによる

甲府宰相と言われた綱豊(のちの家宣)は、3代将軍家光の次男の息子で、5代将軍綱吉の甥にあたり、5代将軍綱吉の子供が夭折したので次の将軍になる可能性が高い人でした。

綱豊は実際に白石の進講が、既存の儒学の枠にとらわれず斬新なところが気に入って重用するようになったそう。また綱豊は白石から、初代将軍家康、曽祖父の2代将軍秀忠、祖父の3代将軍家光の事跡などを熱心に学び、慶長5年(1600年)から延宝8年(1680年)に至るまでの諸大名の家系図と略伝を10か月でまとめさせて「藩翰譜」と題して常に手元に置いたということ。

綱豊は、白石の俸禄が軽いこと、それに学者として書籍代などがかかるのを承知していたので、ことあるごとに白石に本や現金を下賜したということ。そして綱豊が取り立てた側用人間部詮房が白石の学識に心酔し、何事にも白石の意見を求めてきたということ。

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